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EP.1 未来はまだ空欄

ブレーキの音が、まだ耳の奥に残っていた。


白い光。濡れた路面の匂い。そこまで思い出したところで、鼻に入ってきたのは別の水の匂いだった。


泥と藻と、湿った木の匂い。


目を開けると、石積みの縁の向こうを、茶色い水がゆっくり流れていた。俺は水路脇の草の上に転がっていた。


手首、肘、膝の順に動かしてみる。痛みはない。右の前腕に、引きつれた痕が一本ある。いつ付いたのかは思い出せない。


「おい、そこ。どいてくれ。荷車が通る」


肩に縄の束を掛けた男が、石畳の作業道を顎で示した。後ろで、樽を積んだ荷車が止まっている。


「すみません」


言葉は通じた。男の声も、自分の声も、同じ言葉として耳に入ってくる。


道の脇へ退いてから、石柱に打ち付けられた板を見上げた。線と鉤(かぎ)と点の並び。一文字も読めない。


「あの。ここ、どこですか」


「水門の脇だよ」


男は俺の服をしばらく眺めた。


「身元のない人間なら、まず窓口だ。河務局(かむきょく)の読取所(よみとりじょ)。運河沿いにまっすぐ、橋を二つ過ぎて左。人が並んでる建物がそれだ」


それだけ言って、男は荷車の後ろへ回っていった。


歩き出す前に、俺は小さく口にしてみた。


「……ステータス」


何も出ない。


視界の端に数字が浮かぶことも、誰かの声が聞こえることもない。通りがかった女の人が、俺を避けて少し遠回りした。


  *


分かったことを並べる。


言葉は通じる。字は読めない。金はない。知り合いもいない。腹は減っている。


自分に何が起きたのかは、今は確かめようがない。確かめられるのは、今夜どこで寝るかくらいだ。


だから、今夜を思い浮かべた。


屋根の下にいる自分。膝の上に木の椀があって、湯気が顎に当たっている。椀の中身は分からない。この土地の人が夜に何を食べるのか、俺はまだ知らない。そこだけがぼやけている。


その少し先も浮かんだ。この運河の岸を、自分の足で歩いていく。水の行き着く先は、白く抜けたまま見えない。それでも、足はそっちへ向きたがった。


胸の奥で、掛け金が落ちるような感触がした。


最初に変わったのは、耳に残っていた男の言葉だった。橋を二つ過ぎて左。聞き流したはずの一言が、目の前のどの景色よりも先に立った。


荷車の進む向き。石畳に残った轍(わだち)。運河沿いを同じ方へ歩いていく人たちの背中。どれも、さっきから見えていたものだ。新しく何かが見えたわけじゃない。ただ、どれから拾えばいいかが、一度に決まった。


