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EP.23 手動解除

「二つ目だ。把手を、下へ引け」


石段の上から、トーマが言った。


「まっすぐ下へ。途中で止めるな」


首の後ろが、また痛んだ。上を見て、奥を見る。朝から、何度この首を振っただろう。


「二つ目! 把手を、下へ引く!」


俺は、奥へ言った。


「まっすぐ下へ! 途中で、止めない!」


背の高い男が、柱の前に膝をついた。濡れた板が、膝の下で鳴った。男は、茶色い水に右手を入れた。


把手は、柱の低い所から突き出ている。水は、そのすぐ下で柱を舐めていた。指一本の幅が、見ているうちに細くなっていく。


男の手が、水の中で動いた。肩が、何度か揺れた。


手を抜いた。首を振った。


もう一度、入れた。今度は、指先を揃えて、差し込むように。


「……指が、入らねえ」


低い声だった。


把手は、柱に近い。握るには、把手と柱の間に指を回さなければならない。その間が、狭いのだ。環に索を巻き、弁を回した太い指が、そこに入らない。


サナが、座り込んでいた板の上から、身を起こした。


「あたしの手なら、入る」


早口ではなかった。


サナは、自分の右手を顔の前に上げた。小さな手だった。巻きを押さえた赤い跡が、まだ手のひらに残っている。


俺は、口を開きかけて、閉じた。


サナ、代わって。そう言えば、たぶん早い。


さっき、手首の男が索を握ったとき、俺はトーマを待たずに言った。待つ間がなかったからだ。


今は、ある。数呼吸ぶんだけ。


言うときと、聞くときがある。


だから、聞く。


俺は、上を向いた。


「トーマ!背の高い人の指が、把手と柱の間に入りません。サナが、自分の手なら入ると言っています」


トーマは、すぐには答えなかった。扉に手のひらを当てたまま、見えない台のほうを向いていた。サナを水の際へ行かせるかどうかを、量っている顔だった。


「……サナ。腹ばいになれ」


一つずつ、区切った。


「背の高いのは、サナの帯をつかめ。離すな」


「サナ、腹ばい! 背の高い人は、サナの帯をつかむ! 離さない!」


  *


把手の下の縁に、水が触れた。


サナが、濡れた台の板に腹ばいになった。


赤いスカーフが、板の上に広がった。サナは柱の根元へ体を寄せ、右腕を水に入れた。手首が沈み、肘まで沈んだ。


サナの口から、短い息が漏れた。水の冷たさだ。ふくらはぎまで浸かっている俺の足が、同じ冷たさを知っていた。


背の高い男が、サナの腰の帯を両手でつかんだ。膝を板について、体ごと後ろへ重心をかける。


二人で、一つの把手に向かっていた。


「つかんだら、言え」


上から俺へ。


「つかんだら、言って!」


俺からサナへ。


サナの肩が、水の上で動いた。水の中で、指を探らせているのだ。茶色い水が、サナの頬のすぐ下で揺れていた。


「つかんだ!」


「一度目! まっすぐ、下へ!」


サナの背中が、ぐっと丸くなった。


動かなかった。


水が跳ねて、サナの顔にかかった。サナは目をつぶって、もう一度引いた。背の高い男の腕に、筋が浮いた。


動かない。


錆だ。今朝から、いや、ずっと前から、誰も引いたことのない把手なのだ。


「動きません!」


俺は、上へ言った。


「体ごとだ。弁と、同じだ」


弁と、同じ。サナと背の高い男が、「せえの」で二度回した、あの輪。


「体ごと! 弁と、同じ!」


足が、前へ出かけた。水の中へ。足場の入口に立つ警備が、ちらりと俺を見た。


行っても、手は増えない。台までは、膝を越える水と、沈んだ継ぎ目がある。一人では、渡らない。十時前に、そう決めた。


俺にできるのは、声を運ぶことと、見ていることだけだ。


その「だけ」を、最後までやる。


サナが、肩まで水に沈めるように、体を傾けた。背の高い男が、帯ごとサナを引き寄せる。


「せえの」


サナが、自分で言った。


水の下で、鉄が鳴った。


がこん。


鈍い、重い音だった。台の板を伝って、水面まで震えが走ったように見えた。


上の道で、トーマが言った。


「……外れた」


俺が報告するより、先だった。扉に当てた手のひらで、トーマは、掛金の軸が外れたのを聞いたのだ。弁のときと、同じように。


サナが、腕を水から抜いた。肘から先が、冷たさで赤くなっていた。サナは腹ばいのまま、しばらく動かなかった。背の高い男は、帯から手を離さなかった。


把手は、水の下へ下がっていた。もう、見えなかった。


  *


「三つ目だ」


トーマの声がした。今度は、俺に言ったのではなかった。自分に言ったのだ。


扉の外で、トーマが掛金に両手をかけた。錆びた鉄が、濡れて黒く光っていた。水門番が、横で取っ手を握る。


「待ってください」


リアの声だった。


手前から、はっきりと。


振り返ると、リアが、白い頁ばかりの帳面を胸に抱えて、俺の後ろに立っていた。足場の入口に立つ警備の、すぐ横。水が、リアの靴の先を濡らしていた。


「扉を開ける前に、出てくる人を、数えさせてください」


リアの目は、奥を見ていた。台の上のサナ。背の高い男。柵の外に座る手首の男。それから、その向こうの、樽の船。


オルドさんが、ペンを止めた。リアを見た。


「数えろ」


上の道で、トーマが、掛金から手を離した。


