↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
46/47

EP.44 それで、いいです

目を開けると、道具小屋の中は、もう薄く明るかった。


奥の隅を見た。


リアの毛布は、四つにたたんで、藁の上に置いてあった。帳面も、インク壺も、なかった。藁のくぼみに手を置くと、もう冷たかった。


朝の穴を数えに出たのだ。雨の後も、リアは毎朝、堰から歩数を数えて、土手を見て回る。いつもの仕事だった。


枕元の索に、手を伸ばした。


結び目は、三つ。指で、一つずつ確かめた。途中で、やめられるのか。いつまでなのか。誰が、一緒に行くのか。


字は、書けない。けれど、これがあれば、言い忘れない。


リアが穴を数えている間に、済ませればいい。


聞くことは、俺が聞く。リアは、考えるだけでいい。


ゆうべ、リアは灯の下で、縦の線を引いた頁に何か書いていた。考えている人の邪魔は、しないほうがいい。


索を肩に掛けて、外へ出た。戸を、そっと閉めた。誰に聞かれているわけでもないのに、音を立てないようにしていた。


朝の霧が、畑の上に低くかかっていた。植え直した苗の列が、霧の下で、細い線になって並んでいた。葉の先に、露が光っていた。


堰の板を越える水の音が、霧の中から聞こえた。


柱の前に、人がいた。


フェリクだった。旅装の上着を脱いで、袖をまくっていた。折りたたみの物差しを柱に当て、刻みの高さを一つずつ測っては、膝の上の帳面に書いていた。


水番の姿は、なかった。右の畑のほうで、溝の板を動かす音がしていた。


フェリクの横に、子どもが一人しゃがんでいた。「王都の人だって!」と叫んでいた子だった。フェリクが物差しを当てるたびに、その子も、自分の指を柱に当てて、何か数えていた。


