EP.20 封と掛金
「記録を、預かる」
オルドさんが、リアの前に立った。
門の中で待たされている船から、索をたぐる音がした。岸壁の石は、日が差しても乾かない。リアの指先が、紙の端を濡らさないように、板の縁だけをつまんでいた。
リアは、板を胸から下ろした。配置表と、点検欄の紙。一枚ずつ、オルドさんの手に渡す。手は迷わなかった。
「帳面も」
リアは帳面を開いた。
頁の間から、折り畳んだ紙が一枚、少しだけ顔を出していた。
リアはそれを抜いた。ゆっくりと。角を折らないように。
見取図だった。行った所だけが細かく描かれて、行っていない所は白い紙。上流の端に、八十歩ぶんだけ実線になった点線。
「これは、私のものです」
オルドさんは、見取図を見なかった。帳面を見た。
「記録の頁だけでいい」
リアは頷いて、頁をめくった。十日。十三日。十五日から十七日。十九日。二十日。今朝。自分の指で一つずつ示していく。
十九日の頁で、リアの指が、ほんの少しだけ止まった。
その日、俺は辞めた。あの頁に何が書いてあるのか、俺は知らない。読めないし、聞いたこともない。
リアの指は、すぐに次の頁へ移った。オルドさんは、示された頁だけを帳面から外した。
油紙を広げる。配置表と、点検欄と、外した頁を重ねて包む。細い紐を二重に回して縛る。
それから、胸の札を外して、その角を紐の結び目に強く押しつけた。濡れた紐に、札の角の形がくぼみになって残った。
封だ。
荷車の脇で、ラートさんがそれを見ていた。濡れた外套の裾を、片手で一度払った。払っても、裾は重いままだった。
オルドさんは自分の帳面に何かを書き、同じことを小さな紙にもう一度書いて、リアに渡した。
「預かりの控えだ。何を預かったか、書いてある」
リアは控えを受け取り、受付の控えと重ねて、残りの帳面に挟んだ。
リアの手の中に、見取図と、白い頁ばかりになった帳面が残った。
記録を渡すリアの手は、少しも迷わなかった。見取図を抜くときだけ、ゆっくりだった。
十一日、橋の上で、リアは初めてあの見取図を俺に見せた。行った所と、行っていない所。行っていない所に、自分で行って、自分で描きたい、と言った。
見取図の白い所は、まだ白い。
リアは、見取図を二つに折って、胸の内側にしまった。帳面とは、別の場所に。
上の道の扉の前では、水門番が、板を錠に当てては離していた。首を振るのが、ここからも見えた。
*
オルドさんは、ラートさんのほうへ向いた。
「帳場の点検原簿と、配置表の控えと、十九日に受け取った写し。誰も、手を入れるな」
ラートさんは、黙って聞いていた。
「申立ての後に記録に手を入れれば、それも調べる」
少しの間があった。
「記録は、正確なほうがいい」
ラートさんは、そう言った。十七日にも、十九日にも、聞いた言葉だった。
それから、もう一言。
「私は、書き換えない」
オルドさんは、それ以上は何も言わなかった。
「支局に、書付を送る。警備と、帳場の封だ」
オルドさんは帳面の頁を一枚破り、立ったまま書いた。インクが紙に少しにじんだ。紙の端を、指で押さえて風から守っていた。
「誰か、走れる者は」
岸壁を見回す。ローデルの者は、申立ての相手方の人間だ。トーマとリアと俺は、聞かれた者で、ここを離せない。
走れる者。
体が、先に船の列のほうへ向いていた。
足が動いていた。船着場の石は濡れていて、一度、靴の底が滑った。手をついて、また走った。
順番を待つ船は、朝と同じ場所に並んでいた。鉤竿の船頭は、自分の船の舳先に立っていた。こっちを、ずっと見ていたらしかった。
「頼みがあります」
息が切れていた。
「河務局の支局まで、これを。監察官の、書付です」
船頭は、俺の後ろの岸壁を見た。水に沈んだ継ぎ目と、その向こうの三人を。
「河務局までか」
「はい」
船頭は船べりを跨いで石の上に下りた。
「……手間賃は、いらん。見てたからな」
オルドさんのところまで一緒に戻り、書付を受け取ると、船頭は懐に入れて、水路沿いの道を走っていった。ずんぐりした背中が、思ったより速く小さくなった。
見てたからな。朝から、船の上で、ずっと見ていたのだ。岸壁で何があったのかを。
背中が見えなくなるまで、俺の足は、まだ前に出たがっていた。支局までの道なら、俺も知っている。二十日に、あの道を下ってきた。
足を止めた。
俺は、水際に戻った。俺が聞かれることは、まだここにある。
*
門が静かになってから、奥の声が届くようになっていた。
「一人、手、やった!」
サナの声だった。
