EP.4 見取図の先
荷崩れの翌朝、荷揚げ場は少し静かだった。
トーマは白線の端から端までを歩いて、「幅よし」と三度言った。昨日より声が低かった。
サナは水際で、いつもどおり袖を絞っていた。目が合うと、軽く片手を上げた。それだけだった。それでよかった。
楔を入れていると、年配の監督役に呼ばれた。
「お前、今日は荷運びだ。リアの届け物に付いていけ。二日分で重い」
帳場の机の上に、帳面の束が二つ積んであった。九日と十日の荷受け記録だという。リアが一つ、俺が一つ。持ち上げると、腕にずしりときた。
「河務局の窓口まで、二十五分です」
リアはそれだけ言って、歩き出した。
石畳の道を、束を抱えて並んで歩く。リアの歩幅は小さいのに、速い。毎日この道を歩いているのだろう。
束を抱え直したとき、リアの左手が目に入った。指の腹に、黒いインクが染みている。初日に窓口で見たのと同じ跡だ。
「それ、落ちないのか」
「毎日書くので。洗っても、次の日にはまた付きます」
リアは自分の指を見て、それから俺の手を見た。
「ユートさんのも」
俺の手のひらには、索で擦れた赤い跡が二本走っていた。昨日、樽の山を杭に留めたときのものだ。
「毎日結ぶからな」
言ってみると、少しだけ誇らしかった。リアは何も言わなかったが、歩く速さがほんの少しだけ落ちた。
*
河務局の建物の扉には、札が一枚下がっていた。
「昼休みです。一時まで」
リアが札を読んだ。俺には、線と点の並びにしか見えない。
「待つのか」
「待ちます。束を持って帰るわけにはいかないので」
二人で、近くの橋まで戻った。欄干の根元に束を置いて、石段に腰を下ろす。運河を渡る風が、汗ばんだ首に当たって気持ちよかった。
橋のたもとで、パンを売る屋台が湯気を立てていた。腹が鳴った。朝のパンは、とっくに消えている。
俺は、ポケットに手を入れかけてやめた。中は空だ。賃金が出るのは明日で、それまで俺の手元には一枚の銅貨もない。
リアが立ち上がって、屋台へ行った。戻ってきた手には、丸いパンが一つあった。
彼女はそれを二つに割って、片方を俺に差し出した。
「……いいのか」
「商会から、毎日少しだけもらえるお金があるので」
「明日、賃金が出たら返す」
「一銅貨です」
即答だった。俺は笑いそうになって、パンを受け取った。まだ温かかった。
下流に、石造りの大きな門が見えた。両岸から太い柱が立ち、その間を分厚い板の扉がふさいでいる。扉の手前で、荷船が二隻、順番を待っていた。
「あれは」
「市内の水門です」
目を凝らすと、水門の脇に、草の生えた細い道があった。
三日前の朝、俺はあそこで目を覚ました。ブレーキの音と、知らない水の匂いと一緒に。
「俺、あそこで目を覚ましたんだ」
リアは少しだけこちらを見た。何も聞かなかった。代わりに、水門を見たまま言った。
「あの水門は、河務局のものです。うちの商会は、開けろとも閉めろとも言えません」
「商会のじゃないのか。毎日、荷を通してるのに」
「通してもらっているだけです。門を決めるのは、河務局です」
荷船が一隻、ゆっくりと扉の中へ入っていった。
「なあ。ここから荷揚げ場って、どっちだ。毎日歩いてるのに、まだ分からない」
リアは、すぐには答えなかった。膝の上の帳面を見て、少し迷うように指を止めた。
それから、帳面の間に挟んであった一枚の紙を抜き出した。
*
何度も折り畳まれて、角の丸くなった紙だった。
リアはそれを膝の上で広げた。
地図だった。
細いペンの線で、運河が一本、紙の真ん中を横切っている。その脇に、小さな四角がいくつも並んでいた。
「ここが荷揚げ場です。これが二番倉、三番倉。宿舎。この橋。河務局」
