EP.24 確かな数
「オルドさん」
呼んでから、口の中が乾いているのに気づいた。
「二十一日、あの船に、乗り手がいました。苫の下で寝ていた、若い男です。一緒に、索を結び直しました」
オルドさんが、俺を見た。
「今日は」
「今日、乗っているかは、見ていません」
言ってから、もう一つ、言わなければならないことがあると分かった。
二十一日から、俺は、見た数だけを結んできた。見ていないことは、たぶん、と言って結ばない。だから、オルドさんは、合っている、と言った。
けれど、見たものだけを言っていると、見ていないものは、なかったことになる。
「さっきの三人は、俺に見えた数です。船の中は、見ていません」
オルドさんは、しばらく俺を見ていた。それから、帳面に一行、書き足した。
「奥に、聞け」
俺は、奥を向いた。息を吸った。
「サナ!」
赤いスカーフが、台の上で跳ねた。
「船に、人はいるか!」
サナの顔が、船のほうへ向いた。それから、こっちへ戻った。
「いた!」
早口だった。
「朝、いた! 樽、船べりまで、転がしてた!」
「今は!」
「……水が来てから、は……」
声が、そこで細くなった。
「見て、ない」
サナは、もう一度、船を見た。
「船の人は、船にいるもんだって……」
最後まで、言わなかった。
朝、樽を船べりまで転がしていた人がいた。サナの目は、それを見ていた。俺の目は、船べりを越えてくる樽しか見ていなかった。二時間、ずっと。
さっき、胸の奥で掛け金が落ちて、見ていたものが一度に並んだ。右の手首。左手一本。サナの両手。あのとき、全部が揃った気がした。
並んだのは、見ていたものだけだった。
背の高い男が、立ち上がった。柱の前から柵まで、二歩。柵から、身を乗り出す。船べりに、手が届いた。
男は、もう片方の手で、苫の端をつかんだ。
*
苫が、めくれた。
苫の下にも、濡れた樽が並んでいた。その間の、狭い隙間に。
人が、しゃがんでいた。
若い男だった。手に、小さな手桶を持っていた。袖が、肘まで濡れて黒い。足元の船底に溜まった茶色い水を、汲んでは、船べりの外へ捨てていたらしかった。手桶の縁から、まだ水が垂れていた。
顔が、白かった。
二十一日、苫の下から出てきた、寝ぼけた顔。同じ顔が、今は、少しも眠っていなかった。
「……いる」
小さな声だった。
門の唸りが止んでいなければ、ここまで届かなかったかもしれない。
背の高い男が、苫を持ち上げたまま言った。
「出ろ」
乗り手は、手桶を握り直した。樽と樽の間で、膝を抱えるように小さくなった。
「船を、離れるなって、言われてる」
背の高い男が、振り返った。こっちを見た。俺ではなく、俺の後ろを。
柵の外で、手首の男が、座ったまま首を伸ばしていた。
オルドさんが、ペンを持ったまま、一歩前に出た。
「出ろ、と言え」
乾いた、低い声だった。
「監察官が、出ろと言った。そう、俺が書く」
足さない。減らさない。
「出ろ!」
俺は、奥へ言った。
「監察官が、出ろと言った! そう、記録に書く!」
乗り手の顔が、苫の下から、こっちへ向いた。俺と、その後ろのオルドさんのほうへ。
乗り手は、手桶を、船底に置いた。
樽と樽の間から、四つん這いで出てくる。膝が、船底の水を跳ねた。
船べりに、片足をかけた。
船が、揺れた。
一握りの余りの分だけ、船が台から離れて、また寄った。船と台の間に、茶色い水が見えた。細い、黒い隙間。落ちれば、船と石の間だ。
乗り手の足が、止まった。
背の高い男が、柵から腕を伸ばした。
「つかまれ」
乗り手が、その腕をつかんだ。船が、寄った。その一瞬に、乗り手の体が、船べりから柵の内側へ渡った。
濡れた台の板に、膝から落ちた。
サナが、その袖をつかんだ。両手で。さっき、弁の輪を回した手で。
「……いた」
サナの声が、震えていた。
