EP.7 文書の重さ
翌朝の荷揚げ場は、いつもと同じだった。
トーマが白線を裏手まで歩き、三度確かめる。サナが濡れた袖を絞る。今日の荷は麦袋で、樽ほど重くはない。
昨日、五人で樽三十を揚げた。誰も怪我をしなかった。それを口にする人は、いなかった。
一度だけ、トーマが白線の角で足を止めた。昨日、サナが樽を転がしていた場所だ。
「運が良かった」
独り言のようだった。
「運が良かった」
二度目は、角の石壁に向かって言った。三度目は言わずに、巻き上げ機のほうへ戻っていった。
サナは聞こえないふりをして、麦袋の口紐を締め直していた。
昼前、年配の監督役がリアに紙の束を渡した。
「十一日と十三日の荷受け記録だ。河務局へ。……臨時の、荷物持ちだ」
三日前と同じだった。束は、三日前より少し軽い。十二日が休みだったからだ。
道の途中で、リアが帳面を開いた。
「昨日の記録。ミラさんは、何て書きましたか」
「候補って言っただろ」
「全部です」
言い直すまで、リアは待っていた。
「……技能名、未来確定。申告あり。観測、候補。条件、調査中。認証、なし」
口に出すと、思っていたより長かった。リアは歩きながら、それを一語ずつ書き取った。
「条件、調査中」
最後の言葉だけ、もう一度繰り返した。
「分からないってことだよ」
「分からないことが、何か、書いてあります」
リアは帳面を閉じた。
*
窓口は、昼休みが明けたばかりだった。
長椅子に三人。俺とリアは、その後ろに並んだ。
いちばん前で、二人がミラさんの窓口に立っていた。
一人は、日に焼けた中年の女の人だった。袖をまくった腕が太い。艀の荷運びだと、あとで分かった。
もう一人は、紺の上着に帽子の男だった。上着の胸に、小さな船の刺繍がある。
「船着場の係です」
男は帽子に手をやって、ミラさんに頭を下げた。
「下りの便に、この人を乗せられませんでした。板に、奴隷と出ていまして。権利者の許可がない人は乗せられない決まりです」
女の人は何も言わなかった。黙って、板を台の上に置いた。
その言葉を聞くのは、二度目だった。一度目は初日の夕方、リアが自分の板を読み上げたときだ。
隣で、帳面を持つリアの手が止まった。
「板を開いてもよろしいですか」
「どうぞ」
女の人の声は低く、かすれていた。
ミラさんは板を開き、後ろの棚から分厚い帳簿を一冊抜いた。頁をめくり、板と帳簿を並べる。指で一行ずつなぞる。
「照合します。読み上げます」
定型文だった。
「身分、自由民。就役権、失効。失効の決定、四一一年」
係の男が顔を上げた。
「職業、奴隷。旧測定、四一一年。再検査前」
自由民と、奴隷。同じ板の上に、両方の言葉が並んでいた。
ミラさんは帳簿から目を上げなかった。
「移動文書。河務局の発行。お持ちですか」
女の人が、懐から折りたたんだ紙を出した。角がすり切れている。何度も開いて、何度もたたんだ紙だ。
ミラさんはそれを広げ、帳簿の番号と見比べた。
「一致します。有効です」
「でも、板には……」
係の男が言いかけた。
「職業欄は、測った日の推定です」
ミラさんの声は、定型文と同じ調子だった。
「この方の身分と通行は、台帳と文書で決まっています」
ミラさんは小さな紙に何か書き、印を押して、係の男に差し出した。
「照合済みの控えです。船着場へお持ちください」
男は控えを読んだ。二度読んだ。それから、帽子を取った。
「……申し訳ない。板を見て、そういうものだと思っていました」
女の人は、少しだけ肩をすくめた。
「みんな、そう思うよ」
怒っている声ではなかった。何度も言ってきた声だった。
「船着場の皆さんにも、お伝えください」
ミラさんは係の男を責めなかった。定型文の続きのように言った。
「板の職業欄だけでは、通行は決まりません。迷ったときは、台帳を照会してください。そのための窓口です」
「測り直せば、職業欄の表示は変わります」
ミラさんが言った。
「任意です。今日でも受け付けます」
女の人は首を横に振った。
「測り直すのに、半日かかるだろう。仕事が一日飛ぶ。……次の便には乗りたいんでね」
「承知しました」
ミラさんは、それ以上勧めなかった。帳簿を閉じ、板を返す。
