EP.28 再測定
五月二日の朝、読取所の窓口の机には、器具が二つ並んでいた。
金属の縁の読取器。十三日に、俺が左手を置いたのと同じ形だ。机の端に、作業灯が二つと、模擬の索が二本。壁際で、トーマが腕を組んでいた。ミラさんに頼まれて、対照に来たのだという。ローデルには、半日の休みをもらったそうだ。
ミラさんは、いつもの定型文から始めた。
「就役権の失効後の、任意の分類検査です。結果は、決定と文書に影響しません」
それから、紙に三行書いて、指でなぞった。
「今日は、三つ確かめます。役割を替えて、同じ作業を三回。板と器具を替えて、もう一度。それから、トーマさんにも、同じ手順で」
リアが、うなずいた。
「作業は、灯を点けて、結びを一つ。お二人とも、左手を枠に置いてください」
ミラさんは、俺を見た。
「相手の方の記録も、技能欄の続きとして取ります。よろしいですか」
「はい」
左手を枠に置いた。金属の縁が、冷たかった。隣で、リアも左手を置いた。インクの跡のついた指が、枠の縁にそろった。
「一回目。リアさんが、順番を決めてください」
「灯を点けます。それから、結びます」
リアが灯に手を当てた。光が点いた。三つ数えて手を離し、索を取って、結ぶ。手首を二度返す。俺も、リアの言った順番どおりに灯を点け、結んだ。
器具の面に、細い線が二本浮かんだ。リアの枠にも、俺の枠にも。間に、指一本ぶんの切れ目。作業を替えるとき、たいていの人はここで一度、手を組み直す。十三日に、ミラさんがそう言った。
「二回目。ユートさんが、決めてください」
「結んでから、灯」
リアは何も言わずに、その順番でやった。結んで、灯。線は、二本。
「三回目。お二人で、決めてください」
リアが、こっちを見た。
「どちらからにしますか」
「……灯から。リアは」
「灯からで、いいです」
二人で、灯に手を当てた。
そのとき、明日の朝のことが浮かんだ。
上りの船。船べりの荷の横で、リアが荷の数を書いている。俺は、杭の索を見ている。余りは一握り。どちらの役も、二人で決めた。
名前は、口にしなかった。
胸の奥で、ことり、と掛け金が落ちた。
灯が、手の着いた瞬間に点いた。手首が、灯の点ききる前に、結びの形へ返っていた。
俺の枠の面で、二本の線がつながった。一本になった。
リアの枠の線は、二本のままだった。
ミラさんのペンが止まって、また動いた。
「技能欄。観測、候補。再現、一回。条件、調査中。認証、なし」
少しして、足した。
「魔力、三。レベル、一。変化なし」
十三日と同じ言葉に、再現、の一語が増えていた。
何なのかは、分からない。考えかけて、やめた。今日は、リアの日だ。
*
それから、板を替えた。
ミラさんが棚から新しい板を出して台帳から写し、リアに渡した。器具も、隣の机のものに替えた。同じ三回を、もう一度やった。リアの線は、また三回とも二本だった。
トーマが、枠に左手を置いた。相手は俺だった。トーマが決める。俺が決める。二人で決める。トーマの手は、三回とも同じ速さで灯を点け、同じ強さで索を締めた。
「職業、荷役工」
ミラさんが読んだ。
「……変わらんな」
トーマは、枠から手を離した。器具は、壊れていない。それを確かめるために、ミラさんはトーマを呼んだのだ。
ミラさんが、リアの板を読取器に当てた。器具の面に光の線が走り、字が浮かんだ。一行だけ、ほかの行と違う形をしていた。
リアが、板を取り上げた。読み取り面を、自分のほうへ向けた。
「リア・セルヴィ。身分、自由民。就役権、失効。失効の決定、四一二年」
そこまでは、二十六日と同じだった。
「職業、」
リアの声が、止まった。
「……線です」
リアが、板を少し傾けた。俺にも見えた。字の代わりに、横に一本、線が引いてある。その横に、短い字が並んでいた。
「有効な観測です」
ミラさんが言った。
「どの型にも、当てはまりませんでした。板を替えても、器具を替えても、同じでした。再測定、一致」
少し間を置いて、続けた。