乗り手は、台の上に膝をついたまま、船を振り返った。苫の下に、手桶が置き去りになっていた。
背の高い男が、もう一度、苫の下を覗いた。奥まで見てから、こっちへ首を横に振った。ほかには、いない。
二十一日、あの船着場で、誰も俺を数えていなかった。どこの人数の欄にも、俺の名前はなかった。
楽だ、と思った。
数えられていない人は、あの船着場にだけいるのではなかった。
水の真ん中にも、いた。
誰にも数えられないまま、船の底の水を、一人で汲んでいた。
柵の外を見た。手首の男の膝を、水が越えかけていた。
*
リアが、オルドさんの前に出た。
帳面は、開かなかった。指も、折らなかった。
「奥に、四人です」
オルドさんのペンが、動いた。
「三人は、配置表の人です。一人は、船の人です」
「朝、船の上にいたのは、サナが見ました。苫の中にいたのは、背の高い人が見つけました。私は、見ていません」
「名前は、分かりません。怪我は、見えません」
少しだけ、間があった。
「船の中に、ほかに人がいないかは、背の高い人が見ました」
見た人と、見ていない人。分かったことと、分からないこと。リアは、それを一つずつ分けて置いた。十日の荷崩れのあと、原因は、まだ書きません、と言ったときと同じように。
「名前は、分からん、と書く」
オルドさんのペンが、帳面に短い字を一つ書いた。読めなかった。けれど、四、だと思った。
俺は、上を見た。
石段の上、扉の前で、トーマがこっちを見下ろしていた。見えない台の上で、何が起きたのか。トーマには、声しか届いていない。
「トーマ!」
九時十五分、水際まで走って叫んだ。あのときと、同じくらいの声が出た。
「奥に、四人!」
トーマは、すぐには答えなかった。
「……四人」
一度、区切った。
「分かった」
三人は、俺の目で数えた数だった。
四人は、リアの記録と、俺の記憶と、サナの目と、苫の下の「いる」で数えた数だった。
「三つ目だ」
上から、トーマの声がした。
台の上で、サナが顔を上げた。背の高い男も、乗り手も、石段の上の扉を見た。四人とも、あの扉の向こうを、朝から一度も見ていない。
扉の外で、トーマが掛金に両手をかけ直した。錆びた鉄が、濡れて黒く光っていた。水門番が、横で取っ手を握る。
トーマの肩が、下がった。押す。
鉄が、軋んだ。
動かない。
トーマは一度手を離して、息を吐いた。手のひらを上着で拭い、足を踏みかえた。濡れた石の上で、靴底が一度すべった。両手をかけ直す。
石段の下からは、水の音だけがしていた。誰も、声を出さなかった。三つ目は、トーマの手でしかできない。俺は、見ていた。
がつん、と重い音がした。
掛金が、押し戻った音だった。
水門番が、取っ手を引いた。扉が、ゆっくりと開いた。蝶番から、錆びた水が一筋、垂れた。開いた隙間から、上の道の明るさが、石段の上に差し込んだ。
トーマが、開いた扉の内側に立った。
石段の上から、初めて、台を見下ろした。
乗り手の袖を、まだつかんでいるサナ。柵のそばに立つ背の高い男。膝をついたままの乗り手。柵の外で、座ったまま顔を上げている手首の男。
トーマは、しばらく何も言わなかった。見ていた。一時間、声でしか知らなかった場所を。サナが、袖をつかんだまま、トーマを見上げていた。
俺は、自分の胸に手を当てかけて、やめた。
さっきは、名前を口にせずに今夜の粥を思い浮かべたら、胸の奥で掛け金が落ちて、言葉が並んだ。
今度は、落ちなかった。思い浮かべる暇もなかった。
扉の掛金は、外れた。
サナの手と、帯をつかんだ手と、トーマの手で。
落ちなくても、開いた。
*
「柵の外の奴を、先に入れろ」
トーマが、台の上へ直接言った。
扉が開けば、トーマの声は、そのまま台に届く。俺が運ぶ言葉は、もう要らなかった。
手首の男は、柵の外の足場に座っていた。水は、男の膝を越えていた。右の手首を胸に押しつけたまま、左手で柵の横木をつかんでいる。片手では、腰の高さの柵は越えられない。
