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EP.25 一人ずつ

河務局の支局の廊下では、朝から、誰も大きな声を出さなかった。


二十三日の午後、リアとサナは、オルドさんの命令で、河務局の決めた宿へ移った。宿代も食事も、河務局が先に払う。手首の男は、診療所へ連れていかれた。


俺は、船宿に戻った。雇われていない者は、仮保護の外だ。誰も、俺をどこへも移さなかった。


二十四日は休業日で、門は閉じていた。水はまだ高く、鉤竿の船頭の船で、半日、索を見た。手間賃は十枚。今朝、パンを一つ買って、銅貨は二十二枚になった。


支局の奥、聴取室の扉の前に、長い木の椅子が一つ置かれていた。


端から、トーマ。背の高い男。手首に白い布を巻いた男。二十三日に手前にいた、他班の一人。サナ。リア。樽の船の乗り手。俺は、いちばん端に座った。


どこか表の窓口で、紙をめくる音がしていた。判を押す、乾いた音。二十三日の水の音が、まだ耳の奥に残っていて、その乾いた音が、妙に遠く聞こえた。


サナの赤いスカーフは、乾いていた。トーマの靴には、泥の跡が白く残っていた。リアは、帳面を膝の上で閉じたまま、両手をその上に重ねていた。


聴取室の扉が開いて、オルドさんが出てきた。二十三日と同じ帳面を持っていた。表紙の端が、水を吸って波打っていた。


「一人ずつ聞く」


長椅子を、端から端まで見た。


「全員が終わるまで、聞かれたことを、互いに話すな」


誰も、返事をしなかった。何人かが、うなずいた。


「リア」


リアが立った。帳面を胸に抱えて、扉の中へ入った。


扉が閉まった。


しばらくして、横で乗り手が身じろぎした。俺の顔を、横から見ていた。


「……あんた、二十一日の」


小さな声だった。


「余りの」


「……ああ」


それだけだった。話すなと言われている。乗り手も、それ以上は言わなかった。膝の上で、両手の指を組んだりほどいたりしていた。手桶を握っていた手だ。


俺は、扉を見た。厚い板の扉だった。中の声は、何も聞こえなかった。


リアが今、何を聞かれて、何を答えているのか。


リアなら、きっと……と考えかけて、やめた。それは、俺が決めることではない。


見えない所を、見えないまま待つ。


二日前、苫の下が見えなかったとき、そう覚えた。


  *


俺が呼ばれたのは、昼前だった。


聴取室は、狭かった。机が一つ。椅子が二つ。窓が一つ。窓から入る運河の照り返しが、天井で揺れていた。


オルドさんは、机の向こうに座っていた。帳面を開き、ペンにインクをつけた。


「座れ」


座った。膝の上に、手を置いた。上着の内側で、索の切れ端の結び目が、腹に当たっていた。


オルドさんは、最初に、二十一日から二十三日までの数を確かめた。結び目の数。赤まで、いくつ。二十三日に俺が見て、言ったこと。どれも、あの日に一度聞かれたことだった。俺は、同じように答えた。オルドさんは、同じように書いた。


それから、ペンを止めた。


「お前は、ローデルの何だ」


「何でもありません」


言ってから、言葉を足した。


「十九日に、辞めました」


「なぜ、辞めた」


すぐには、答えられなかった。


答えは、いくつか浮かんだ。臨時だったから。ほかの仕事を探すつもりだったから。どれも、嘘ではない。嘘ではないが、本当のことでもない。


十九日、角の見張りをしながら、俺は一歩下がった。その一歩を、戻せなかった。その晩、精算の机の前で、辞めます、と言った。


見たことだけを言う。二十一日から、そうしてきた。


自分のことも、同じだ。


「怖かったからです」


オルドさんのペンが、動いた。


「角に、立ちたくなかった」


ペンが、それも書いた。


書かれていく字を、俺は読めない。読めないが、何が書かれたかは分かる。俺が十九日に逃げたことが、今、河務局の帳面に残った。


書いてほしくない、と思った。


思ってから、それでいい、と思うまでに、少しかかった。


「なぜ、戻った」


「索に、結び目が二つあったからです」


オルドさんが、顔を上げた。


「二十一日の、昼と夕方の分です。上がった分だけ、結びました。二つあったから、戻りました」


言いながら、うまく言えていないと思った。けれど、ほかの言い方が見つからなかった。


「……そうか」


オルドさんは、それだけ言って、書いた。


ペンを、インク壺に浸した。


「リアは、二十三日の朝、怖がっていたか」


口が、開きかけた。


怖かったに決まっている。サナが奥にいて、水が上がっていて、ラートさんが配置を変えないと言った……言いかけて、止めた。


それは、俺が見たことではない。


「分かりません」


オルドさんは、待っていた。


「リアに、聞いてください」


少しして、言葉を足した。


「見たのは、ペンを握る指の関節が、白かったことです」


二十三日の十時前、水の向こうのサナの声を、そのとおりに書き取っていたリアの手。


オルドさんは、それを書いた。


「それでいい」


  *


午後になると、廊下の窓の光が、床の上で傾いてきた。


聴取室の扉は、何度も開いて、閉まった。乗り手が呼ばれ、しばらくして出てきた。出てきた乗り手は長椅子に戻らず、窓の外の運河を見ていた。


階段のほうから、足音がした。


ラートさんだった。後ろに、帳場の係の男が、紙の束を両腕に抱えてついてきていた。束のいちばん上に、一枚だけ別に折った紙が挟まっている。係の男がそれを落としかけて、慌てて顎で押さえた。


