EP.21 見える場所
水路沿いの道で、足音がした。
石を蹴る、重い靴の音。二人分。
振り向くと、河務局の上着を着た男が二人、走ってくるところだった。紺の上着の胸に、オルドさんと同じ形の札が揺れている。腰には、短い棒。
その後ろから、鉤竿の船頭が来た。ずんぐりした体を前に倒して、肩で息をしていた。
警備の二人は、オルドさんの前で止まった。
「この足場に、誰も入れるな」
オルドさんは、足場の入口を顎で指した。
「ローデルの者は、誰もだ」
一人が、足場の入口に立った。俺のすぐ横だった。濡れた石に靴を置き、足場のほうへ体を向けて、腕を組む。もう一人は、荷車の所へ行った。
荷車の脇にいた他班の一人が、荷車の縁に手を置いたまま、動かなくなった。さっきまで、樽を下ろしたり上げたりしていた手だった。その目は、警備ではなく、奥を見ていた。奥には、同じ班の男がいる。手首を押さえて、座っている。
ラートさんは、警備を見た。何も言わなかった。外套の裾から、まだ水が垂れていた。警備が荷車の横に立つと、ラートさんは一歩だけ横へどいた。自分の場所を、空けたように見えた。
順番を待つ船の列で、立ち上がって見ている人が増えていた。誰も声を出さなかった。
警備の一人が、継ぎ目の際に立つトーマに目を向けた。一歩、踏み出しかけた。
「その男は、いい。資格がある」
オルドさんが言った。警備は、足を戻した。
鉤竿の船頭が、俺の横まで来た。膝に手をついて、何度か大きく息を吸った。
「届けた」
船頭の手は、濡れていなかった。走ってきた汗で、首だけが光っていた。
それだけ言って、船頭は船の列のほうへ戻っていった。振り返らなかった。
足場の入口には、警備が立っている。荷車の所にも。オルドさんがいて、水門番がいて、トーマがいて、ラートさんがいる。
止める人が、また増えた。
止める人は、みんな、岸のこちら側にいた。
*
「奥の者のことを、言え」
オルドさんが、リアに言った。
リアは、帳面を開いた。記録の頁を外した残りの帳面は、白い頁ばかりだった。リアは、その白い頁を開いたまま、目を落とさなかった。奥を見ていた。
「サナは、台の柵の脇です。しゃがんでいます」
一つずつ、指を折るように。
「手を痛めた人は、サナの横に座っています。痛めたのは、右の手首です。左で押さえています」
「背の高い人は、船べりにいます。船に、手をかけています」
少しの間があった。
「足場の上に、樽が四つ。船の上に、まだ十一あります」
オルドさんは、自分の帳面に書いた。
「ほかに、怪我は」
「分かりません」
リアは、すぐに答えた。
「ここから見えるのは、手首だけです。足は、見えません」
オルドさんは、そのとおりに書いた。
「継ぎ目が沈んだ時刻は」
「九時十五分です」
九時十五分。俺が水際へ走って、奥に、三人、と叫んだ時刻だ。あのとき、リアのペンは止まっていた。止まる前に、時刻だけは書いていたのだ。
「配置表は、封の中だ」
「はい。でも、今朝、書いたので」
リアは、帳面を閉じなかった。白い頁の上に、指の腹を置いたままだった。インクの跡が、指先に黒く残っていた。
リアは、自分のことは何も言わなかった。仮保護のことも、今日から止まる配置のことも。
毎朝六時、リアは戸口の机で人数を数えた。十日も、十三日も、二十日も。十七日、ずっと空欄だった荷受け記録の人数の欄を、リアは初めて埋めた。書く欄が、ありましたので、と言った。
リアは、帳面を見ないで言った。今朝、自分の手で書いた数だからだ。
樽が四つ。十一。右の手首。
封の中に入っても、数は、書いた人の中に残っている。
*
台を見た。
門の脇の、大きな輪の付いた台。輪の軸から、水が一滴ずつ落ちている。台の柱の根元で、茶色い水が渦を作っては消えた。錆の匂いが、ここまで届いていた。台の水側には、腰の高さの柵がある。奥の三人がいる足場は、その柵のすぐ外で終わっている。
柵を越えれば、台の上には入れる。
けれど、台から上の道へ出るには、石段しかない。台の奥から石段が上へ続き、その上に、あの扉がある。扉の両脇は、人の背より高い石の壁だ。石は濡れて黒く、手をかける所がない。
扉が開かなければ、台の上に入っても、そこで行き止まりになる。
水門番と、オルドさんと、トーマが、足場の入口の横に集まっていた。トーマは、継ぎ目の際から戻ってきていた。脛から下が、ずぶ濡れだった。
「手動解除は、三つだ」
トーマが言った。低い声だった。俺のところまで、聞こえた。
「一つ。台の上の、止水の弁を閉める」
トーマは、台の上を指さした。輪の横に、もう一つ、小さな輪の付いた弁があった。
「門の力を止める。止めないで掛金を外すと、門が動く」
「二つ。柱の把手を、下へ引く。掛金の軸が外れる」
柱の低い所の、錆びた把手。水面まで、指三本ほど。
「三つ。扉の外から、掛金を押し戻す」
トーマは、石段の上の扉を見上げた。
「俺がやる」