膝に力が入る。起き上がったときはふらついた脚が、次の一歩を置く場所を迷わない。


心臓がうるさい。口元が勝手に緩んだ。


来た。知らない場所で目を覚ましたなら、何かあるはずだと思っていた。その何かだ。


名前を付けたくなった。予知、ではない。知らない景色を見せられたわけじゃない。見えたのは、自分で思い浮かべた今夜と、そこへ向かって並び直った足元だけだ。


未来のほうが先に決まって、今がそれに合わせて動いた。そういう感触だった。



「……《未来確定》」



声に出してみると、思っていたよりずっと格好よかった。俺はもう一度、口の中だけで繰り返した。


――未来が、決まった。


いや。決まった、と思った。


名前を付けてから、腹が鳴った。未来が確定したのなら、パンの一個くらい出てきてもよさそうなものだった。


  *


橋を二つ過ぎて左の建物には、本当に人が並んでいた。


石造りの広い部屋に窓口がいくつかあり、奥の台には、手のひらほどの板と、金属で縁取られた平たい器具が置かれている。


俺の一つ前で、帳面の束を抱えた少女が窓口に立った。


日焼けした肌に、後ろでまとめた茶色の髪。束を台に置いた左手の指に、インクの跡が染みている。


「ローデル運送商会、四月八日分。荷受け記録、十二冊。受領の札をお願いします」


小さな声なのに、日付と数のところだけ、はっきり聞こえた。


「十二冊、受領します。リアさん、ご苦労さま」


窓口の女性が札を渡す。きっちり結んだ髪。指先に、洗っても落ちそうにない青いインクが残っている。


リアと呼ばれた少女は札をしまうと、窓口の脇へ寄った。まだ用があるらしい。


「次の方」


俺は台の前に立った。


「身元を証明できるものがありません。字も、読めません」


窓口の女性は顔色を変えなかった。


「身元の確認できない方の初回仮登録と標準測定は、公費で行います。認証板は貸与です。費用はかかりません。後から請求もしません。……今の説明を、ご自分の言葉で繰り返してもらえますか」


「登録と測定は、ただ。板は借りるだけ。後で金は取られない」


「結構です。登録官のミラです。ここはエルデン王国カーヴェル、河務局カーヴェル支局の読取所です」


カーヴェル。この街の名前を、俺はそこで初めて知った。


「お名前は」


「ユート」


「姓は」


「ない。……いや、今は、ない」


ミラさんのペンは止まらなかった。


「生年月日は」


「分かりません」


「では推定で記録します。見たところ十八前後。生年は新紀(しんき)三九四年、月日は不明のため本日の日付を仮に置きます。推定、と添えます」


誕生日が今日になった。祝ってくれる相手はいないが。


測定は短かった。金属の縁の器具に手を置き、次に、台の上の小さな灯へ指先で触れる。言われたとおりに触れ方を変えると、灯が二度、薄く点いた。


板の面に何かが浮かぶ。もちろん読めない。ミラさんが指でなぞりながら読み上げた。


「名前、ユート。身分、仮登録。魔力、三。レベル、一」


「三って、少ないんですか」


「数だけでは何とも。この灯を点けるには足ります。レベル一は、基本の接触操作が標準の範囲に入っているという意味です」


評価はそれだけだった。


「申告する技能はありますか。なければ空欄で構いません」


少し迷ってから、言った。



「《未来確定》」



ミラさんが顔を上げた。からかう目ではない。確かめる目だった。


「どういう技能ですか」


「未来を思い浮かべると、決まる感じがする。……いや、感じがした、です。さっき一回」


「その後、何か変わりましたか」


「特には」


腹が鳴りそうになるのをこらえた。


「申告名として記載します。技能名、未来確定。申告あり。観測、なし。認証、なし」


ミラさんは板の端を指で示した。そこだけ、何も浮かんでいない。


「この欄は、効果が確認できたときに埋まります。今は空欄です」


「職業のところは」


「未測定。就業の記録がまだありませんから。来たばかりの方には普通のことです」


確定したはずの未来は、板の上ではまだ空欄だった。


  *


「仕事、探してますか」


横から声がした。リアが一枚の紙を持って立っていた。


「ローデルの荷揚げ場で、今日の午後から臨時の人手を探しています。募集票はこの窓口に出すことになっていて」


「……俺に?」


「さっき、条件を自分で言い直していました。言い直す人は、札の番号も聞き直します。聞き直さない人の分は、あとで帳簿が合わなくなるので」


褒められたのか、帳簿の都合なのか。たぶん両方だ。


ミラさんが募集票を受け取り、読み上げた。


「ローデル運送商会、荷揚げ場。臨時雇い。本日正午から六時間、監督付きの軽作業。賃金二十銅貨。食事は一日三食で十二銅貨、共同寝台は一泊四銅貨。いずれも希望者のみ、明細を付けて賃金から差し引く。支払いは週の六日目、四月十二日に現金。本人はいつでも辞退でき、辞退までの分は支払う」


