EP.22 結びの声
「トーマ!」
首の後ろが痛くなるほど、俺は、上の道を見上げた。横で、警備の男が腕を組んだまま、俺と奥を見比べていた。石段の上、扉の前に、トーマが立っている。こっちを見下ろしていた。
「船べりが、柵より高い」
一つ。
「索に、余りがない」
二つ。
「樽が、柵のほうへ寄っています」
三つ。
言いながら、奥から目を離さなかった。樽の船は、水に持ち上げられたまま、台のほうへ傾いていた。持ち上がろうとする船を、短い索が岸壁の環のほうへ引き下ろしている。その分だけ、船が斜めになる。
ごとり、と樽が動いた。
もう一つ、ごとり。
十一の樽が、少しずつ、柵の側へ寄っていく。荷札の形が見えた。丸に、縦の線が二本。ローデルの二番倉の札だ。
荷車の脇で、ラートさんが樽の船を見ていた。自分の商会の樽だ。この樽を揚げるために、今朝、あの人は奥に三人を置いた。ラートさんは、何も言わなかった。船べりを越えて落ちれば、落ちる先は柵の内側だ。これから人が入る場所。
索が、ぎし、と鳴った。濡れた麻の索が、限界まで張ったときの音だ。二十一日に、同じ船で、同じ音を聞いた。
トーマは、しばらく黙っていた。見えない場所の話を、頭の中で組み立てている顔だった。
「環に、ひと巻きしろ」
一つ目。
「巻いたら、結び目をほどいて、少しずつ送れ」
二つ目。
「一握り残して、結び直せ」
三つ目。
トーマは、見ていない。俺が言った三つだけで、決めた。
俺の言葉が、トーマの目になっている。
足しても、減らしてもいけない。
俺は、奥を向いた。息を吸った。背の高い男が、船べりから一歩離れた所で、こっちを見ていた。
「環に、ひと巻き!」
背の高い男の顔が、こっちへ向いた。
「巻いたら、結び目をほどいて、少しずつ送る! 一握り残して、結び直す!」
トーマの言ったとおりの順番で。トーマの言ったとおりの言葉で。
背の高い男は、一度だけ頷いた。岸壁の環のほうへ、身を低くして歩いていった。
オルドさんが、俺の後ろで帳面に書く音がした。何を書いているのかは、分からなかった。俺が言った言葉を、そのまま書いているのかもしれなかった。
*
環は、岸壁の石に打ち込まれた鉄の輪だった。索は、そこへ結ばれている。水の下に半分沈みかけていた。
背の高い男は、膝まで水に浸かって、環の横にしゃがんだ。索の余った端をつかみ、環にもう一周、巻きつけていく。太い腕に、筋が浮いた。
巻きつけておけば、結び目をほどいても、索は環の上を走らない。巻いた所が、船の重さを受け止める。
サナは、柵の脇で、背の高い男の手元を見ていた。自分の両手を、膝の上で握ったり開いたりしていた。
そのときだった。
座っていた手首の男が、立ち上がった。
背の高い男の横へ、ふらつきながら寄っていく。手伝おうとしている。右の手首は、胸に押しつけたままだった。
男は、左手で、索を握った。
船が、また少し持ち上がった。索が張った。
男の左腕が、ぐいと引かれた。足が、濡れた足場の上で滑りかけた。
片手では、持っていかれる。
トーマに聞いて、答えを待つ時間はなかった。トーマには、見えていない。見えているのは、俺だけだった。
言う。自分で、言う。
そう決めたとき、なぜか、今夜のことが浮かんだ。
全員が、石段を上って、上の道へ出る。船宿の低い天井の下で、粥を食べる。サナが、濡れた袖を絞る。手首の男が、左手で椀を持つ。
名前は、口にしなかった。
胸の奥で、ことり、と掛け金が落ちた。
見ていたものが、一度に並んだ。
右の手首。左手一本。サナの両手は、空いている。環のひと巻きは、まだ締まっていない。トーマの二つ目の手順の前。
言う順番で、並んでいた。
「その手で、握るな!」
声が、詰まらずに出た。
手首の男が、びくりとこっちを見た。
「サナ、代わって! 両手で!」
サナが、もう動いていた。手首の男の脇をすり抜けて、索に両手をかける。
「巻いたところを、押さえて!」
サナは、環に巻かれた索の上に、両手を重ねて体重をかけた。
手首の男の左手が、索から離れた。男は、その場に尻もちをついた。背の高い男が、ひと巻きを締めた。索が、環の上で止まった。
俺は、上を見た。
「手を痛めた人が、索を握りました。サナに、代わらせました」
トーマは、少しの間、黙っていた。
「……それでいい」
息を吐いた。自分が、息を止めていたことに気づいた。
手首の男は、尻もちをついたまま、自分の左手を見ていた。それから、こっちを見た。怒ってはいなかった。ただ、手が空になったのを、確かめている顔だった。
