EP.2 索を結ぶ手
共同寝台の夜は、いびきと寝返りの音で何度も目が覚めた。それでも屋根はあったし、朝には硬いパンが一つ出た。
昨日の水路脇で思い浮かべた「屋根の下」は、思っていたより狭くて、うるさかった。椀の中身は、麦の粥だった。
朝の倉庫は、入口から三歩先が暗かった。
外はもう明るいのに、奥の棚は輪郭しか見えない。湿った麻袋と、油を引いた木の匂いがする。
「来たんですね」
帳場の机で、リアが帳面から顔を上げた。
「来るって言った」
「はい。聞きました」
それだけ言って、彼女はまた帳面に目を落とした。ペン先が、何かの数字の横で小さく動いた。
机の端に、消えかけた作業灯が一つ置いてあった。俺が来るより前から、彼女はこの暗い倉庫で何かを数えていたらしい。
年配の監督役が、俺を見るなり顎で倉庫の奥を示した。
「今日から、道具のことはトーマに聞け」
奥から出てきたのは、思っていたより若い男だった。日に焼けた首。厚い手。安全靴のつま先に、何度も縫い直した跡がある。
「トーマだ。まず灯。奥の棚で札を見るのに要る。点けられないやつは、奥に入れない」
渡されたのは、両手で抱えるほどの箱形の灯だった。正面はガラス窓で、中に拳ほどの白っぽい石が収まっている。箱の上には薄い金属の板が何枚も並び、横に、手のひら大のなめらかな板が一枚はめ込まれていた。
「読取所で、小さいのは点けました。でも俺、魔力が三しかないんですけど」
「灯には足りる」
トーマはガラス越しに石を指で叩いた。
「光るのは、この石だ。石に貯めてある力で光る。人の手は、点けろと合図するだけだ」
次に、横の板を叩く。
「合図はここ。手は平らに当てる。板が手に吸いつく感じがしたら、つながった印だ。光っても、すぐ離すな。三つ数えてから」
最後に、上の金属板。
「こっちは放熱面。光ると熱くなる。上に向けて置け。下にすると、熱がこもって止まる」
同じことを、トーマはもう一度、同じ順番で言った。三度目も変わらなかった。
一度目は、指が少し浮いていた。板は手に吸いつかず、石が二、三度またたいて、消えた。
「手が平らじゃない」
二度目。手のひらを押し当てると、板がじわりと吸いついてきた。石が光る。嬉しくなって手を離すと、光はゆっくり痩せて、消えた。
「離すのが早い。三つ」
三度目。平らに当てて、吸いつくのを待つ。光ってから、一つ、二つ、三つ。
手を離しても、灯は消えなかった。持ち上げて奥へ向けると、暗かった棚に樽の丸い影が並び、下がった札の形まで見えた。
手のひらに、かすかな温かさが残っていた。読取所の小さな灯は、言われたとおりに触っただけだった。これは、三回やって自分で点けた。
「石の減りは、ここで見る」
トーマがガラスの脇の目盛りを指さした。石の下のほうが、半分ほど白く濁っている。
「濁りがこの線まで来たら、石を替える。熱くなりすぎても止まる。止まったら触るな。冷めるまで待て」
これも三度。俺は三度目で、ようやく自分の口でも言えた。
*
荷揚げ場の脇に、木で組んだ枠があった。太い杭が一本と、上の梁から吊るした滑車が一つ。本物の荷はない。
「係留の結び。一つだけ覚えろ」
トーマは索を杭に回し、手首を二度返して、端を引いた。結び目が杭に噛みつくように締まった。
「張った索の内側に立つな。言え」
「張った索の内側に立つな」
「もう一回」
「張った索の内側に立つな」
「もう一回」
三度言わされてから、索を渡された。
一回目、ほどけた。二回目、形にもならなかった。
水際では、ほかの作業員がもう荷船の索を解いている。俺は空の枠の前で、杭一本を相手にしていた。
「荷を運ぶほうを先に覚えたほうが、役に立ちませんか。臨時だし、早く使えるようにならないと」
「ならない」
トーマは杭から目を離さなかった。
「結べないやつが荷の横にいると、班の誰かが帰れなくなる。俺は全員を家に帰したい。だから結びが先だ」
言い返せなかった。役に立ちたいのは、俺の都合だった。
三回目の前に、俺は昨日の水路脇を思い出した。
結び終えた自分を思い浮かべる。杭に索が締まって、トーマが黙って頷く。あのときと同じように、胸の奥で何かが噛み合うのを待つ。
「……《未来確定》」
小声で言って、手首を返した。
索は杭から、するりと落ちた。
掛け金の落ちる感触は、どこにもなかった。昨日と何が違うのか、俺には分からない。分からないまま、足元でとぐろを巻いた索を見下ろした。
「今、何て言った」
「……未来確定、です。昨日、自分で付けた名前で」
トーマは少しだけ俺の顔を見た。笑いはしなかった。
「そうか。手首、二度だ」
それで終わりだった。俺は索を拾った。
四回目。五回目。手首の返しが一度で止まる。七回目で形になり、八回目でほどけ、九回目でまた形になった。
十回目、端を引くと、結び目が杭に噛んだ。