ラートさんの外套は、乾いていた。二十三日の泥は、どこにも残っていなかった。


長椅子の前を通るとき、ラートさんは一度だけ立ち止まった。俺を見た。


「……君も、呼ばれたのかね」


「はい」


ラートさんは、うなずいた。それ以上は、何も言わなかった。廊下の奥の、別の部屋へ通された。しばらくして、オルドさんが帳面を持って、その部屋へ入っていった。扉が閉まった。


二十三日、オルドさんに聞かれて、ラートさんは、私だ、と言った。配置を決めたのは。


今日も、きっとそう言う。


何を、どう言うのか。俺には、それを聞く権利はない。


夕方、別の部屋の扉が開いて、オルドさんが出てきた。帳面は、朝より何枚も書き足されていた。


オルドさんは、長椅子の前に立った。


「全員、聞いた」


廊下が、静かになった。


「明日、十時に、審査席だ」


一度、長椅子を見渡した。


「もう、話していい」


誰かが、長い息を吐いた。サナだった。


  *


幕間|聴取の記録


聴取記録(抜粋)

新紀四一二年四月二十五日 河務局カーヴェル支局

記録 独立河務監察官オルド


一 ローデル運送商会 就役者 リア


問 二十三日七時過ぎ、何を見たか。

答 トーマさんが、足場の継ぎ目を測りました。点検欄に、継ぎ目まで一握り、作業不可、と書いて、名前を書きました。私は、それを見ました。


問 管理責任者は。

答 七時半に来て、点検欄を最後まで読みました。私は、それを見ました。そのあと、配置は変えない、奥は三人、そのまま続けろ、と言いました。帳面に書きました。


問 継ぎ目が沈んだ時刻は。

答 九時十五分です。


問 奥にいた者は。

答 サナと、他班の人が二人です。他班の人の身分は、分かりません。船の人は、見ていません。


問 二十三日の配置を、断ることはできたか。

答 できません。(少し間を置いて)聞かれたことが、ありません。



二 同 就役者 サナ(口述。本人は字を書かないため、監察官が書き取り、読み上げて確かめた)


問 二十三日、どこにいたか。

答 奥。船の横。水が来て、戻れなかった。


問 以前、同じ荷揚げ場の角で負傷者が出た件について。

答 見た。あたし、そこにいた。……誰が決めたかは、知らない。知らないって、書いて。

(知らない、と書いた)



三 同 点検担当 トーマ


問 七時の測定。

答 継ぎ目まで一握り。門の放水で越えた。昼までに沈むと書いた。名前も書いた。


問 管理責任者に。

答 三度、言った。奥から戻れなくなる、と。三度目に、足りない、と言った。



四 船の乗り手(氏名は別紙)


問 二十三日の朝、船を門の脇へ回したのは。

答 おれです。親方に言われて。ローデルが、門の脇で揚げるからって。


問 索を結んだのは。

答 おれです。揚げるとき揺れないように、詰めて結びました。余りは、残さなかった。


問 水が来てから。

答 苫の下で、船底の水を汲んでました。


問 船を離れなかったのは。

答 親方の決まりです。船の者は、船と荷から離れない。



五 同商会 管理責任者 ベルン・ラート


問 配置を決めたのは。

答 私だ。


問 船を門の脇へ寄せたのは。

答 私が、帳場から船の親方に頼んだ。止まる前に、揚げるためだ。


問 点検欄の記載は。

答 読んだ。自分でも見た。一握りあった。足りると判断した。


問 なぜ続けたか。

答 門が止まれば、下りの便と五十人の仕事が止まる。停止の損害は、別紙で出す。


問 船の者の数は。

答 知らなかった。私の配置は、五人だった。

(帳場の点検原簿の写しを提出。管理責任者は、記録を書き換えていないと述べた)



監察官付記

一 船の乗り手は、いずれの配置表にも記載なし。

二 救助の経過は別記録とし、本件の判断に用いない。


  *


支局の石段に、夕方の日が当たっていた。


運河の向こうの屋根が、赤く光っていた。石段の下の端に、サナと乗り手が、少し離れて座っていた。何か話していた。サナの早口が、ときどき途切れて、また続いた。


俺は、石段の上のほうに座っていた。声は、まだ少しかすれていた。


リアが、支局の扉から出てきた。宿へ帰る前に、窓口に寄っていたらしい。帳面を胸に抱えていた。


リアは、俺の横に来て、座った。


「話しても、いいそうです」


「うん」


少しの間があった。リアは、帳面を開かなかった。


「何を、聞かれましたか」


リアのほうから、聞いた。


「辞めた理由」


リアが、こっちを見た。


「怖かったから、と言った」


リアは、しばらく黙っていた。インクの跡のついた指先を、膝の上でそろえていた。


「……書いてもらいましたか」


「書いてもらった」


「正確です」


正確です。


十三日、読取所から戻ったとき、リアは同じことを言った。俺の技能の記録に、条件、調査中、と書いてあった。分からない、と書いてあるなら、正確です。


あのときは、記録のことだった。今日は、俺のことを、同じ言葉で言われた。


「リアは」


言いかけて、止まった。何を聞くつもりだったのか、自分でも分からなかった。


「見たことを、言いました」


リアは、それだけ言った。


それ以上は、言わなかった。俺も、聞かなかった。扉の向こうでリアが何を言ったのか、俺は知らない。リアが言ったことは、リアのものだ。


リアの上着の胸のあたりが、四角くふくらんでいた。見取図だ。リアは、それを出さなかった。


石段の下で、サナが笑った。短く、一度だけ。乗り手が、何か言い返したらしかった。


日が、運河の向こうへ沈みかけていた。


リアが、立ち上がった。宿へ帰る時刻だった。


「明日です」

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