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EP.26 決定と文書

支局の二階の部屋は、乾いていた。


窓から入る光が、長い机の上に四角く落ちていた。インクと、古い紙の匂いがした。二十三日の水の匂いは、ここまで上がってこない。


机の向こうに、審査官が三人座っていた。真ん中は白髪の女の人で、左右に年配の男が一人ずつ。三人とも、飾りのない紺の上着を着ていた。


机の手前に、椅子が二つ。リアとサナが座っていた。


その後ろの長椅子に、トーマ、背の高い男、手首の男、手前にいた他班の一人、乗り手。俺は、いちばん端にいた。


反対の壁際に、ラートさんと、帳場の係の男。係の男は、紙の束を膝に載せていた。ミラさんも壁際に立って、分厚い台帳を両腕で胸に抱えていた。


真ん中の審査官が、長椅子のほうを見た。


「聴取を受けた者は、後ろで聞いてよい」


それだけ言って、机の上に目を戻した。


オルドさんが、机の脇に進み出た。雨具の内側から、油紙の包みを出した。二十三日から、ずっと持っていた包みだ。


机の上に、置いた。


紐の結び目に、小さなくぼみが残っていた。二十三日、オルドさんが胸の札の角を押しつけた跡だ。あのとき紐は濡れていて、くぼみは水を含んで黒かった。今は乾いて、白っぽく固まっている。


「封を、解きます」


オルドさんは、審査官の三人に結び目を見せた。三人が、それぞれうなずいた。


小刀が、紐を切った。


油紙が開いた。配置表。点検欄の紙。リアの帳面から外した頁。一枚ずつ、机の上に並べられていく。点検欄の紙の下のほうで、字が一つ、にじんでいた。トーマの名前だ。俺には読めないが、あの朝、トーマがそこに書くのを見た。


水の上で押された封が、乾いた机の上で切られた。


リアは、背筋を伸ばして座っていた。帳面は、膝の上で閉じたままだった。


  *


真ん中の審査官が、紙を一枚取り上げた。


「決定を、読む」


低くも高くもない声だった。


「一。管理責任者は、危険を知っていた」


紙をめくる音がした。


「四月二十三日、七時過ぎ。点検担当が、点検欄に作業不可と書き、名前を記した。七時半、管理責任者は、それを読んだ」


長椅子の反対の端で、トーマが目を閉じた。


「二。避けることが、できた」


「足場に人をやらないこと。船を門の脇へ寄せないこと。配置を変えることは、管理責任者の権限の中にあった」


ラートさんは、膝の上に両手を置いていた。指が、一度だけ動いた。


「三。知ったうえで、続けさせた」


審査官は、紙から目を上げずに読んだ。


「配置は、変えない。奥は三人。そのまま続けろ」


二十三日の朝の、ラートさんの言葉だった。リアが帳面に書いた言葉。それが今、別の人の声で読まれている。


審査官は、次の紙を取った。


「契約の控えの、安全義務の但し書き。管理責任者が安全を確かめた場合は、この限りでない」


十七日の夕方、帳場で、リアが読み上げた一行だった。


あの日から、俺はずっと考えていた。確かめた、とは、何のことなのか。無事に終わったことか。毎朝、トーマが幅を見ていたことか。ラートさんが自分の目で見て、一握りある、と言ったことか。


