EP.5 動かす理由
休業日の帳場は、いつもより静かだった。
年配の監督役が、机の上に銅貨を並べていく。一枚、二枚と数えて、十六で手が止まった。
「四日分。控えどおりだ」
両手で受け取った。思っていたより重い。小さな金属が十六枚、手のひらの上で触れ合って、かちりと鳴った。
この世界に来て、初めて自分の金を持った。
ポケットに入れかけて、一枚だけ指に残した。
宿舎の前の石段で、リアが帳面を膝に広げていた。休みの日でも、帳面は手放さないらしい。
「リア」
俺は銅貨を一枚、差し出した。
「昨日のパン」
リアは銅貨を受け取って、少しだけ眺めた。それから、帳面に一行書いた。
「何て書いたんだ」
「十二日。ユートさんから、一銅貨。受け取りました」
「……それ、書くのか」
「書きます」
リアは帳面を閉じた。
残りは十五枚。粥なら三杯、寝台なら三晩。ポケットの中で握ると、指の形に沿って少しだけ温まった。
今日は休みだ。仕事はない。どこへ行ってもいい。
そう思った瞬間、足が橋のほうへ向きかけた。昨日パンを食べた、あの橋。その先の、まだ歩いていない道。
振り返ると、リアはまた帳面を開いていた。見取図だった。昨日の橋のあたりに、細いペンで何かを描き足している。
「休みの日も、出られないのか」
「許可がいるので」
リアは顔を上げずに答えた。初日の夕方と、同じ答えだった。
「……俺、ちょっと橋の先まで歩いてくる。見てきたもの、あとで話そうか。描けるように」
リアのペンが止まった。
少しの間があってから、彼女は首を横に振った。
「いいです。自分で見たいので」
責める声ではなかった。ただ、はっきりしていた。
「そうか」
そうだった。昨日、橋の上で聞いたばかりだ。自分で行って、自分で描きたい。
俺は橋のほうへ一人で歩き出した。十五枚の銅貨が、歩くたびにポケットの中で小さく鳴った。
橋を渡り、その先の道を初めて歩いた。
休みの日の通りには、仕事の日とは違う人がいた。子どもを肩に乗せた男。籠に野菜を積んだ女。角の店の前で、老人が二人、何かの駒を並べて睨み合っていた。
分かれ道に出るたび、自分でどちらに行くかを決めた。右。まっすぐ。もう一度、右。誰にも何も言われない。それだけのことが、妙にうれしかった。
帰り道、宿舎の前を通ると、リアはまだ石段で見取図を描いていた。
見てきたものは、話さなかった。
*
翌朝、荷揚げ場に集まったのは五人だった。
トーマ、サナ、俺。それに、ほかの班から回された作業員が二人。
トーマは白線を裏手まで歩き、戻ってきて、全員の顔を見た。
「五」
もう一度、数える。
「五」
三度目は、ほとんど聞こえないくらい低かった。
「船は午後二時。樽三十」
回されてきた作業員の一人が、「五人か」とだけ呟いた。もう一人は黙って手袋をはめた。
「五人だと、どうなる」
俺が聞くと、トーマは白線の角を顎で示した。
「吊りに一人。受けに一人。転がしに二人。それで四人。残りの一人で、楔も、白線の見張りも、両方やる」
十日は七人いた。それでも、角で山ができた。
サナが、濡れた袖を黙って絞った。
帳場の階段を、リアが紙を二枚持って下りてきた。
一枚は、一昨日帳場の横に貼られていた配置表だ。もう一枚は、見たことのない紙だった。
「点検欄です。この荷揚げ場の決まりが書いてある紙」
リアは二枚を、戸口の机に並べた。
「樽の荷揚げの標準人数は、七。今日の配置表は、五」
数のところで、声がはっきりした。
「七が決まりなのに、五でいいのか」
「分かりません。だから、並べました」
リアはさらに自分の帳面を開いて、十日の頁を二枚の横に置いた。六時の点検。十時の変更。引き波。あの日、彼女が書いた三行だ。
*
階段の上から、足音が下りてきた。
幅の広い肩。きれいに整えた灰色の髪。作業用の外套を着ているのに、袖口まで汚れひとつない。
年配の監督役が、少しだけ背筋を伸ばした。
「ラートさん。商会の、現場の責任者」
