EP.3 退く道を作る
六時、トーマは退避路を裏手まで歩いた。
白線の内側に荷はない。幅は、人が二人すれ違える。水際の係留杭から裏手の戸口まで、途中で曲がる角が一つ。角は、荷を吊る滑車のすぐ脇だ。
「幅よし。人数、七」
戻ってきて、同じことを言う。三度目は、荷揚げ場の全員に聞こえる声だった。
荷船が着いたのは、その少し後だった。平たい底の船に、船べりまで樽が積まれている。樽一つで大人一人より重い、とトーマは言った。
樽は三つずつ網に入れて吊り上げる。水際の梁に滑車が吊ってあり、トーマが倉庫側で巻き上げ機の把手を回すと、網が持ち上がる。サナが水際で網の鉤を外し、ほかの作業員が樽を転がして仮置きの列に並べる。
俺の持ち場は、その列だった。並んだ樽の根元に、三角の楔を蹴り込んでいく。
「吊り、三つ。これで九」
倉庫の戸口に置いた小さな机で、リアが網の数を取っていた。数のところだけ、声が通る。
「楔、斜めに入れると抜けるよ。まっすぐ、根元」
水際から、サナが鉤を外しながら言った。手は止めない。
「分かった」
「分かったって顔じゃない。ほら、それ」
言われた樽の楔を蹴り直すと、樽の揺れが止まった。サナはもう次の網を見上げていた。
楔を十二まで数えた頃には、手順が体に入ってきた。樽が止まる。次の網が来る。止める。網が下りるたび、トーマは巻き上げ機の横で「下ろす」と三度言う。水際のサナが「外した」と返す。その声が、荷揚げ場の拍子になっていた。
*
十時を少し過ぎた頃、年配の監督役が荷揚げ場へ下りてきた。
「下りの便が早まった。仮置きは倉の前じゃなく、角寄りに寄せろ。帳場に来た指示だ」
トーマは巻き上げ機の把手を握ったまま、顔だけを向けた。網は宙にある。手を離せる状態ではない。
「……了解」
作業員たちが、並べかけの樽を角のほうへ転がし始めた。
角。昨日、サナが指さした場所だ。樽は転がるから、あそこで線からはみ出す。
「角は、はみ出しやすいって聞きました」
近くの作業員に言うと、彼は樽を押しながら首だけ振った。
「指示だ。下りの便に間に合わせないと、全部やり直しになる」
責める相手を探している顔ではなかった。急いでいる顔だった。俺はそれ以上言わずに、後ろから楔を追いかけた。列が伸びるのが速い。三つ入れるあいだに、五つ並ぶ。
そのとき、運河の真ん中を大きな船が通った。
少し遅れて、引き波が岸へ寄せてきた。荷船が揺れ、吊られていた網が大きく振れた。
網が、仮置きの列の端にぶつかった。
いちばん端の樽が楔ごと押し出され、隣の樽を押した。二つ、三つと転がって、角の石壁にぶつかる。樽は折り重なって止まり、退避路をふさいだ。
トーマはすぐに、網を荷船の上へ下ろした。
「サナ!」
誰かが叫んだ。
サナが、水際に取り残されていた。
後ろは運河。前は、折り重なった樽の山。抜ける道はない。
山のいちばん上の樽が、ぐらりと揺れた。あれが崩れたら、サナは運河へ押し出される。
倉庫の戸口から、リアが飛び出してきた。白線の手前で止まり、帳面を胸に抱えたまま、樽の山を見ていた。
*
俺は白線の外側にいた。
裏の戸口までの道は空いている。走れば、すぐに逃げられる。
臨時雇いだ。怪我をすれば、明日の仕事はない。仕事がなければ、粥も寝床もない。おとといの水路脇に、手ぶらで戻るだけだ。
「誰か呼んでこい!」
年配の監督役が叫んでいる。人を呼んで、樽を一つずつ手でどかす。でも、その前に山が崩れるかもしれない。
樽の山が、低くきしんだ。サナが肩をすくめた。
俺は、今夜を思い浮かべた。
いびきのうるさい共同寝台で、粥をすすっている自分。明日の朝、トーマの前で結びを見せている自分。リアと札を合わせ、サナの早口を聞きながら、この現場で働いている自分。
胸の奥で、ことり、と掛け金が落ちた。
楔。杭。手首を二度。張った索の内側。白線。リアの数。トーマのいる場所。昨日から今朝までに見たものが、一度に、使う順番で並んだ。
足りないのは、知らないことだけだった。
「サナ、どの樽が支えてる」
「……右から、二つ目。あれを抜けば、道ができる。と、思う」
声は震えていたが、指は迷わなかった。
「リア、角に何個」
「五つ」
「トーマ、あの樽、吊れるか」