九日間、分からなかった。


「管理責任者は、見て、足りると言った。安全を確かめた記録は、ない」


審査官は、一度だけ間を置いた。


「確かめた結果は、危険だった。確かめたのは、点検担当と、監察官である」


机の脇で、オルドさんは何も言わなかった。二十三日、岸壁の真ん中で、確かめたのは俺だ、と言った人が、今は黙って立っていた。


見ることと、確かめることは、違う。答えは、紙に書いてあった。


「以上により」


審査官が、紙を替えた。


「リア・セルヴィ。ローデル運送商会の就役権を、失効とする」


リアの左手の親指が、中指のインクの跡を、一度こすった。


リアは、動かなかった。


「サナ。配置表の名前と、本人と他の者の証言により、同じく、ローデル運送商会の就役権を、失効とする」


サナの手が、首のスカーフの端をつかんだ。握ったまま、放さなかった。


「他班の二人は、就役者ではない。雇われた者として、同じ危険に置かれたことを記す」


「船の乗り手は、いずれの配置表にもなかった。商会の指示で、危険な場所に置かれたことを記す」


長椅子の、俺の二つ隣で、乗り手が顔を上げた。


「救助の経過は、この判断に用いていない」


サナが、ちらりとオルドさんを見た。二十三日の昼、引かなくても、同じに見る、と言われた。そのとおりになっていた。


  *


審査官は、最後の紙を取った。


「ローデル運送商会は、二人を移すこと、登録し直すこと、連れ戻すことを、してはならない。破れば、水門警備と河務局が、その場で止める」


「二人には、安全な宿と移動文書を、しばらくのあいだ確保する」


「商会には、仮保護の費用と、二人の未払いの生活の配分と、私物の返還を命じる。管理責任者の処分は、商会の手続きと、河務局の許可の審査による」


係の男が、膝の上で書き留めていた。ペンが、紙の上で一度引っかかった。


「商会は、不服があれば、十日以内に、上級の審査席へ申し立てられる」


審査官は、紙を置いた。


「不服は、この決定を、止めない」


部屋が、静かになった。


ラートさんが、立ち上がった。椅子の脚が、床を短く鳴らした。


「……承知した」


それから、リアのほうへ向き直った。


二人の間には、机一つ分の距離があった。十三日の朝、荷揚げ場で、リアが点検欄と配置表を並べて見せたときも、たぶん、このくらいの距離だった。


「記録は、正確だった」


謝りはしなかった。言い訳もしなかった。十三日にも、十九日にも、正確だ、と言った人だった。


リアも、立ち上がった。


「宿舎の、私の物を、取りに行きます」


ラートさんは、少しのあいだ、リアを見ていた。


「係に、言っておく」


リアは、頭を下げなかった。うなずきもしなかった。聞いた、という顔で、そこに立っていた。


取りに行ってもいいですか、ではなかった。


許可は、要りますか、でもなかった。


十七日の上流で、オルドさんにそう聞いた人が、今日は、何も聞かなかった。


  *


読取所は、同じ建物の一階にあった。


十八日前、俺が初めて板を受け取った部屋だ。窓口の机。灰色の石の読取器。壁の棚に並んだ台帳の背。


ミラさんは、抱えてきた台帳を机に広げた。


「ローデル運送商会の就役権に関する審査席の決定を受けて、台帳を更新します」


いつもの、定型文だった。


青いインクのしみた指先が、ペンを取った。台帳の頁に、何行か書いた。書き終えると、ペンを置いて、リアのほうを向いた。


「板を、お願いします」


リアは、懐から板を出した。読取器の枠に、手と一緒に置いた。


器具の面に、細い光の線が走った。線が字の形になって、浮かび上がる。俺には読めない。けれど、一行が消えるのは見えた。字の並びの上のほうの一行が、すうっと薄くなって、なくなった。


リアが、板を取り上げた。


読み取り面を、自分のほうへ向けた。


「リア・セルヴィ」


声が、はっきりしていた。


「身分、自由民。就役権、失効。失効の決定、四一二年」


十八日前の夕方、荷揚げ場で、リアは同じ声で、この板を読んだ。仕事のあとに街を見に行こうと、俺が誘ったときだ。


身分、就役。権利者、ローデル運送商会。


その行が、もうない。


「職業、奴隷。旧測定、四〇九年。再検査前」


リアは、最後まで読んだ。止まらなかった。


職業の行は、まだある。


身分と、職業は、別。十四日、帰りの橋の上で、リアは帳面にそう書いた。あの日、窓口で、艀の荷運びの女の人の板が、同じように読まれていた。あの人の職業の行も、前のままだった。


「職業欄は、測った日の推定です」


ミラさんが言った。


「あなたの身分と通行は、台帳と文書で決まっています」


少しだけ、間があった。


「測り直すかどうかは、ご本人が決めることです。今日でなくて、構いません」


リアは、うなずいた。


ミラさんが、紙を三枚、机の上に並べた。解放文書。移動文書。本人用の控え。一枚ずつ、何の紙かを読み上げてから、リアに渡した。


リアは、移動文書を、ゆっくりたたんだ。角を合わせて、もう一度たたんだ。それから、上着の胸の内側に入れた。見取図と、同じ場所に。


次は、サナだった。


ミラさんが台帳に書き、サナの板を読取器に当てて、読み上げた。サナは板を両手で持ったまま、じっと面を見ていた。字は、読めない。


「……リア、読んで」


リアが、サナの板を受け取った。


「サナ。身分、自由民。就役権、失効。失効の決定、四一二年」


サナは、口を少し開けたまま、聞いていた。


「……もう一回」


リアは、もう一度、同じ声で、最初から読んだ。


  *


昼過ぎ、支局の外の石段に出ると、光がまぶしかった。


石段の下の水路は、二十三日より、ずっと低くなっていた。杭の根元の石が、乾いた色に戻りかけている。


オルドさんが、先に出ていた。帳面を雨具の内側にしまい、石段を下りていく。


「次の巡回だ」


誰に言ったのでもない声だった。オルドさんは、水路のほうへ歩いていった。振り返らなかった。明日も、あの人は、どこかの水位標の前にしゃがむのだろう。


石段の下で、トーマがサナと何か話していた。サナは板を両手で持ったまま、ときどき面を見下ろしていた。読めない字を、形で覚えようとしているみたいだった。俺が荷札の丸と線を覚えたときと、同じ目だった。


リアが、俺の前で止まった。


上着の胸を、一度押さえた。紙の角が、布越しに当たるのが見えた。


「橋まで、歩いてきます」


少しして、足した。


「一人で」


橋。十一日、窓口の昼休みが終わるのを待った橋だ。リアはあの欄干で、初めて見取図を見せてくれた。行った所は細かく、行っていない所は白い紙。描いていない所に、自分で行って、自分で描きたい、と言った。


ついていきたい、と思った。


一緒に歩いて、どこを描くのか、聞きたかった。


けれど、行き先を決めるのは、リアだ。


「分かった」


リアは、うなずいた。


それから、石段を下りた。誰にも、何も聞かなかった。行ってもいいですか、とも。何時までに戻ります、とも。


水路沿いの道を、橋のほうへ歩いていく。背中が、少しずつ小さくなった。一度も、振り返らなかった。


俺は、石段に立ったまま、それを見ていた。


上着の中で、銅貨が鳴った。二十二枚。雇われてはいない。明日の寝床の分はあるが、その先は、まだ決めていない。


リアの行き先は、リアが決める。俺の行き先は、俺が決める。


俺は、ついていかなかった。

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