EP.6 言葉と移行
読取所の窓口に立つのは、二日ぶりだった。前はリアの届け物の荷運びで、今日は自分の記録だ。
「技能の観測記録ですね」
ミラさんは俺の顔を覚えていた。それでも、最初の一言は定型文だった。
「申告、観測、認証は、別々の欄です。申告は本人の言葉。観測は、ここで確かめられた反応。認証は、効果と条件が確認できたときだけ」
ミラさんは俺の板を台に置き、端の空欄を指で示した。
「今日確かめるのは、真ん中の欄です。……繰り返してもらえますか」
「申告は俺の言葉。観測は、ここで見えた反応。認証は、まだ先」
「結構です」
トーマが、肩に担いできた袋を台の横に下ろした。中身は作業灯と、練習用の短い索だ。荷揚げ場から持ってきた。
「普段の作業で、測れるか」
「できます。そのほうが、ご本人の反応が出やすい」
ミラさんは、金属の縁の器具を俺の前に引き寄せた。五日前に手を置いた器具だ。
「左手を枠に。右手で、普段の作業を二つ続けてください。灯を点ける。結びを一つ。それだけです」
左手を枠に置いた。冷たい。
右手を作業灯に当てる。板が吸いつく手応えを待って、光ってから三つ数える。灯が点いた。
手を離して、索を取る。模擬の杭に回して、手首を二度返す。結び目が締まった。
器具の面に、細い線が二本浮かんだ。短い線と短い線の間が、指一本ぶん空いている。
「灯と結びの間に、切れ目があります」
ミラさんがペンを走らせた。
「普通です。作業を替えるとき、たいていの人はここで一度、手を組み直します」
トーマが小さく頷いた。
*
「では、申告された技能を、今ここで使ってください」
窓口の定型文と、同じ調子の声だった。
俺は左手を枠に置いたまま、息を吸った。
「《未来確定》」
灯に触れる。吸いつく手応え。三つ数える。点く。索を取る。二度返す。締まる。
器具の面には、さっきと同じ二本の線。間の空きも同じだった。
「同じ言葉で、もう一度」
「《未来確定》」
同じだった。
窓口の奥で、誰かが紙をめくる音がした。顔が熱くなった。
ミラさんは表情を変えずに書いた。
「指示による復唱、二回。変化なし」
一回目と同じ、丁寧な字だった。失敗も、成功と同じ大きさで書かれていく。
十日の午後、一人で杭に向かって名前を言ったときと同じだ。何も起きない。
これで終わりなら、話は早い。「本物」ではなかった。ラートさんは七人に戻すかもしれない。戻さないかもしれない。
*
ミラさんが、ペンを止めた。棚から登録の控えを取り出し、五日前の頁を開く。
「申告のとき、あなたはこう言いました。『未来を思い浮かべると、決まる感じがした。さっき一回』」
読み上げる声が、少しだけ変わった。定型文ではない声だった。
「今日の二回と、その一回は、何が違いましたか。そのとき、何をしていましたか」
「何を……」
水路脇で目を覚ました朝。腹が減っていて、今夜どこで寝るのかも分からなかった。
「今夜のことを、考えてた。どこで食べて、どこで寝るか。それと、運河の先」
「名前は、そのとき言いましたか」
「……言ってない。名前は、あとで付けた」
十日もそうだった。樽の山の前で、名前を口にする暇はなかった。
トーマが、横で腕を組み直した。二時の船まで、あと二時間ほどだ。
今夜のこと。
夕方、樽三十を揚げ終える。五人全員が宿舎へ戻る。いびきのうるさい共同寝台で、粥をすする。サナが早口で何か文句を言っている。リアは帳面に一行書く。
明日の朝も、六時に荷揚げ場に立つ。
それから、いつか。橋の先の、そのまた先まで、自分の足で歩く。
胸の奥で、ことり、と掛け金が落ちた。
右手が、作業灯に触れた。
手が着いた瞬間に、灯が点いた。吸いつく手応えを、待たなかった。手のほうが、もう合わせ方を知っていた。
三つ数える前に、手首は索の形になっていた。
索を取る。杭に回す。二度返す。締まった。
「手首が、先に返った」
トーマが言った。
「灯が点ききる前に、結びの形になってた。……十日の、あの早さだ」
ミラさんは器具の面を見ていた。そこに浮かんでいたのは、二本の線ではなかった。灯のところから結びのところまで、一本の線がつながっていた。
「二つの作業で、同じ形の準備が出ています」
ミラさんは、ゆっくりと言った。
「作業を替えたのに、組み直していない。灯のときの準備が、結びでもそのまま繰り返されています」
