↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/47

EP.7 文書の重さ

翌朝の荷揚げ場は、いつもと同じだった。


トーマが白線を裏手まで歩き、三度確かめる。サナが濡れた袖を絞る。今日の荷は麦袋で、樽ほど重くはない。


昨日、五人で樽三十を揚げた。誰も怪我をしなかった。それを口にする人は、いなかった。


一度だけ、トーマが白線の角で足を止めた。昨日、サナが樽を転がしていた場所だ。


「運が良かった」


独り言のようだった。


「運が良かった」


二度目は、角の石壁に向かって言った。三度目は言わずに、巻き上げ機のほうへ戻っていった。


サナは聞こえないふりをして、麦袋の口紐を締め直していた。


昼前、年配の監督役がリアに紙の束を渡した。


「十一日と十三日の荷受け記録だ。河務局へ。……臨時の、荷物持ちだ」


三日前と同じだった。束は、三日前より少し軽い。十二日が休みだったからだ。


道の途中で、リアが帳面を開いた。


「昨日の記録。ミラさんは、何て書きましたか」


「候補って言っただろ」


「全部です」


言い直すまで、リアは待っていた。


「……技能名、未来確定。申告あり。観測、候補。条件、調査中。認証、なし」


口に出すと、思っていたより長かった。リアは歩きながら、それを一語ずつ書き取った。


「条件、調査中」


最後の言葉だけ、もう一度繰り返した。


「分からないってことだよ」


「分からないことが、何か、書いてあります」


リアは帳面を閉じた。


  *


窓口は、昼休みが明けたばかりだった。


長椅子に三人。俺とリアは、その後ろに並んだ。


いちばん前で、二人がミラさんの窓口に立っていた。


一人は、日に焼けた中年の女の人だった。袖をまくった腕が太い。艀(はしけ)の荷運びだと、あとで分かった。


もう一人は、紺の上着に帽子の男だった。上着の胸に、小さな船の刺繍がある。


「船着場の係です」


男は帽子に手をやって、ミラさんに頭を下げた。


「下りの便に、この人を乗せられませんでした。板に、奴隷と出ていまして。権利者の許可がない人は乗せられない決まりです」


女の人は何も言わなかった。黙って、板を台の上に置いた。


その言葉を聞くのは、二度目だった。一度目は初日の夕方、リアが自分の板を読み上げたときだ。


隣で、帳面を持つリアの手が止まった。


「板を開いてもよろしいですか」


「どうぞ」


女の人の声は低く、かすれていた。


ミラさんは板を開き、後ろの棚から分厚い帳簿を一冊抜いた。頁をめくり、板と帳簿を並べる。指で一行ずつなぞる。


「照合します。読み上げます」


定型文だった。


「身分、自由民。就役権、失効。失効の決定、四一一年」


係の男が顔を上げた。


「職業、奴隷。旧測定、四一一年。再検査前」


自由民と、奴隷。同じ板の上に、両方の言葉が並んでいた。


ミラさんは帳簿から目を上げなかった。


「移動文書。河務局の発行。お持ちですか」


女の人が、懐から折りたたんだ紙を出した。角がすり切れている。何度も開いて、何度もたたんだ紙だ。


ミラさんはそれを広げ、帳簿の番号と見比べた。


「一致します。有効です」


「でも、板には……」


係の男が言いかけた。


「職業欄は、測った日の推定です」


ミラさんの声は、定型文と同じ調子だった。


「この方の身分と通行は、台帳と文書で決まっています」


ミラさんは小さな紙に何か書き、印を押して、係の男に差し出した。


「照合済みの控えです。船着場へお持ちください」


男は控えを読んだ。二度読んだ。それから、帽子を取った。


「……申し訳ない。板を見て、そういうものだと思っていました」


女の人は、少しだけ肩をすくめた。


「みんな、そう思うよ」


怒っている声ではなかった。何度も言ってきた声だった。


「船着場の皆さんにも、お伝えください」


ミラさんは係の男を責めなかった。定型文の続きのように言った。


「板の職業欄だけでは、通行は決まりません。迷ったときは、台帳を照会してください。そのための窓口です」


「測り直せば、職業欄の表示は変わります」


ミラさんが言った。


「任意です。今日でも受け付けます」


女の人は首を横に振った。


「測り直すのに、半日かかるだろう。仕事が一日飛ぶ。……次の便には乗りたいんでね」


「承知しました」


