EP.27 各自の行き先
二十九日の朝、船着場の杭の根元は、乾いていた。
二十三日には水の下にあった石が、白っぽい地の色を見せている。水位標の前で、水門番がしゃがんで刻みを読んでいた。
「赤まで、七つ」
いつもの水より、少し低いくらいだった。
二十三日、足場の入口の横で、水は俺のふくらはぎを越えていた。冷たさが、痛みに近かった。今、同じ場所の石は乾いていて、朝の日を受けて、ほんのり温かい。麻袋と、乾いた泥の匂いがした。
二十七日と二十八日、俺は鉤竿の船頭の船で働いた。上りの荷を積み、索を見た。手間賃は、一日二十枚。パンと粥と寝台の分を引いて、今朝パンを一つ買って、銅貨は二十五枚になった。一枚ずつ、指で数えた。数えるのは、もう癖になっていた。
リアは二十七日に、ローデルの宿舎へ私物を取りに行った。係の男が、棚から小さな包みを一つ出してきた。それで全部でした、と後でリアは言った。
二十七日の昼には、あの樽の船が、門を下りてきて船着場の前を通っていった。ローデルで樽を下ろしてきたのだ。船べりに、若い男が立っていた。苫の端から、手桶の柄がのぞいていた。男はこっちに気づいて、片手を上げた。俺も、上げた。船の索は、金具と杭の間に、ちゃんと一握りの余りを残して巻かれていた。
鉤竿の船頭の船には、上りの荷が半分ほど積まれていた。麻袋と、塩の俵。三日の朝に上る、と船頭は言った。今朝は積み込みがなく、昼過ぎまで休め、とだけ言って、船頭は苫の下で横になっていた。
二日間働いて、銅貨は増えた。今夜は越えられる。明日の夜も。
その先を、俺はまだ、誰にも言っていなかった。
石段のほうから、補修跡のある靴が下りてきた。
トーマだった。
*
「休みを、もらった」
トーマは、杭の一本に腰を下ろした。午後に、サナを見送る。それまで、ここにいるつもりらしかった。
しばらく、二人とも黙って水を見ていた。門が一艘を通すたびに、水面が少し持ち上がって、また平らになった。二十三日の朝の、あの重い音はしなかった。
「俺は、残る」
トーマが言った。
「ローデルに。……点検欄は、俺が書く」
トーマは、自分の手のひらを見ていた。厚い手だった。索の擦れ跡が、白く何本も残っていた。
「誰が配置を決めても、点検欄は要る。書く奴がいなきゃ、また、確かめた、で済まされる」
二十三日の朝、継ぎ目の際で膝をついて、手で水を測った人だ。作業不可、と書いて、名前を書いた。その字が、審査席の机の上に並んだ。
残って、書く。トーマは、それを選んだのだ。荷揚げ場の白線の角は、明日の朝も、あの場所にある。
「お前は」
トーマが、こっちを見た。
答えを、探した。
臨時の口なら、ある。ラートさんは、いつでもある、と言った。鉤竿の船頭も、明日も来るか、と聞く。この船着場で索を見て、手間賃をもらって、船宿で眠る。それで今夜は越えられる。明日の夜も。
けれど、それは今夜を越える答えだ。行き先ではない。
十八日、水門脇の草の道に座って、俺はこの世界でどう生きていくのかを考えた。答えは出なかった。いつでも辞められる、という考えだけが、消えずに残った。
二十一日の夜、船宿の寝台で、俺は索の結び目を指でたどった。雨の音を聞きながら。水は、上から来ていた。
あの水が、どこから来たのか。俺は、まだ見ていない。
「上へ、行きます」
トーマは、黙っていた。
「水が来た所を、見たいので」
言ってから、気がついた。
十九日、初めて誰にも預けずに決めたのは、逃げることだった。二十一日は、戻ることを決めた。どこへ、とは船頭に言わなかった。
今日、初めて、誰のためでもなく、行き先を口にした。
「……そうか」
トーマは、上流のほうを見た。水の面が、朝の光で白く光っていた。
「上は、水が少ない日と、多い日がある」
「一握り、ですよね」
トーマが、こっちを見た。口の端が、ほんの少し動いた。
「……分かってるなら、いい」
*
昼前、リアが一人で船着場へ来た。
帳面を胸に抱えていた。上着の胸のあたりが、四角くふくらんでいる。見取図と、移動文書だ。
リアは、俺のほうへは来なかった。まっすぐ、鉤竿の船頭の船の前へ行った。俺は船の上で、索を見ていた。見ているふりをしていた、と言ったほうが近い。リアが何をしに来たのか、聞かなかった。聞けば、話が俺を通ることになる。
船頭が、船べりから顔を出した。
「記録の子か」
鉤竿を、船べりに立てかけた。
「字が、書けるんだってな」
「書けます」
船頭は字が書けない。上りの荷の数を書く者がいない、と二日前にこぼしていた。
「上りの荷の数を書いてくれる奴がいりゃ、助かる」
「書きます」
リアは、帳面を開かなかった。
「条件を、言います」
船頭が、眉を上げた。
リアは、左手の指を一本折った。
「書くのは、荷の数と、受け渡しの時刻だけです」
二本目。
「一日いくらかは、今、決めてください」
船頭は少し考えて、数を言った。俺の手間賃と同じくらいだった。リアは、うなずいた。
