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EP.8 選べる者と選べない者

一人で帳場の階段を上がるのは、初めてだった。


一段ごとに板がきしむ。上がりきると、机が三つ並んでいた。棚には帳簿がびっしり詰まり、壁には船便の予定を書いた板が掛かっている。窓からは、荷揚げ場が見下ろせた。白線と、その角も。


いちばん奥の机で、ラートさんが配置表にペンを入れていた。


紙は升目で区切られ、升の一つ一つに名前が書いてある。俺には読めない。けれど、升の数だけ人がいることは分かった。


「来たね。座りなさい」


穏やかな声だった。俺は言われるまま、机の前の椅子に座った。


「上流の荷受け場で、手が足りない。明日の朝六時の便で上がって、十七日に戻る。仕事は積み下ろしと係留だ。条件は今と同じ。向こうでは共同寝台に泊まる」


「……俺に、ですか」


「技能は数えないと言った」


ラートさんはペンを置いた。


「数えるのは、仕事だ。十三日、見張りを最後まで外さなかったと聞いた。十日の結びも、ほどけなかった。上流へは二人回したが、それでも足りない」


窓の外で、トーマが麦袋を肩に担いでいた。白線の角を、サナが通り過ぎる。


「俺が抜けたら、ここは何人ですか」


「四人。明日は麦袋だ。足りる」


答えは、数字だった。迷いのない数字だった。


「雨具は持っているか」


「ありません」


「上流は川風が冷たい。雨も来る。帳場に予備があるから、行くなら貸そう」


ラートさんは少しだけ笑った。


「返事は夕方までにくれればいい。断っても構わない。臨時の仕事だからね」


夕方まで。半日ある。


考えていいのだ、と思った。この世界に来てから、誰かに半日の猶予をもらったのは初めてだった。



前の世界では、決めるのを先延ばしにするのが得意だった。失敗しない選び方を調べて、調べているうちに締め切りが過ぎる。半日あれば、半日迷える。そういう人間だった。



ラートさんは配置表に目を戻した。升目の一つに線を引き、同じ文字を、紙の右の欄へ書き写す。


それから立ち上がり、階段の上から下へ声をかけた。


「リア」


すぐに足音が上がってきた。リアが帳面を胸に抱えて、戸口に立つ。


「明日から上流だ。十七日まで。荷受けの記録を頼む」


「はい」


それで終わりだった。


リアは小さく頭を下げ、階段を下りていった。足音が遠ざかる。


二秒だった。


俺には、夕方まで。リアには、二秒。


ラートさんがリアを呼ぶ前に、配置表に引いた線を思い出した。右の欄へ書き写した文字。字は読めない。けれど、あれが誰の名前だったのかは分かった。リアが階段を上がってくる前に、もう決まっていたのだ。