「未測定とは、違います。無職とも、違います」
リアは、しばらく横線を見ていた。
「前の行は、どこへ行きましたか」
「台帳に、残っています。旧測定の行も、日付と一緒に」
ミラさんが、台帳の頁を開いて見せた。青いインクの指先が、一行を示した。リアはその行を読んだ。唇だけが、動いた。
「……正確ですか」
「記録としては、正確です。何が起きているのかは、分かりません」
リアは、板を胸の前で持ち直した。
「分からない、と書いてあるなら、正確です」
十三日、ここから戻った後で、リアは俺の記録について、同じことを言った。条件、調査中。認証、なし。あのとき、リアの板には、職業、奴隷、とあった。
今日、リアは、自分の板について、そう言った。
ミラさんが、ペンを置いた。
「原記録は、ここに残します。写しを、王都へ送ります。器具の記録の決まりです」
*
昼過ぎ、船着場へ行った。
門が一艘を通すたびに、水面が少し持ち上がって、また平らになる。水位標の前で、水門番がしゃがんでいた。十八日に縄の内側で油を差していた男だ。こっちを見て、顎を一度だけ上げた。
鉤竿の船頭の船には、上りの荷が積み終わっていた。麻袋と、塩の俵。苫の縁に、明日の朝の索が巻いてある。杭の根元の石は、今日も乾いていた。
十二日前、俺はこの船着場で、船頭に仕事を聞いて回った。三人目が、この人だった。結べるか、と聞かれて、杭に結んだ。
船頭は船べりに腰かけて、鉤竿の先を拭いていた。
「明日の船、索を見る手は、要りますか」
船頭が、顔を上げた。
「板は見ねえよ」
「結びなら、見せます」
船頭は、鼻で笑った。
「……もう見た。二十日にな」
鉤竿を、船べりに立てかけた。
「来い。六時だ」
「はい」
「記録の子も、乗るぞ」
「知ってます」
「……連れてくのか」
「同じ船です。行き先は、別です」
「そうかい」
船頭は、鉤竿の先を指で弾いた。
「何しに、上る」
「水が来た所を、見に」
船頭は、しばらく俺の顔を見ていた。
「物好きだな」
それから、上流のほうを顎で指した。
「上の水は、冷てえぞ」
上へ行く船に乗る。リアが乗るからではない。水が来た所へ、上っていく船だからだ。
十九日、俺は、誰にも預けずに、逃げることを決めた。今日は、誰にも預けずに、乗ることを決めた。そして、そのわけを、自分の口で言えた。
*
夕方、リアが船着場に来た。明日の荷の数を、船頭と確かめに来たのだ。
帳面を胸に抱えていた。上着の胸が、四角くふくらんでいる。見取図と、移動文書。今日からは、あの板も。
リアは、積まれた麻袋を一つずつ指で数えていった。数えながら、帳面に書く。船頭が何か言い、リアが短く答える。写しの紙を一枚、船頭の前で折って、自分の帳面に挟んだ。四つ目の条件の、実物だった。
荷の確かめが終わるのを、船宿の戸口で待った。
十一日、橋の上で、俺はリアに「いつか一緒に……」と言いかけて、やめた。あの続きを、俺はまだ言っていない。言わないまま、明日、同じ船に乗る。
リアが、こっちへ来た。
「明日、同じ船に乗る」
先に、言った。
「索の手伝いで。船頭に、自分で頼んだ」
リアは、少しのあいだ、俺を見ていた。
「……そうですか」
それから、帳面を持ち替えた。
「私は、記録を書きます」
「俺は、索を見る」
リアは、うなずいた。
「やめるときは、前の日に言います」
船頭に言った、三つ目の条件と同じ言い方だった。
「俺も、そうする」
リアが、少しだけ目を細めた。笑ったのかどうかは、分からなかった。
一緒に行く、のではない。同じ船に、それぞれの用で乗る。やめたくなったら、前の日に言えばいい。それが、今の俺とリアの、いちばん正確な形だと思った。
正確な形だと思ったのに、明日の朝のことを考えると、どこか落ち着かなかった。水の来た所を、見に行くからだ。たぶん。
水の上を、夕方の風が渡っていった。杭の索が、小さく鳴った。張ってはいない。一握りの余りが、揺れている。
明日の朝、水の来た方へ、船は上る。