三本目。
「やめるときは、前の日に言います」
四本目。
「書いた記録の写しを、私も一枚持ちます」
十七日、帳場の棚から出てきたリアの控えを思い出した。君のものだ、預かっていただけだ、とラートさんは言った。自分の名前が書かれた紙を、リアはあの日、初めて手に持った。
船頭は、しばらくリアを見ていた。それから、鼻で笑った。
「……字の書ける奴は、口が多いな」
リアは、何も言わなかった。折った指を、そのままにしていた。
「それでいい」
船頭は、鉤竿を取った。
「三日の朝、上る」
「二日に、用があります。三日なら、行けます」
「そうか」
それで、話はついた。
リアは、誰にも許可を聞かなかった。俺にも。
二十一日前、河務局の窓口で、募集票の条件を言い直していたのは、俺だった。六時間で二十銅貨。食事と寝台は、希望すれば差し引く。リアは横から、控除の行を指で押さえた。
今日は、リアが、自分の条件を言っていた。
*
船頭が船の奥へ戻ると、リアが杭のそばへ来た。俺も、船から下りた。
二人で、並んで立った。上流の方角で、水門が一艘を通していた。扉が開く重い音がして、上りの船がゆっくりと門の中へ入っていく。三日の朝には、あの門を、鉤竿の船頭の船がくぐる。
「ユートさんは、どこへ行くんですか」
リアのほうから、聞いた。
「上」
一度、息を吸った。
「水が来た所を、見に行く」
リアは、上流のほうを見た。
「……同じ方角です」
胸のどこかが、少しだけ軽くなった。上へ行く船の当てが、一つ増えたからだと思った。
少しの間があった。
「でも、同じ所では、ありません」
リアの点線は、上流の荷受け小屋の裏から始まる。石の縁の古い水路。七つ目の曲がりの先で分かれて、見取図の端で切れている。十五日、リアは八十歩だけ、それを実線にした。ここから先は、仕事では行きません、と言った。
あの先は、リアの用だ。
「うん」
一緒に行こう、とは、言わなかった。
言えば、十六日の朝と同じになる。俺の順番で、リアの地図を描くことになる。
リアは、帳面を持ち替えた。
「二日に、測り直します」
「測り直す」
「職業の行です。ミラさんに、聞きました。断っても、決定は変わらないそうです」
それでも、と言うように、リアは少し間を置いた。
「職業の行が、正確かどうか、確かめたいので」
正確かどうか。リアらしい、と思った。自由に値するかを測るのではない。書いてあることが、合っているかを確かめる。九日の朝、二番倉の樽を数え直したのと同じだ。
「一緒に作業をする人が、要るそうです。役割を、替えながら」
リアは、俺を見た。
「……頼んでも、いいですか」
二十二日、宿舎の石段で、リアは初めて俺に一つだけ頼んだ。索のことは、ユートさんの口で言ってください、と。今日が、二つ目だった。
「分かった」
リアは、うなずいた。
それ以上は、何も足さなかった。俺も、足さなかった。
*
午後、下りの便が船着場に着いた。
サナは、赤いスカーフを首に巻き直していた。小さな包みを一つ、脇に抱えている。板と移動文書は、両手で持っていた。濡らさないように、胸の前で。
トーマと、リアと、俺が、渡し板の手前に立った。
船着場の係員が、帳面を持って渡し板の脇にいた。
その顔に、見覚えがあった。十四日、河務局の窓口で、艀の荷運びの女の人の乗船を断って、ミラさんに照合されて、頭を下げていた人だ。
係員は、サナの板を受け取った。読み取り面を見る。
目が、一行で止まった。職業の行だろう、と思った。
係員は、何も言わなかった。板を返し、移動文書を受け取った。紙を開き、上から下まで、指でたどった。
「乗ってください」
サナが、移動文書の一か所を指さした。
「あたしの名前、ここ」
読めないはずの字だった。けれど、サナの指は迷わなかった。二十六日から、形で覚えていたのだ。
係員が、その指の先を見た。
「……はい」
サナは、振り返った。
「リア」
「はい」
「字、今度、教えて」
リアは、少しだけ間を置いた。
「教えます。次に会ったら」
サナはうなずいて、それから、俺を見た。
「あんたも。上で、まっすぐね」
まっすぐ、根元。十日の朝、楔の入れ方をサナに教わった。
「うん」
最後に、サナはトーマを見た。
「……じゃあね」
語尾が、小さくなった。トーマは、片手を上げただけだった。
サナは、渡し板を渡った。船頭が杭の索をほどいた。一握りの余りが、船べりの金具から離れていった。
船が、ゆっくりと岸を離れた。櫂が水を掻く音がした。赤いスカーフが、船の上で一度だけ揺れた。
下流へ。船は、少しずつ小さくなった。
リアは、見えなくなるまで見ていた。
十四日、帰りの橋の上で、リアは艀の女の人を乗せた下りの便を、見えなくなるまで見送った。職業欄と、身分は、別、と帳面に書いた日だ。あのとき、見送る側のリアの胸には、何も入っていなかった。
リアの手が、上着の胸を、一度押さえた。
今度は、リアの胸にも、移動文書が入っていた。