女の人は板を懐にしまい、移動文書をたたみ直した。角のすり切れた紙が、もう一度たたまれる。
「前のところで、決定が出た。去年」
誰に言うでもなく、女の人は言った。何の決定なのか、前のところがどこなのかは、言わなかった。
長椅子の横を通るとき、女の人の目が、リアの手に落ちた。左手の、インクの跡だ。
「字、書けるのかい」
リアは少し驚いた顔で、頷いた。
「いいね。あたしは、この紙を読んでもらうのに、毎回誰かを探す」
女の人はたたんだ移動文書を懐の上から叩いて、それだけ言った。リアの板のことも、身分のことも、何も聞かなかった。
係の男と並んで、女の人は出ていった。戸口で、帽子をかぶり直した男に何か言って、短く笑った。
*
「次の方」
リアが束を差し出した。ミラさんが受け取り、日付を確かめる。
「十一日と、十三日」
それから、ミラさんは俺の顔を見た。
「ユートさん。お仕事、続いていますね」
「はい。六日目です」
三日前と、同じやりとりだった。
リアは、すぐには下がらなかった。
「一つ、いいですか」
小さな声だった。けれど、次の言葉ははっきりしていた。
「職業欄が前のままでも、その文書は、使えますか」
ミラさんは、リアの顔を見た。確かめる目だった。
「使えます。身分と通行は、台帳と文書で決まります」
「……分かりました」
リアの問いは、一つだけだった。
俺は、自分の板のことを考えていた。
職業、未測定。初日に、ミラさんがそう読み上げた。就業の記録がないから、と。
それでも俺は五日働いた。賃金も受け取った。休みの日には、橋の先を一人で歩いた。
「俺の板、職業のところが未測定なんですけど」
「はい」
「それで困ることって、あるんですか」
「未測定は、測っていないというだけです」
ミラさんは、束に受領の印を押しながら言った。
「あなたの雇用は、契約で決まっています。板の欄で決まるのではありません」
ついでのように、ミラさんは俺の板を指した。
「昨日の記録は、板にも入っています。技能の欄は、観測、候補」
「それで、何か変わりますか」
「欄が一つ埋まった、というだけです」
ミラさんの答えは、さっきと同じ形をしていた。
身分。職業。技能。板に並んでいる欄は、それぞれ別のものを書いている。同じ板に並んでいるから、同じ重さに見えていただけだ。
さっきの女の人の板には、奴隷と書いてあった。それでも、あの人は自分で次の便を選んでいた。
リアの板にも、同じ文字がある。
その先を、俺は考えなかった。考えてはいけない気がしたのではない。考えるための材料を、俺は何も持っていなかった。
*
帰り道、リアは橋の上で一度立ち止まった。
三日前、パンを半分に割った橋だ。
上流から、平たい船が一艘、橋のほうへ下ってきた。荷を積んだ下りの便だ。
船べりに、日に焼けた女の人が立っていた。袖をまくった太い腕。さっきの人だ。
女の人は橋の上を見なかった。前だけを見ていた。胸のあたりを、一度だけ手で押さえた。懐に、あの角のすり切れた紙がある場所だ。
船は橋の下をくぐり、下流の水門のほうへ小さくなっていった。
リアは欄干に手を置いたまま、船が見えなくなるまで動かなかった。
「リアは——」
言いかけて、やめた。
何を聞くつもりだったのか、自分でも分からなかった。あの船に乗りたいか。いつか、ああなりたいか。どれも、俺が聞いていいことではない気がした。
リアは、俺が言いかけたことに気づいていたと思う。けれど、聞き返さなかった。
帳面を開き、細いペンで一行書く。書き終えても、すぐには閉じなかった。
「何て書いたんだ」
いつもの問いだった。リアも、いつものように読み上げた。
「十四日。職業欄と、身分は、別」
それだけだった。
「……そうか」
俺は、それ以上聞かなかった。
リアは帳面の間の見取図を指で一度なぞってから、帳面を閉じた。それから、また歩き出した。
荷揚げ場に戻ると、年配の監督役が帳場の階段の下で待っていた。
「戻ったか」
「はい」
「ラートさんが呼んでる。上流の仕事の話だそうだ。お前にな」
俺に。
振り返ると、リアはもう戸口の机に束の控えを置いて、次の帳面を開いていた。