それから、水門番のほうを向いた。
「弁は、固い。この水なら、なおさらだ。片手じゃ回らん。両手で、体ごとだ」
水門番が、黙って頷いた。
一つ目と、二つ目は、柵の内側。奥の三人の側。
三つ目は、扉の外。こちら側。
三つ。
十日の救助も、三つだった。索で樽の山を止める。空の鉤を下ろして、要の樽を吊る。隙間から抜ける。トーマは、三つより多い手順を、人に渡さない。
オルドさんが、自分の帳面を開いた。
「柵を越えて台に入ることを、監察官として許す」
水門番が、オルドさんを見た。
「危険区域だ。記録は、俺がつける」
オルドさんは、立ったまま書いた。十時十分。監察官の許可により、台への立入り。インクがにじんだ。
水門番は、しばらく黙っていた。両手を、上着の裾で一度拭った。それから、頷いた。
命がかかってなきゃ、開けん。かかってても、監察官の記録がいる。二十一日、水門番はそう言った。今、記録をつけると言ったのは、監察官のほうだった。
水門番が、上の道へ上がって、扉の前の石段を空けた。トーマが、その後を追った。濡れた靴が、石段を上っていく音がした。
道が、あった。開け方も、あった。
向こう側の手に、手順が届けば。
*
トーマは、扉の外に立った。
石段の上から、身を乗り出して下を覗く。台のほうへ、首を伸ばす。
石の壁が、トーマの視線を遮っていた。壁の向こうの台の上も、柱の低い所の把手も、上の道からは見えない。
トーマは、一度体を引いて、別の角度から覗いた。
「……見えん」
水門番も、横から覗いて、首を振った。
トーマは、振り返った。上の道から、岸壁を見下ろす。オルドさん、リア、警備、ラートさん。それから、水際の俺。
「見えるのは、誰だ」
俺は、自分の立っている所から、上を見た。石段の上の扉の前に、トーマが立っている。
それから、奥を見た。腰の高さの柵の内側に、台の柱が見える。柱の低い所の、錆びた把手。弁の小さな輪。その横に、赤いスカーフ。
両方が、見えた。
足元の水が、冷たかった。ここは、足場の入口の横。船着場のいちばん端だ。水は足首を越えていた。ここに立っていたから、見える。
「見えます」
声が、少しかすれた。
トーマは、石段の上から俺を見下ろした。
「なら、お前が言え」
トーマは、一つずつ区切って言った。
「俺の言ったとおりに、向こうへ」
十日、白線の端から叫んだ。鉤を下ろせ。右。もう少し右。サナ、その鉤を、右から二つ目に。あのときは、誰にも頼まれていなかった。考えるより先に、声が出ていた。
今日は、頼まれた。
「言います」
それから、付け足した。
「言われたとおりに」
トーマが、石段の上で頷いた。
「聞こえるか」
普通の声だった。水の音の上を、ちゃんと届いた。
「聞こえます」
俺は、奥を向いた。息を吸った。
「サナ!」
赤いスカーフが、跳ねるように上がった。サナが、こっちを見た。
「聞こえる!」
サナの声だった。早口だった。いつもの、サナの早口だった。
届く。上からも、奥からも。俺の立っている所で、二つの声がつながる。
自分の言葉は、足さない。見た数だけを言ったのと、同じだ。
オルドさんが、俺を一度見た。止めなかった。帳面に、何か書いた。
リアも、俺を見ていた。何も言わなかった。帳面の白い頁に、ペンの先を一度だけ置いて、すぐに上げた。
足の指の感覚が、また遠くなっていた。俺は、足場の入口の石に、かかとを押しつけた。ここから動かない。ここに立っていなければ、両方は見えない。
*
奥で、ぎし、と音がした。
樽の船だった。
また、水に持ち上げられていた。船べりが、ゆっくりと上がっていく。台の柵の高さを、越えた。
船の上の樽が、一つ、ごとりと動いた。船が傾いている。台のほうへ。
樽と樽がぶつかる、鈍い音がした。十一の樽。リアが、さっき言った数だ。どれか一つでも転がり落ちれば、柵の内側へ落ちる。サナたちが、これから入る場所へ。
背の高い男が、船べりから手を離して、船を見上げた。それから、両手を船べりに当てて、押し返そうとした。持ち上がる船を、腕で。
「船から、離れろ!」
上の道から、トーマの声が落ちてきた。背の高い男の手が、船べりから離れた。一歩、下がった。
サナが、手を痛めた男の肩を抱えて、柵のほうへ身を寄せた。手を痛めた男は、右の手首を胸に押しつけたまま、船を見上げていた。顔が、白かった。
ぎし。
索が、もう一度鳴った。
俺は、目を凝らした。船べりの金具。そこから岸壁の環へ、索が一本、張っている。結び目と金具の間。
二十一日、あの船の索には、余りがなかった。俺が声を上げて、乗り手の若い男と一緒に、一握りの余りを残して結び直した。
けれど、今朝、この船は、船着場から門の脇へ回された。そのとき、誰かが結び直したのだ。
結び目と金具の間が、見えた。
柱の把手を見た。さっきは、水面まで指三本あった。
今は、指二本。
その索には、余りが、なかった。