背の高い男が、手首の男を見下ろした。
「これは、俺だ」
柵に手をかけ、外へ越えた。足場に下りると、水が腿まで跳ね上がった。
さっき、この男の指は、把手に入らなかった。今は、その太い腕が要る。
背の高い男は、手首の男の左腕を、自分の肩に回した。
「痛えぞ」
「……いい」
担ぎ上げる。手首の男の顔が、痛みでゆがんだ。声は出さなかった。体が、柵の上まで持ち上がった。
内側から、乗り手とサナが、手首の男の帯をつかんで引いた。手首の男は、柵を越えて、台の板の上に転がり込んだ。右の手首を、最後まで胸から離さなかった。
背の高い男が、柵を越えて戻った。
石段を、上る。
乗り手が、手首の男の左側に肩を入れて、先に上った。濡れた石段に、二人分の足音が重なった。手首の男は、一段ごとに、空いた左手で石をつかんだ。
石段の途中で、乗り手が一度だけ振り返った。樽の船を。苫の下に置いてきた手桶を。
それから、前を向いた。
次に、サナ。一段ずつ、手をつきながら。
最後に、背の高い男。
「一人」
俺の横で、リアが言った。手首の男が、扉を通った。
「二人」
乗り手。
「三人」
サナ。赤いスカーフが、扉の向こうへ消えた。
「四人」
背の高い男が、扉をくぐった。
扉の前で、トーマが一人ずつ肩に手を置いていた。最後の一人の肩から手を離して、トーマが言った。
「……四人だ」
気がつくと、俺も指を折っていた。四本。
下と上で、二つの数が、同じだった。
リアが、オルドさんのほうを向いた。
「四人、出ました。残っている人は、いません」
オルドさんが、帳面に書いた。
残っている人は、いない。
リアがそう言えるのは、先に四人と数えていたからだ。三人と数えたままだったら、三人が扉を出たところで、終わったと思ったかもしれない。四人目は、苫の下で、まだ船底の水を汲んでいたかもしれない。
数は、出てくる前に要った。
*
四人は、上の道から、水路沿いの道を下りてきた。トーマと水門番が、その後ろに続いた。
荷車の脇で、ラートさんがそれを見ていた。四人が下りてくるのを、最後まで。樽の船のほうは、一度も見なかった。
リアが、歩き出した。警備の横を抜けて、サナのほうへ。
サナの前で止まると、リアはサナの両手を取った。指を、一本ずつ確かめた。親指。人差し指。中指。十日の荷崩れのあとと、同じだった。手のひらに、索の赤い跡が残っていた。リアはそこで指を止めて、何も言わなかった。
サナが、リアの肩越しに、俺を見た。
「……聞こえてたよ。ずっと」
いつもより、ゆっくりだった。
俺は、うなずいた。何か言おうとして、声が出なかった。かすれていた。いつから声がかすれていたのか、自分でも分からなかった。
サナは、オルドさんのほうを向いた。
「……あたし、把手、引いたよ」
オルドさんが、顔を上げた。
「これ、なんかになる?」
サナの声が、終わりのほうで小さくなった。
オルドさんは、帳面を閉じなかった。
「救助は、救助として書く。申立ての判断とは、別だ」
乾いた声だった。
「引かなくても、同じに見る」
サナは、しばらくオルドさんを見ていた。
「聞くのは、二十五日だ。一人ずつ」
「……そっか」
サナは、それ以上言わなかった。
引いたから、ではない。指の入らなかった手も、片手しか使えなかった手も、同じに見る。オルドさんは、そう言ったのだと思った。
俺は、水際を振り返った。
柱の低い所には、茶色い水しかなかった。把手があった場所がどこだったのかも、もう分からない。
足元の水は、ふくらはぎを越えていた。冷たさは、もう感じなかった。
十九日、角で、俺は一歩下がった。その一歩を、戻せなかった。二十二日、明日は下がらない、と決めた。
奥には、もう、誰もいない。
下がっても、誰も置いていかない。
俺は、水から一歩、下がった。