「リアは、行くって言ったんですか」


口から出ていた。


ラートさんは顔を上げた。気を悪くした様子はなかった。


「配置は私が決める。リアの仕事は記録だ」


樽の数を言うときと、同じ声だった。


  *


階段の途中で、リアが立ち止まっていた。


帳面を胸に抱えたまま、踊り場の小さな窓から運河を見ている。下から、麦袋を運ぶ掛け声が上がってきた。


「上流は、描きたかった所です」


俺の足音に気づいて、リアが言った。振り向かなかった。


見取図の、上流の端。点線が紙の縁で切れていた場所。橋の上で、リアが指さした場所だ。


「ユートさんは、夕方まで考えられます。私は、もう行くことになりました」


責める声ではなかった。帳面の数字を読み上げるのと、同じ調子だった。


「……嫌か」


リアが、初めて振り向いた。少しだけ、驚いた顔をしていた。


「嫌かどうかを、聞かれたことがありません」


リアの親指が、左手のインクの跡をこすっていた。落ちない跡だ。


階段の板が、足の下できしんだ。


どこを描きたいかは、橋の上で聞いた。けれど、行きたいか、行きたくないかを、俺は一度も聞いていなかった。ラートさんも、帳場の誰も、聞いていない。


「……じゃあ、今聞く。行きたいか」


リアは、しばらく黙っていた。


それから、数を言うときの、はっきりした声で答えた。


「行きたいです。描きたかった所なので」


少しの間があった。


「でも、それを言っても、明日の船は変わりません」


その通りだった。俺が聞いても、リアが答えても、明日の配置表は一文字も変わらない。右の欄に書き写された名前は、右の欄のままだ。


聞かなければよかったのか、と一瞬思った。すぐに違うと思った。聞かなければ、リアが行きたいのかどうかを、俺は知らないまま明日の船に乗っていた。


一瞬、頭に浮かんだ言葉があった。


買い取る。


商会から、リアの就役権を。


銅貨十五枚で足りるはずがない、という話ではなかった。仮に足りたとしても、同じだ。買えば、リアの板の権利者の欄が、ローデル運送商会から、俺の名前に変わるだけだ。リアが行き先を選べないことは、何も変わらない。変わるのは、決める人の名前だけだ。


権利者の欄に誰の名前があっても、身分の欄は、就役のままだ。昼間、窓口で聞いたばかりだった。身分は、台帳と文書で決まる。


俺は、その言葉を飲み込んだ。誰にも言わなかった。


リアが、帳面を抱え直した。


「ユートさんが行くかどうかは、ユートさんが決めてください」


まっすぐな声だった。


「私のことで、決めないでください」


それだけ言って、リアは階段を下りていった。


俺は踊り場に残った。


リアが行くなら、俺も行く。さっき、そう言いかけていた。口には出していなかったのに、リアには分かっていたのかもしれない。


もしそう言っていたら、どうなっていただろう。俺が上流へ行く理由が、リアになる。上流で何かあったら、俺はリアのせいにできる。行かなければよかった、と思ったときも、リアのせいにできる。


それは、リアの行き先を、俺の都合で使うということだった。


  *


午後の荷は、麦袋だった。


樽よりは軽い。けれど数が多い。担ぐたびに、麻の目が肩に食い込む。三十も運ぶと、肩の同じ場所がじんじんしてきた。


白線の角を通るたびに、明日のことを考えた。ここに、四人。


四人でも、麦袋なら足りるのだろう。ラートさんの数字は、たぶん正しい。十三日も、五人で足りた。足りたから、次も足りることになる。


「トーマ」


麦袋を下ろしながら、声をかけた。


「俺が抜けたら」


「四人だ」


トーマは袋を積み直しながら答えた。


「麦なら、足りる」


ラートさんと同じ数字だった。けれど、言い終えてから、トーマは一度だけ白線の角を見た。


「……残ったほうが、いいか」


聞いてから、自分が何を言ってほしいのか分かった。


残れ、と言ってほしかったのだ。


前の世界でも、ずっとそうだった。何かを選ぶ前に、誰かが「こっちにしておけ」と言ってくれるのを待っていた。言ってもらえれば、それに従える。うまくいかなくても、自分で選んだわけじゃない、と思える。


失敗しない道を探しているつもりだった。本当は、失敗したときに自分のせいにならない道を探していただけかもしれない。


この世界に来てから、分かれ道を自分で選ぶのはうれしかった。右。まっすぐ。もう一度、右。けれど、あれは間違えても誰も困らない道だった。


今は違う。俺が抜ければ、ここは四人になる。だから、トーマに決めてほしかった。残れと言われて残るなら、上流を見られなかったのはトーマのせいにできる。


さっき階段で、リアのせいにできると気づいたばかりだった。同じことを、今度はトーマにしようとしている。


肩の、麻の目が食い込んだ場所が、じんと痛んだ。


トーマは、担ぎかけた袋を下ろした。


「行きたいのか」


短い問いだった。


「……行きたい」


言ってみて、自分でも少し驚いた。行きたかった。見たことのない上流を、自分の目で見たかった。


橋の上で、リアに話したことだ。行き先を自分で決めて、見たことのない所を歩きたい。あれは、リアの見取図を見て出てきた、借り物の言葉ではなかった。水路脇で目を覚ました朝から、ずっと思っていたことだ。