*
ミラさんは書き終えてから、読み上げた。
「技能名、未来確定。申告あり。観測、候補。条件、調査中。認証、なし」
付記も読む。
「指示による復唱二回、変化なし。発話なしの作業で、二作業にまたがる同型の準備、一回。魔力、三。レベル、一。変化なし」
「候補……」
「一回の記録です。何がそろえば出るのかは、分かっていません。ですから、調査中です」
聞かずにいられなかった。
「これは、本物ってことですか」
ミラさんは、首を縦にも横にも振らなかった。
「本物かどうかは、私は判定しません。記録できるのは、準備の違いです。言葉が本心かどうかも、二時の荷が安全かどうかも、この器具は測りません」
それから、器具の端の数字を指した。
「魔力は三のままです。樽を持ち上げる力は、変わっていません」
トーマが、索を袋に戻しながら言った。
「手は、二本のままだ」
一度だけだった。三度は言わなかった。
俺は自分の右手を見た。索の擦れ跡がある、いつもの手だ。
本物と出たら、五人の中の一人分として数えられる。そう思って、ここまで歩いてきた。
でも、記録に出たのは準備の形だった。十日も、吊り上げたのはトーマで、鉤を掛けたのはサナだった。数を答えたのはリアだ。
「記録には、出た」
口に出してみた。
「でも、俺は一人分にはならない」
ミラさんは何も言わずに、記録の写しを一枚、封をせずに渡してくれた。俺には読めない字で、今の記録が全部書いてあるはずだった。
*
帰り道、トーマは黙って歩いていた。袋の中で、作業灯が小さく鳴った。
橋の手前で、トーマが口を開いた。
「出ないほうが、いいと思ってた」
「記録が?」
「出たら、お前が二人分に数えられる」
トーマは前を向いたまま言った。
「十日のあれは、本当に早かった。でも、あれを当てにして人を減らしたら、次に誰かが帰れなくなる」
補修跡のある安全靴が、一歩ごとに石畳を擦った。
「……俺も、どっちを望めばいいのか分からなかった」
「そうか」
それだけ言って、トーマはまた黙った。
*
荷揚げ場に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
ラートさんは帳場の机で、ミラさんの写しを最後まで読んだ。一行ずつ、指でなぞりながら。
「候補、か」
顔を上げる。
「認証はない。なら、数えない」
穏やかな声だった。
一瞬、息が抜けた。
「なら、七人に」
トーマが言いかけた。
「五人で行く。理由は、朝に話した三つのままだ」
ラートさんは写しをそろえて、机の端に置いた。
「記録は保管しておく。確かめてくれて、ありがとう」
階段を下りながら、やっと分かった。
本物と出ても、出なくても、今日は五人だった。ラートさんの答えは、読取所に行く前から決まっていた。俺の名前は、その答えの上に乗るかもしれなかった、というだけだ。
戸口の机で、リアが帳面を開いていた。
「記録、何て出ましたか」
「候補。……分からない、ってことだ」
リアは少し考えた。
「分からない、と書いてあるなら、正確です」
*
午後二時、船が着いた。
吊りにトーマ。受けに一人。転がしに二人。残りの一人が、俺だった。
楔と、白線の見張り。
樽が一つ下りてくるたびに、楔を入れる。入れたら顔を上げて、角を見る。白線からはみ出していないか。引き波は来ていないか。サナの足元は空いているか。
また樽が下りてくる。楔。顔を上げる。角。
見張りを兼ねるというのは、一度も目を離せないということだった。
名前は、一度も口にしなかった。そんな暇はなかったし、口にしたところで手が増えるわけではない。
サナは角にいちばん近い場所で、黙って樽を転がしていた。いつもの早口は、最後まで聞こえなかった。
三十個目の樽に楔を入れたとき、運河の水は赤くなりかけていた。
誰も、怪我をしなかった。
サナが濡れた袖を絞って、ぽつりと言った。
「……今日は、何も」
それ以上は、言わなかった。
リアが帳面を開き、書きながら読み上げた。
「十三日。五人。樽、三十。負傷、なし」
正確な一行だった。
ラートさんが朝に言った、三つ目の理由を思い出した。三年で、負傷が一件だけ。十日も無事だった。
商会の記録にも、今日の一行が足されるのだろう。五人で、樽三十。負傷なし。
無事に終わったことが、次の五人の理由になる。