「……分かった。待つ」


少し間を置いて、付け足した。


「扉は、逃げん」


俺は、トーマの言葉を、奥へ運ぶのをやめた。


口を閉じた。


  *


水の音しか、しなかった。


柱を舐める水。船腹を叩く水。どこかの杭の根元で、小さな渦がほどける音。門の唸りが止んでから、岸壁は、急に広くなったようだった。


俺は、口を閉じたまま、奥を見ていた。


台の上で、サナが座り込んでいる。把手を引いた右腕を、膝の上に置いたままだった。肘から先が、まだ赤い。背の高い男は、柱の前に片膝をついて、こっちを見ていた。柵の外では、手首の男が、右の手首を胸に押しつけて座っている。水が、その膝に届いていた。


オルドさんが、濡れた帳面を開いたまま、リアを見た。


「何を、数える」


「出てくる人です」


静かな岸壁の上で、リアの声はよく通った。


「出てきた人を数えても、何人残ったかは、分かりません。何人いるかを、先に、確かめます」


オルドさんは、何も言わずに頷いた。


出てきた人を数えても、何人残ったかは、分からない。


当たり前のことだった。九日の朝、二番倉の樽が二つ足りないと分かったのは、リアの帳面に、あるはずの数が書いてあったからだ。あるはずの数がなければ、足りないことも分からない。


けれど、何を数え直すのだろう。


奥に、三人。九時十五分、水際まで走って、俺が叫んだ数だ。オルドさんはそれを自分の目で数え直して、三人、と言った。トーマは、三人のために三つの手順を決めた。


俺の叫んだ三人を、みんなが使ってきた。


リアは、それを数え直そうとしている。


足元の水が、ふくらはぎの下まで来ていた。冷たさは、もう痛みに近い。


扉の前で、トーマは掛金の横に立ったまま、こっちを見下ろしていた。急かす声は、落ちてこなかった。


声を止めている間、俺には、見ることしかできない。


柵の外で、手首の男の膝を、水が舐めていた。


  *


リアが、俺の横に出た。足場の入口に立つ警備が、半歩だけ場所を空けた。


リアは、帳面を開かなかった。白い頁ばかりの帳面を胸に抱えたまま、奥を見た。


「サナ」


左手の指を、一本折った。台の上の、赤いスカーフ。


「背の高い人」


二本目。柱の前で膝をつく男。


「手首の人」


三本目。柵の外で座っている男。


「三人です」


オルドさんが、帳面に書いた。


リアは、折った指をほどかなかった。目も、奥から動かさなかった。台の向こう。柵の横に浮かぶ、樽の船へ。


少しの間があった。


「それから、船です」


俺は、リアの横顔を見た。


船。


「六時に、荷揚げ場で、人数を書きました。五人です。トーマさんと、サナと、他班の三人」


リアは、奥を見たまま言った。


「六時半に、ここへ着きました。そのとき、樽の船は、もう門の脇にありました」


覚えている。荷車が二台、水路沿いの道を下りてきたとき、樽の船は、もう岸壁に付いていた。船着場が詰まっているからだ、と俺は思った。それ以上は、考えなかった。


「回したのは、私たちでは、ありません」


船は、ひとりでは動かない。


「船には、船の人がいます」


オルドさんのペンが、止まった。


リアは、そこで初めて、帳面を持つ手に目を落とした。親指が、中指のインクの跡をこすった。一度だけ。


「船の樽は、十一と、数えていました」


さっき、リアはオルドさんにそう言った。足場の上に四つ、船の上に十一。


「船の人は、数えていませんでした」


声は、揺れなかった。揺れなかったぶん、重かった。


「配置表の人数の欄に、船の人は、入りません。私は、五と書きました」


オルドさんが、荷車のほうへ向いた。


「船の者は、何人乗っている」


荷車の脇で、ラートさんは、すぐには答えなかった。樽の船を見た。丸に二本線の札の付いた、自分の商会の樽を。


「……知らない」


外套の裾から、水が一滴落ちた。


「私の配置は、五人だ」


嘘ではなかった。昨日、この人は言った。手は、足りている。五人だ。あのとき数えていたのは、ローデルの手だった。船の上の手は、初めから、数の外にあった。


オルドさんが、それを書いた。


ラートさんの、五人。リアの人数の欄の、五。オルドさんが数え直した、三人。


俺の、奥に、三人。


俺の三人は、足場の上に見えた数だった。


誰も、嘘はついていなかった。数え間違えてもいなかった。ただ、どの数の中にも、船の人はいなかった。


書いていない人は、数えられていなかった。


見えていない人も。


  *


船の人。


二十一日の雨の音を、思い出した。


船着場で、あの船の索が鳴った。触るなと言われていたから、俺は声を上げた。すみません、索が、張ってます。苫がめくれて、若い男が顔を出した。寝ぼけた目で俺を見て、それから索を見た。


二人で、索を結び直した。余りを、一握り。


ローデル行きだよ、と、あの男は言った。門が詰まってりゃ、向こうも待ちぼうけさ。


あの男の顔を、俺は知っている。


今日、あの男を見たか。


見ていない。


六時から、俺は水位標と、継ぎ目と、奥の三人を見ていた。船は、足場の向こうにあった。樽は、船べりの上から、一つずつ出てきた。


出していた手を、俺は、見ていなかった。

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