サナが、俺の横で小声で教えてくれた。
ベルン・ラートは、机の前で足を止めた。その前に一度、トーマの足元を見た。
「トーマ。その靴、修理代は帳場に申請しなさい。先月の分も出ていないだろう」
「……はい」
それから、机の上の紙に目を移した。
「リア。何か、あるそうだね」
穏やかな声だった。怒鳴る人の声ではない。
リアは何も言わずに、並べた紙を少しだけ彼のほうへ押した。
ベルンは一枚ずつ、最後まで読んだ。点検欄。配置表。十日の記録。読んでいる間、誰も口をきかなかった。運河の水音だけがしていた。
「正確だ。ありがとう」
紙から顔を上げて、ベルンは言った。
「そのうえで、今日は五人で行く。理由は三つある」
指を一本立てる。
「一つ。下りの便との約束だ。今日の二時の樽を、夕方までに積み替える。遅れれば、次の契約はない。契約がなくなれば、この商会で働く五十人の仕事が止まる。ここにいる全員も、その五十人に入っている」
二本目。
「二つ。二人は上流の急ぎの仕事へ回した。商会全体で、人が足りない」
三本目。
「三つ。この荷揚げ場は、三年で負傷が一件だけだ。十日の荷崩れも、誰も怪我をしなかった」
ベルンは指を下ろした。
筋は通っていた。少なくとも、俺にはそう聞こえた。
「角で、前に……」
サナが言いかけた。
ベルンはサナを見た。責める目ではなかった。
「記録にある。本人の不注意だった」
サナは口を閉じた。濡れた袖を、絞らずに握りしめていた。
「板の分類どおりに人を置けば、事故は防げる。私はずっと、そうしてきた」
最後まで、穏やかな声だった。
俺は、一つだけ聞いた。
「引き波がもう一度来たら、五人で止められますか」
ベルンは少し考えてから答えた。
「来ても、十日は無事だった」
答えになっている気がした。けれど、どこかが答えになっていない気もした。
*
ベルンが、俺のほうを向いた。
「君が、臨時の」
「ユートです」
「十日の件は、君が片付けたと聞いた。板に、技能の申告があるそうだね」
心臓が、一度だけ強く打った。
「申告だけです。認証はありません」
「なら、確かめればいい」
ベルンは、当然のことのように言った。
「本物なら、五人で足りる」
その一言で、何かがずれた。
俺が水路脇で付けた名前が、五人の中の、足りない一人分として数えられようとしている。
「午後の船の前に、読取所で記録を取ってきなさい。トーマ、付いていってくれ」
トーマは、すぐには返事をしなかった。
「技能の記録と、点検は別だ」
低い声だった。
「技能の記録と、点検は別だ」
「分かっている。だから、両方確かめる」
ベルンは頷いて、階段を上がっていった。
足音が消えてから、サナがようやく息を吐いた。
「……不注意じゃ、なかったんだけどな」
誰に言うでもない、小さな声だった。リアがサナの顔を見た。何か言いかけて、やめて、代わりにサナの濡れた袖に一度だけ手を置いた。
リアは、机の上の紙を集めた。帳面を開き、また一行書いた。
「何て」
「十三日。ラートさん、五人で行く。理由、三つ」
それだけ言って、リアは帳面を閉じた。
*
読取所へ向かう道で、トーマは一度だけ足を止めた。
「技能の記録と、点検は別だ」
三度目は、俺にだけ言った。
俺は頷いた。頷くことしかできなかった。
歩きながら、考えた。
記録で「本物」と出たら、今日は五人で行く。俺の名前が、足りない一人の代わりになる。
「本物」と出なかったら、どうなる。ベルンは七人に戻すのか。それとも、やっぱり五人で行くのか。
どちらを望めばいいのか、分からなかった。十日、樽の山の前で掛け金が落ちたのは本当だ。けれど、同じ日の午後、名前を言っても何も起きなかったのも本当だった。
通りの先に、読取所の建物が見えてきた。五日前、技能の欄に名前を書いてもらった窓口だ。
《未来確定》。水路脇で、自分で付けた名前だった。あのときは、格好いいと思った。
今は、ポケットの十五枚の銅貨より、ずっと重かった。