「なら、行け」


トーマは袋を担ぎ直した。


「お前が残っても、手は二本だ」


読取所で聞いた言葉だった。あのときは、記録の限界を言う言葉だった。今は、違う意味に聞こえた。


行け、と言ったのはトーマだ。けれど、その前に、行きたいかと聞いた。答えたのは俺だった。トーマは、決めてはくれなかった。決めさせてくれたのだと思う。


トーマは、それを三度は言わなかった。一度だけ言って、麦袋を運んでいった。


「上流、見てきなよ」


横から、サナが言った。濡れた袖を絞りながら、早口で続ける。


「水がきれいなんだってさ。見たことないけど。あたしは麦袋。あんたは上流。……いいね、臨時は」


最後の一言だけ、小さかった。


サナは、臨時ではない。行けと言われれば行き、残れと言われれば残る。明日、ここに残る四人の一人だ。


俺は何か言おうとして、やめた。何を言っても、サナの明日の配置は変わらない。代わりに、次の麦袋を担いだ。


  *


夕方、もう一度帳場の階段を上がった。


戸口の机で、リアが今日の荷受けの数を帳面に写していた。俺が階段に足をかけても、顔を上げなかった。わざと上げなかったのだと思う。


ラートさんは同じ机にいた。俺の顔を見て、ペンを置く。


「決めたかね」


口の中まで、言葉が出かかっていた。リアが行くなら——。


階段の途中で聞いた声が、それを止めた。私のことで、決めないでください。


俺は、別の言葉を探した。探すまでもなかった。午後、トーマに言ったばかりだ。


「行きます。俺が、見たいので」


ラートさんは頷いた。


「助かる」


棚の下から、油を引いた布の雨具を出して、机の上に置いた。


「借り物だ。戻ったら返しに来なさい」


油の匂いがした。広げると、肩から膝まで隠れる大きさだった。


「リアの分も、用意してある」


ラートさんは、当たり前のことのように付け足した。記録係が雨で帳面を濡らしては困る、と。


リアの雨具は、リアが頼む前から、用意されていた。


  *


夜、宿舎の石段に座って、銅貨を数えた。


運河の水音が、昼より大きく聞こえる。対岸の倉庫の窓に、灯が二つだけ残っていた。


十五枚。明日から三日、上流へ持っていく全財産だ。


作業灯の明かりに一枚をかざすと、刻印の人物が浮かんだ。片手を高く掲げた、誰かの姿。今まで、ちゃんと見たことがなかった。


「勇者さまの紋」


隣でサナが言った。


「知らないの?」


「……知らない」


「どこから来たのさ、あんた」


サナは笑った。俺は答えられなかった。


勇者がいる世界らしい。そこで俺は、魔力三だ。


少しだけ、おかしかった。勇者の紋が刻まれた銅貨を十五枚握って、借り物の雨具を膝に載せて、明日は麦と樽を運びに上流へ行く。どこかの勇者の話とは、ずいぶん違う。


それでも、行くと決めたのは、俺だった。


石段の上のほうで、リアが帳面を開いていた。サナが、そちらへ顔を向ける。


「リア。上流、見てきなよ」


「見てきます」


リアは帳面の間から、見取図を抜き出した。


行った所は細かく、行っていない所は白い紙。上流の端は、今も白いままだ。


リアはペンを取り、その白い端に、小さく何かを書いた。


「描いたのか」


「描く前に、日付だけ」


リアは紙を少し傾けて、読み上げた。


「四月十五日」


それだけ書いて、見取図を帳面に戻した。


明日、同じ船に乗る。行き先も同じだ。


なのに、選んだのは、俺だけだ。


その問いに、俺は答えを持っていなかった。持っていないまま、ポケットの十五枚を握った。


見取図の白い端には、まだ明日の日付しか書かれていない。

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