名前を、言わなかった。
十日の朝も、読取所でも、そうだった。
けれど、今は、それを考える時間がない。
*
「ほどいて、送って!」
俺は、奥へ言った。
背の高い男が、金具の結び目に手をかけた。サナが押さえる巻きの手前で、結び目をほどく。索が、一瞬、跳ねようとした。サナの両腕に、力が入るのが見えた。巻いた所が、船の重さを受けた。
背の高い男は、索を少しずつ、少しずつ送り出した。
船が、ゆっくりと水平に戻っていく。
柵のほうへ寄っていた樽が、止まった。ごとり、という音が、もう聞こえなかった。
代わりに、船腹を水が叩く音がした。ぴちゃ、ぴちゃ、と、小さく、規則正しく。船が、船の形で浮いている音だった。
サナの腕が、震えていた。巻いた索の上に重ねた両手が、白くなっていた。それでも、サナは手を離さなかった。
「一握り、残して!」
背の高い男が、手を止めて、こっちを見た。
「余り?」
知らないのだ。
十五日の上流で、俺も知らなかった。船頭に言われて、言われたとおりにした。十七日の朝、オルドさんが、その余りを手で握って言った。一握り。水が戻っても、足りる。
二十一日、水門の下で、余りは水のためだと分かった。
「水が上がっても、足りるように!」
背の高い男は、索と金具の間を、握りこぶし一つ分空けた。
「手首を、二度返す!」
男の太い指が、索を回した。手首が、一度、二度、返った。結び目が、締まった。
上の道から、トーマの声が落ちてきた。
「……忘れてないな」
十四日前、荷揚げ場の隅で、トーマに習った結びだ。十回目で、やっと締まった。
結びは、忘れるな。四日前、トーマは階段の下でそう言った。
十四日後、俺の声で、知らない人の手が、同じ結びを結んだ。
結びは、俺の手から離れても、結びのままだった。
そのとき、船がもう一度、水に持ち上げられた。
索が、張りかけて、止まった。結び目と金具の間の一握りが、ゆっくり伸びて、そこで止まった。船は、傾かなかった。
サナが、押さえていた両手を、そっと離した。巻きの上に、赤い手の跡が残っていた。
*
「一つ目だ。弁」
トーマの声がした。
「入れ」
オルドさんが言った。帳面に、何か書き足していた。
「一つ目! 弁を、閉める!」
俺は、奥へ言った。
「手首の人は、そこで動かないで!」
手首の男は、尻もちをついたまま、頷いた。
背の高い男が、腰の高さの柵に手をかけて、越えた。柵の木は濡れて黒く、男の手のひらが一度滑った。二度目で、体が向こうへ渡った。サナが続いた。柵の上で、濡れた袖が木に擦れる音がした。赤いスカーフが、柵の向こうへ消えて、また現れた。濡れた台の板の上に、二人が立った。
台の上の、大きな輪の横。小さな輪の付いた弁。
二人は、弁の輪に手をかけた。背の高い男が両手で、サナも両手で。四本の手が、一つの輪をつかむ。
弁は、固い。両手で、体ごとだ。トーマはそう言った。
「せえの、で回せ」
トーマの声。
「せえの、で回して!」
俺の声。
「せえの!」
二人の体が、輪ごと傾いた。
動かなかった。
サナの足が、濡れた板の上で滑った。背の高い男が、片腕でサナを支えた。
「もう一回!」
トーマの声。俺の声。
「せえの!」
ぎ、ぎぎ、と、錆びた軸が鳴った。
輪が、回った。
一回、二回。二人の体が、輪の動きについていく。
台の奥で、ずっと鳴っていた音があった。低い、水の唸りのような音。門の中を流れる、水の力の音。
それが、細くなった。
細くなって、止んだ。
上の道で、トーマが扉に手のひらを当てていた。目を閉じていた。石と鉄を伝ってくる震えを、手のひらで聞いているのだ。
震えが、消えたらしかった。
「……止まった」
音が止んで、初めて、ずっとその音がしていたと気づいた。朝からずっと。門が水を落とすのを止めた後も、ずっと。
弁の輪から手を離して、サナが、台の上に座り込んだ。肩で、息をしていた。
門の中で待たされていた上りの船から、誰かが「静かになったぞ」と言うのが聞こえた。水の音だけが、残った。柱を舐める水の音。船腹を叩く水の音。
背の高い男が、濡れた手のひらを上着で拭って、柱の低い所を見下ろした。把手を探していた。
*
柱の把手を見た。
錆びた、黒い鉄の把手。そのすぐ下で、茶色い水が柱を舐めている。
把手から水面まで、指一本。
さっきは、二本あった。
「二つ目だ」
トーマの声が、上から落ちてきた。
俺は、奥を向いた。息を吸った。
把手の上の幅は、指一本だった。