トーマが索を片手で引いた。一度、二度、三度。結び目は動かなかった。
「覚えたな」
頷かれたのは、そのときだった。
滑車には荷を掛けなかった。トーマは空の索を通して、手で引いて見せた。
「荷が乗った索は、切れなくても横に跳ねる。だから内側に立たない」
「内側って、どっちですか」
聞いてから、今さらかと思った。朝から三度も言わされた言葉だ。
トーマは気にした様子もなく、靴のつま先で地面に線を二本引いた。滑車から下りる索と、横へ引く索。二本が作る角の、狭いほう。
「ここだ。索が曲がってる、内側。跳ねたら、ここを払う」
地面の角は、ちょうど人一人が立てる広さだった。索が滑車の縁を擦る音を、俺はその角の外から聞いた。
*
昼前、帳場に戻ると、リアが帳面の一行を指で押さえていた。
「二番倉、樽六。昨日の夕方の記録です。でも、今朝数えたら四でした」
二つ足りない。
俺は昨日覚えた形を思い出した。丸に縦線が二本。二番倉の札だ。
「その札なら、さっき見た。三番倉の入口の脇に、二つ」
「読めたんですか」
「読めない。形だけだ。丸に二本線。……いや、見間違いかもしれない」
リアは帳面を持って立ち上がった。二人で三番倉の脇へ行くと、樽が二つ並んでいた。札は、丸に二本線だった。
「四と二で、六」
リアの声が、数のところだけはっきりした。
「夜の荷下ろしで、仮置きのまま残ったんだと思います。これは推定です。夜の当番に確かめます」
「運んでおくか」
「動かすのは監督の許可がいります。まず記録を直します」
彼女は帳面に何かを書き足した。いつもの数字より、少し長い一行だった。
「何て書いたんだ」
「二番倉の樽二つ、三番倉脇に仮置き。今朝確認。理由は未確認」
ペンを置いてから、リアは続けた。
「直しておかないと、明日誰かが二番倉で二つ足りないって探します。……足りない分が、誰かのせいになることもあるので」
誰のせいになるのかは、聞かなかった。
通りかかったトーマが、並んだ樽の前で足を止めた。しゃがんで樽の下を覗き、近くの木箱から三角の木片を二つ取って、樽の根元に蹴り込んだ。
「仮置きの樽には楔。忘れると転がる」
同じことをもう二度言って、トーマは水際へ戻っていった。俺は楔の形を覚えた。字ではないものなら、覚えられる。
読むのはリアで、探したのは俺だった。字は一つも読めないままなのに、帳面の数字は合った。
*
正午の少し前、トーマが俺とリアを水際へ呼んだ。
荷揚げの位置から倉庫の壁沿いに、石畳の通路が裏手まで続いている。通路の縁に、白い線が塗られていた。
「退避路。荷揚げで何かあったら、ここを走る。線の内側に荷を置くな」
トーマは通路を裏手まで歩き、戻ってきて、また歩いた。
「人が二人すれ違える幅。これより狭くするな」
三度目を言い終える前に、通路の脇から声がした。
「あ、新入りって、その人?」
赤いスカーフの小柄な女の子が、濡れた袖を絞りながら顔を出した。
「サナ。リアと同じ班。字、読めないんだって? あたしも。だから札の形で覚えるの、いいと思う」
早口だった。
「ユートだ。……よろしく」
「うん、よろしく。リア、今朝の樽、見つかった?」
「三番倉の脇に、二つ。ユートが札の形で見つけました」
「へえ」
サナは俺の手の赤い擦り跡を見て、それから自分の袖を見た。同じように濡れて、同じように擦れていた。
それから、通路の角を指さした。
「明日の船、樽ばっかりだって。樽は転がるから、仮置きしたのがあの角で線からはみ出すんだよね。前にも一回、あそこで……」
そこで、言葉が途切れた。サナは袖をもう一度絞って、続きを言わなかった。
俺も聞かなかった。
「明日、四月十日。樽、二十四」
リアが帳面を見ずに言った。
トーマは通路の角を見て、それから水際を見た。
「明日の朝、人数と幅をもう一度見る」
少し間を置いて、同じ言葉を繰り返す。
「明日の朝、人数と幅をもう一度見る」
三度目は、俺の顔を見て言った。
*
帳場で受け取った控えを、リアが読んだ。昨日と同じ数字が並び、未払いは合わせて八銅貨になった。
手のひらに、索の擦れた跡が赤く残っている。灯は三度目で点いた。結びは十回目で締まった。どちらにも、名前は要らなかった。
昨日の感触が何だったのかは、まだ分からない。気のせいだったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。確かなのは、手首を二度返せば結び目が締まるということだけだ。
午後は、仕事の外だった。
俺は模擬の枠のところへ戻って、トーマに聞いた。
「ここ、使ってもいいですか。結びだけ」
「杭だけならいい。索の内側には」
「立たない」
トーマは一度だけ頷いて、水際へ戻っていった。
杭に索を回す前に、倉庫の角を振り返った。白い線の内側には、何も置かれていなかった。