奥を見る。しゃがんでいた他班の一人が、片方の手首をもう片方の手で押さえていた。しゃがみ直そうとして、樽と板の間に手をついたらしい。背の高い男が、その肩を支えている。
男の顔は、ここからでは見えなかった。押さえた手首の先が、だらりと下がっているのだけが見えた。
リアのペンが動いた。時刻と、サナの声のとおりに。書きながら、リアは一度だけ奥のサナを見た。ペンを握る指の関節が、白くなっていた。
トーマが、継ぎ目の際で怒鳴った。
「動かすな! 座らせとけ!」
背の高い男が、手を痛めた男を足場の上に座らせた。サナが、その横にしゃがんだ。赤いスカーフが、低くなった。
まっすぐ、根元。十日の朝、楔の入れ方を教えてくれたのはサナだった。そのサナが、今は水の向こうで、誰かの手首を押さえている。
俺は、継ぎ目の水を見た。
藁くずが一本、継ぎ目の上に浮かんでいた。ゆっくりと、門のほうへ回っていく。回って、戻ってきて、また回る。
七時には、継ぎ目の上に一握りあった。九時半には、脛の上だった。今は、膝ほどある。茶色い水が、継ぎ目の上で平らにたまっていた。流れは見えない。見えないのに、深くなっていく。
トーマは、継ぎ目の際に立ったままだった。水は、トーマの膝の下まで来ていた。トーマは、奥の三人から目を離さなかった。
奥の三人は、二人と一人になった。
動ける手が、一つ減った。樽を抱えられる手も、索を握れる手も。
*
上の道の扉の前には、まだ水門番がいた。
オルドさんが、封をした包みを雨具の内側にしまって、そちらを見上げた。
水門番は、自分の板を、扉の錠に平らに当てた。何度目かは、分からない。
何も起きなかった。
掛金は、動かなかった。
水門番は、板を当て直した。手のひらで押しつけるように。九日の朝、作業灯に手を当てたとき、トーマは言った。板が手に吸いつく感じがあれば、つながった印だ。
吸いつく音は、しなかった。
錆の匂いがした。台の大きな輪から、水が一滴ずつ垂れていた。
水門番は、柵の下を覗き込んだ。台の足元に、木の箱がある。器具の蓄力材を収めた箱だ。
箱の半分が、茶色い水に浸かっていた。
「……箱が、水をかぶってる」
水門番の声は、低かった。
「つながらん」
オルドさんが、上の道へ上がった。扉の錠には触らずに、錠と、箱と、箱を浸す水を、順に見た。測る人の見方だった。
荷車の脇で、ラートさんが柵の下を見た。何か言いかけて、言わなかった。
トーマが、継ぎ目の際から台を見上げた。
「手動解除だ」
少し間を置いて、言った。
「把手は、内側だ」
柵の内側。奥の三人の側。
オルドさんが、水門番を見た。
「解除の資格は」
「俺は、板で開けるだけだ。解除は、補助の資格が要る」
オルドさんは、トーマを見た。
「俺だ」
トーマは、それだけ言った。
「内側まで、どう行く」
トーマは答えなかった。足元の水を見た。継ぎ目の上の、膝ほどの水を。
手動解除の資格を持っているのは、トーマだ。トーマは、手前にいる。膝ほどの水の、こちら側に。
水を渡らずに出られる道が、一つだけあった。
その道の鍵が、水に浸かっていた。
*
水門番は、扉の前で板を下ろした。
オルドさんは、扉を見た。それから奥を見て、トーマを見た。何も言わなかった。急いで何かを決める顔ではなかった。
俺は、柵の内側を目でたどった。
台の柱の、低い所。水面の少し上に、鉄の把手が一本、突き出ていた。錆びて、黒い。
把手の下で、水が柱を舐めていた。把手から水面まで、指三本ほど。さっき継ぎ目の上に一握りあったのと、同じように、その幅も、少しずつ細くなっていく。
その把手の、腕一本ほど先に、サナがしゃがんでいた。手を痛めた男の横に。
サナが、顔を上げた。こっちを見た。遠くて、顔は見えない。けれど、目が合ったのは分かった。
サナは、把手に気づいていない。気づいても、回し方を知らない。
トーマは、回し方を知っている。けれど、手が届かない。
十日の朝を思い出した。
崩れた樽の山の向こうが、トーマからは見えなかった。俺には見えた。俺は、白線の端から叫んだ。トーマ、鉤を下ろせ。右。もう少し右。止め。下ろせ。サナ、その鉤を、右から二つ目に。
見えない人と、手の届く人がいた。その間で、俺は声を出した。
あのときは、樽の山を挟んでいた。
今は、水を挟んでいる。
索の切れ端を、握っていた。結び目が五つ、手のひらに当たっていた。
俺は、トーマと、把手と、サナを見比べた。
知っている人と、手の届く人が、水の両側にいた。