リアの指が、線の上を順に動いた。数を読むときと同じ、はっきりした声だった。
「これが、市内の水門」
水門の脇の水路沿いにも、細い道が一本描き込んであった。俺が目を覚ました、あの草の生えた道だ。
「荷揚げ場へは、この橋を渡って、運河沿いにこう戻ります」
リアの指が、橋から荷揚げ場まで、道を一本たどった。俺が毎日、何も考えずに歩いていた道だった。上から見ると、運河に沿って大きく曲がっている。
初めて、この街の中で自分がどこにいるのかが分かった気がした。
地図は、描いてある所だけがやたらに細かかった。倉の戸口の数まで分かる。けれど、そこから少し離れると、紙はいきなり白くなる。
「全部、自分で描いたのか」
「仕事で行った所だけです」
リアは白いところを、指先で軽くなぞった。
「行った所を描いていたら、行っていない所の形が、気になって」
運河は、紙の上流の端から先へ抜けていた。その端の近くで、薄い点線が一本、運河から分かれている。点線は少しだけ伸びて、紙の端で切れていた。
「この点線は」
「昔の水路です。……たぶん」
リアは、少し言いにくそうにした。
「商会の古い帳面の裏に、昔の運河の図が写してあったんです。今の運河と、ほとんど同じでした。この線だけが、今はありません」
「何の水路なんだ」
「書いてありませんでした」
「どこへ続いてる」
「分かりません。紙の端で、切れていたので」
点線の先には、何も描かれていなかった。
リアは、地図の白いところをもう一度なぞった。
「仕事で行く所は、全部描きました」
それから、少しだけ間を置いた。
「……描いてない所に、自分で行って、自分で描きたいです」
数を言うときと同じくらい、はっきりした声だった。
俺は、三日前の水路脇を思い出していた。屋根の下で粥を食べている自分と、その少し先で、この運河の果てまで歩いていく自分。
「俺は、行き先を自分で決めて、見たことのない所を歩きたい。……最初の日から、それだけは決まってた」
「そうですか」
リアは地図から目を上げなかった。けれど、指は止まっていた。
「じゃあ、いつか一緒に——」
言いかけて、止めた。
リアが言ったのは、「自分で」だった。
「……リアは、最初にどこを描きたい」
リアは少し驚いた顔で俺を見た。それから、紙の上流の端を指さした。点線が切れている、その辺りだった。
しばらく、二人とも黙っていた。
水門の扉がゆっくりと開いて、待っていたもう一隻の荷船が、中へ入っていった。船の上で、誰かが上流のほうを指さして笑っていた。あの船は、紙の端の先まで行くのだろうか。
リアは地図を丁寧に折り直して、帳面の間に戻した。
橋の向こうで、河務局の扉が開く音がした。
窓口にはミラさんがいた。束を二つ受け取り、冊数を数えてから、俺の顔を見た。
「ユートさん。お仕事、続いていますね」
「はい。四日目です」
ミラさんは小さく頷いて、受領の札をリアに渡した。
*
荷揚げ場に戻ると、帳場の横の板に、新しい紙が一枚貼られていた。
「何て書いてある」
リアは紙の前に立って、読んだ。
「十三日。人数、五。樽、三十」
昨日は七人で、樽は二十四だった。
「何、新しいの?」
後ろから、サナが覗き込んだ。袖はまだ濡れている。
「十三日の配置です。人数、五。樽、三十」
リアが読むと、サナの顔から笑いが抜けた。
「五人で、三十……」
そこで、言葉が止まった。サナは袖を絞りかけて、やめた。
リアは帳面を胸に抱え直した。それから配置表の前で、もう一度だけ数を読んだ。
「十三日。人数、五。樽、三十」
声は、いつもどおりはっきりしていた。
未払いは、合わせて十六銅貨になった。明日は休みで、賃金が出る日だ。
俺は運河のほうを見た。上流は、ここからでは見えなかった。