俺は一つずつ聞き返した。


「辞めたければ、明日でも辞められる?」


「はい」


「支払いは十二日。今日じゃない」


「今日ではありません」


「二十から、十二と四を引いて……四」


「ここです」


リアが紙の下のほうを指さした。読めない文字の中に、罫線で区切られた行が二つある。


「食事と寝床は別の行です。頼まなければ引かれません。でも、頼まないと今夜は外です」


指先は迷わず、その二行の上で止まっていた。俺には線の模様にしか見えない紙の上で。


パン一個の値段を聞くと、二銅貨だとリアは答えた。朝から何も入っていない腹で、四銅貨の重さを考える。


完璧な行き先を待っている余裕はなかった。


「食事と寝床、両方頼みます。受けます」


署名の欄には、ミラさんが俺の名前を代わりに書いた。俺はその横に、了承の印として丸を一つ描いた。ミラさんは控えと板の記録を照らし合わせ、臨時雇用、と読み上げてから、薄い板を俺に渡した。


  *


ローデルの荷揚げ場までは、歩いて二十五分ほどだった。


リアは道中ほとんど話さなかった。帳面の束がなくなった腕で、受領の札だけを大事そうに押さえていた。


荷揚げ場では、まず昼の粥が出た。塩の薄い麦の粥を、ほとんど噛まずに飲み込んだ。


仕事は、空の木箱を運び、こぼれた麦を掃き、空樽を決まった場所へ転がすことだった。監督役の年配の作業員は、最初に二つだけ言った。


「滑車には触るな。張ってる索の内側には立つな」


困ったのは荷札だった。箱ごとに札が下がっているが、読めない。


「丸に縦線が二本。それが二番倉です」


リアは読み方ではなく、形を教えた。丸に二本線。三角に点。俺は形だけを覚えて運んだ。三回目で一度間違え、四回目からは間違えなかった。


昼過ぎ、麦袋を積んでいた作業員たちに、リアが声を掛けた。


「その十袋、先に奥へ入れないでください。下りの便への積み替えは今日の夕方です。明後日の分を手前に置くと、埋まります」


「札には同じ麦って書いてあるぞ」


「日付が違います。こっちが八日、そっちが十日」


作業員は札を二枚見比べ、ああ、と言って袋の順番を入れ替えた。夕方、下りの便の人間が来たとき、八日の袋は手前にあった。


俺にはできないことだった。字が読めないからではない。読めたとしても、たぶん順番までは見ていない。


  *


六時間が終わる頃には、運河の水が赤く見えていた。


帳場で、控えを一枚受け取った。


「読みます」


リアが控えを手に取り、声を少しだけ張った。


「四月八日。臨時雇い、ユート。作業、六時間。賃金、二十銅貨。食事、十二銅貨。寝台、四銅貨。差し引き、四銅貨。未払い。支払日、四月十二日」


ポケットの中は、朝と同じで空だった。違うのは、四銅貨が残ると書いてある紙が一枚あることだ。


「なあ、このあと少し街を見ないか。いや、道を教えてもらうだけでもいい」


リアは控えを俺に返してから答えた。


「私は、許可がいります」


「誰の」


「商会の。私は、ローデルの就役者(しゅうえきしゃ)です」


彼女は懐から板を出して、読み取り面を開いた。俺が字を読めないことは、もう知っている。だから自分で読んだ。


「リア・セルヴィ。身分、就役。権利者、ローデル運送商会。職業、奴隷」


最後の一語も、日付を読むときと同じ声だった。


俺は何か言おうとして、口を開けたまま止まった。何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。金は四銅貨で、それもまだ手元にない。この街の名前を知ったのも今朝だ。


「上流のほうは、私も仕事で行く所までしか知りません」


リアは板を閉じた。


「来るなら、明日の六時です」


「来る。……たぶん、じゃなくて。来る」


リアは小さく頷いて、宿舎の別の戸口へ歩いていった。


俺は控えを畳んだ。ミラさんの読み上げた一文を思い出す。本人はいつでも辞退でき、辞退までの分は支払う。


明日、俺はここへ来なくてもいい。


リアが自分の板から読み上げた四つの行に、その一行はなかった。

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