ミラさんは、それ以上勧めなかった。帳簿を閉じ、板を返す。


女の人は板を懐にしまい、移動文書をたたみ直した。角のすり切れた紙が、もう一度たたまれる。


「前のところで、決定が出た。去年」


誰に言うでもなく、女の人は言った。何の決定なのか、前のところがどこなのかは、言わなかった。


長椅子の横を通るとき、女の人の目が、リアの手に落ちた。左手の、インクの跡だ。


「字、書けるのかい」


リアは少し驚いた顔で、頷いた。


「いいね。あたしは、この紙を読んでもらうのに、毎回誰かを探す」


女の人はたたんだ移動文書を懐の上から叩いて、それだけ言った。リアの板のことも、身分のことも、何も聞かなかった。


係の男と並んで、女の人は出ていった。戸口で、帽子をかぶり直した男に何か言って、短く笑った。


  *


「次の方」


リアが束を差し出した。ミラさんが受け取り、日付を確かめる。


「十一日と、十三日」


それから、ミラさんは俺の顔を見た。


「ユートさん。お仕事、続いていますね」


「はい。六日目です」


三日前と、同じやりとりだった。


リアは、すぐには下がらなかった。


「一つ、いいですか」


小さな声だった。けれど、次の言葉ははっきりしていた。


「職業欄が前のままでも、その文書は、使えますか」


ミラさんは、リアの顔を見た。確かめる目だった。


「使えます。身分と通行は、台帳と文書で決まります」


「……分かりました」


リアの問いは、一つだけだった。


俺は、自分の板のことを考えていた。


職業、未測定。初日に、ミラさんがそう読み上げた。就業の記録がないから、と。


それでも俺は五日働いた。賃金も受け取った。休みの日には、橋の先を一人で歩いた。


「俺の板、職業のところが未測定なんですけど」


「はい」


「それで困ることって、あるんですか」


「未測定は、測っていないというだけです」


ミラさんは、束に受領の印を押しながら言った。


「あなたの雇用は、契約で決まっています。板の欄で決まるのではありません」


ついでのように、ミラさんは俺の板を指した。


「昨日の記録は、板にも入っています。技能の欄は、観測、候補」


「それで、何か変わりますか」


「欄が一つ埋まった、というだけです」


ミラさんの答えは、さっきと同じ形をしていた。


身分。職業。技能。板に並んでいる欄は、それぞれ別のものを書いている。同じ板に並んでいるから、同じ重さに見えていただけだ。


さっきの女の人の板には、奴隷と書いてあった。それでも、あの人は自分で次の便を選んでいた。


リアの板にも、同じ文字がある。


その先を、俺は考えなかった。考えてはいけない気がしたのではない。考えるための材料を、俺は何も持っていなかった。


  *


帰り道、リアは橋の上で一度立ち止まった。


三日前、パンを半分に割った橋だ。


上流から、平たい船が一艘、橋のほうへ下ってきた。荷を積んだ下りの便だ。


船べりに、日に焼けた女の人が立っていた。袖をまくった太い腕。さっきの人だ。


女の人は橋の上を見なかった。前だけを見ていた。胸のあたりを、一度だけ手で押さえた。懐に、あの角のすり切れた紙がある場所だ。


船は橋の下をくぐり、下流の水門のほうへ小さくなっていった。


リアは欄干に手を置いたまま、船が見えなくなるまで動かなかった。


「リアは——」


言いかけて、やめた。


何を聞くつもりだったのか、自分でも分からなかった。あの船に乗りたいか。いつか、ああなりたいか。どれも、俺が聞いていいことではない気がした。


リアは、俺が言いかけたことに気づいていたと思う。けれど、聞き返さなかった。


帳面を開き、細いペンで一行書く。書き終えても、すぐには閉じなかった。


「何て書いたんだ」


いつもの問いだった。リアも、いつものように読み上げた。


「十四日。職業欄と、身分は、別」


それだけだった。


「……そうか」


俺は、それ以上聞かなかった。


リアは帳面の間の見取図を指で一度なぞってから、帳面を閉じた。それから、また歩き出した。


荷揚げ場に戻ると、年配の監督役が帳場の階段の下で待っていた。


「戻ったか」


「はい」


「ラートさんが呼んでる。上流の仕事の話だそうだ。お前にな」


俺に。


振り返ると、リアはもう戸口の机に束の控えを置いて、次の帳面を開いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。