「吊れる。でも、ここから角が見えない」
巻き上げ機の前からは、樽の山が壁になっている。
「俺が見て、声で伝える」
まず、山を止める。
係留杭へ走り、予備の索を杭に回した。手首が、考えるより先に二度返った。右から二つ目を残して、ほかの樽をまとめて索で巻いていく。
途中で、山がまた揺れた。
サナが短く息をのんだ。
「大丈夫だ。もう少し」
言いながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに驚いた。索の端を杭へ戻して、引く。結び目が杭に噛んだ。根元に楔を二つ蹴り込む。
これで、山は崩れない。
次に、白線の端に立った。ここからなら、角とトーマの両方が見える。
「トーマ、鉤を下ろせ。右。もう少し右。止め。下ろせ」
空の鉤が、ゆっくりと角の上へ下りてきた。
「サナ、その鉤を、右から二つ目に」
「掛けられる。いつもやってる」
サナは鉤をつかみ、樽の縁に掛けた。濡れた袖で一度滑り、二度目で掛かった。
「サナ、索から一歩離れろ。張ったら跳ねる」
昨日、トーマに教わったことだ。サナが一歩、横へ下がった。
「トーマ、上げろ。ゆっくり」
「上げる。上げる。上げる」
索が張り、右から二つ目の樽が、きしみながら山から抜けて宙に浮いた。
残りの樽が揺れた。俺の結んだ索が、ぴんと張る。結び目は動かなかった。
「角に四」
リアの声がした。
山に、人一人分の隙間ができていた。
「サナ、こっちだ。白線に沿って」
サナは壁に肩を擦りながら隙間を抜け、白線の内側を走ってきた。戸口の手前で、ようやく止まった。
リアが帳面を放り出して駆け寄った。サナの濡れた両手を取って、指を一本ずつ見ていく。
「怪我は」
「ない。……ないよ、リア」
サナが笑おうとして、うまく笑えずにいた。リアは何も言わずに、サナの手を離さなかった。
*
誰も怪我をしなかった。
サナは戸口の脇に座り込んで、濡れた袖を長いこと絞っていた。
「前にもあそこで、人が挟まった。足」
絞る手が止まった。
「……今日は、挟まらなかった」
それ以上は言わなかった。代わりに、俺の手元を見た。
「あんたの結び、ほどけなかったね」
「十回やった」
「昨日?」
「昨日。朝と、午後に」
サナは少しだけ笑って、また袖を絞った。礼は言われなかった。言われなくて、よかったと思った。あの樽を言い当てたのはサナで、鉤を掛けたのもサナだった。
リアは机に戻って、帳面に何かを書いていた。いつもより長い行が三つ。
「何て書いたんだ」
「六時、退避路の幅あり。トーマ確認。十時、仮置きの位置を角寄りへ変更。帳場の指示と聞いた。十時過ぎ、引き波。吊り荷が列の端に接触」
ペンを置いて、付け足した。
「原因は、まだ書きません。確かめていないので」
それから、ペン先を止めたまま俺を見た。
「どうして、あの順番が分かったんですか。サナ、私、トーマ。聞く順番」
「分からない」
言ってから、言い直した。
「知ってたことを、並べただけだ。……と、思う。楔も杭も、全部昨日教わったものだった」
リアはしばらく俺の顔を見ていた。それから帳面に目を戻した。今の答えを書き足したのかどうかは、分からなかった。
トーマは巻き上げ機の把手に手を置いたまま、角の樽と、杭の結び目を順に見た。
「さっきのは、早かった」
少し間を置いて、続けた。
「俺一人なら、人を呼んで待ってた。それまで山が崩れずにいたかは、分からん」
それだけ言って、網の点検に戻った。網の縁を一目ずつ指でたどり、ほつれを三度確かめていた。
年配の監督役は、帳場へ報告に上がっていった。角の樽は、楔を入れ直してから、あらためて倉の前へ運ばれた。
未払いは、合わせて十二銅貨になった。
*
午後、模擬の枠の前で、俺は一人で杭に向かった。
誰もいないのを確かめてから、小さく言った。
「《未来確定》」
何も起きなかった。掛け金の感触も、並び直す何かもない。杭と索が、ただそこにある。
今朝と、何が違うのか。
そういえば、今朝は名前を口にしなかった。言う暇がなかった。それが関係あるのかどうかも、分からない。昨日の結びのときは言って、何も起きなかった。今は言って、何も起きない。
分からないまま、俺は索を杭に回して、手首を二度返した。