「目盛り、いくつ?」


「十二と、少しです」


「おれの指だと、三つ」


フェリクは、真面目な顔で、それも聞いていた。


  *


足音に気づいて、フェリクが顔を上げた。


「おはようございます」


物差しを、ぱち、とたたんだ。


「水番さんに、いいと言っていただいたので。柱を、自分の目で、測らせてもらっています」


「おはようございます」


子どもが、俺とフェリクを見比べて、畑のほうへ走っていった。


フェリクは、帳面を閉じて、角をそろえた。


「何か、ご用でしょうか」


「聞きたいことが、あります」


言ってから、肩の索を下ろした。


「……リアのことで」


フェリクの目が、少しだけ土手のほうへ動いた。それから、俺に戻った。


「どうぞ」


索の一つ目の結び目を、指でつまんだ。固く締まっている。ゆうべ、暗がりで締めたままだ。


「途中で、やめられますか。……リアが、やめたくなったら」


「はい」


フェリクは、すぐに答えた。


「いつでも。ご本人が、やめると言えば、その場で」


いつでも。


ハルムで測っている途中でも。王都へ行く道の途中でも。リアが、やめると言えば。


字は、読めない。言われたことは、覚えておくしかない。けれど、紙になれば、誰が読んでも同じだ。


「それを、書いてもらえますか」


フェリクは、少しだけ黙った。ペンを持ったまま、俺の手の索を見ていた。


「……書きましょう」


帳面を開いて、細いペンを出した。速く、細い字で書きながら、声に出した。


「一、測ることも、同行も、本人が言えば、いつでもやめられる」


そのとき、土手のほうから、足音がした。


振り向くと、リアがいた。


帳面を、胸の前で開いたままだった。朝の穴を数えてきた頁だろう。霧で、髪の先が少し濡れていた。


リアは、二歩手前で止まった。


フェリクの読み上げた声が、まだ、そこに残っているようだった。


リアのペンが、頁の上で、横に動いた。


一本、線を引いた。


聞いたことを、書いているのだと思った。


  *


「リアさん」


フェリクが、立ち上がった。


「おはようございます。ユートさんから、伺っていました。……どうぞ、こちらへ」


柱の横の、平たい石を手で示した。夕方の話のとき、リアが座っていた石だ。


「ここで、聞きます」


リアは、動かなかった。帳面を開いたまま、二歩手前に立っていた。


フェリクは、一度、リアを見た。それから、座り直した。


座らないのか、と思った。立ったままのほうが、書きやすいのだろう。


リアも、聞いている。


なら、早いほうがいい。リアが自分で聞くより、俺が先に聞いておいたほうが、リアは考えることだけに使える。


二つ目の結び目に、指を移した。


「いつまで、ですか」


「……はい」


「分かるまで、じゃなくて」


フェリクは、ペンの尻で、帳面の角を軽く叩いた。考えるときの癖らしかった。とん、とん、と、二度。


「では」


顔を上げた。


「ひと月ごとに、続けるかどうかを、ご本人に確かめる。……それで、いかがでしょう」


ひと月ごと。


分かるまで、より、ずっといい。終わりがなくても、ひと月ごとに、戸口がある。


「それで、いいです」


口から、出ていた。


フェリクは、うなずいて、書いた。


「二、ひと月ごとに、続けるかを、本人に確かめる」


リアのペンは、動かなかった。頁の上で、止まったままだった。


三つ目の結び目は、いちばん端にあった。


「誰が、一緒に行くんですか」


「私が、ご一緒します。ハルムまでも、王都までも」


フェリクは、当たり前のように言った。


王都。どれくらい遠いのか、まだ、知らない。その道を、リアは、この人と二人で行く。知らない道を、知らない人と。夜は、どこで眠るのか。灯は、あるのか。


「俺も、行きます」


フェリクの手が、止まった。


「……ユートさんが、ですか」


「はい」


「ユートさんの、ご用は、よろしいのですか」


ご用。


上の門の向こう。水が来た所。上りの船の船頭に、見に行くと言った所だ。


あれは、後でいい。


「俺の用は、後でいいです」


フェリクの顔が、ふっと明るくなった。


「それは、心強いです。お一人よりも、ずっと」


ペンが動いた。


「三、同行、ユート。本人の申し出」


俺の名前が、紙に書かれた。


写しに名前がある、と言われたときと同じものが、胸の底で少し動いた。


リアのためだ、と思った。それで、消えた。


リアのペンは、やはり、動かなかった。


  *


フェリクは、書いた頁を、もう一度、目でたどった。


それから、立ち上がって、帳面をリアのほうへ向けた。


「今のことを、書きました」


両手で、差し出した。


「リアさん。読んでいただけますか」


リアは、自分の帳面を閉じて、脇に挟んだ。フェリクの帳面を、受け取った。


リアの目が、行をたどっていった。一行目。二行目。三行目。


俺には、字が読めない。リアの目が、どこで止まったのかも、分からなかった。


リアは、帳面を閉じた。


「読みました」


フェリクに、返した。


「では、これで——」


「考えます、と、言いました」


リアの声は、いつもと同じだった。高くも、低くもなかった。


フェリクは、帳面を受け取ったまま、少し黙った。


「……はい。もちろんです」


ていねいに、頭を下げた。


「決めるのは、リアさんです」


リアは、うなずいた。


「朝の分を、水番さんに、渡してきます」


脇の帳面を持ち直して、右の畑のほうへ歩いていった。


一度も、こっちを見なかった。


霧は、もう、ほとんど晴れていた。リアの背中が、苗の列のあいだを、小さくなっていった。


フェリクが、その背中を見ていた。


「……私は、急ぎすぎましたか」


小さな声だった。


「いえ」


俺は、すぐに答えた。


急いだのは、俺だ。けれど、急いでよかったのだ。リアが一人で、あの紙の前に座らなくて済んだ。


リアは、考えます、と言った。それでいい。考えるのは、リアだ。聞くことは、俺が聞いた。


フェリクは、帳面の角をそろえた。物差しを拾って、また柱の前にしゃがんだ。


俺は、少し離れて、肩の索を下ろした。


結び目を、一つずつ、ほどいた。


一つ目は、固かった。ゆうべ、いちばん強く締めたのだ。爪の先で起こして、ゆるめた。二つ目。三つ目。


索は、まっすぐに戻った。


聞くことは、もう、なかった。



これで、守れる、と思った。


  *


その日は、土手で、籠の土を突いた。


リアは、堰の向こうの肩で、歩数を数えていた。唇が、小さく動いていた。昼に、一度だけ、すれ違った。


「杭は、足りていますか」


「足りてる」


それだけだった。


夕方、弟が籠を担いで来て、堰のほうを顎で指した。


「王都の人、まだ柱を測ってたぜ。朝から、ずっとだ」


「王都の人は、暇なのか」


兄が言って、二人で笑った。


夕暮れ、堰の前に灯が三つ並んだ。見回りの夜だった。


水番は、灯の前に立って、言った。


「誰が、どこだ」


リアは、持ち歩く灯の後ろ。俺は、灯のない端。いつもと同じだった。


端に座って、夜を聞いた。


蛙が鳴いていた。露が、膝に降りた。土を掻く音は、一度もしなかった。


こんなに軽い夜は、久しぶりだった。


胸の中に、何も引っかかっていなかった。聞くことは、聞いた。紙にもなった。リアは、考えるだけでいい。


王都への道を、考えた。ハルムまで、一日か二日。その先は、知らない。けれど、知らない道でも、杭と索がある。灯の点け方も、知っている。


星が、ゆっくり回っていった。


空が白むころ、見回りが終わった。東の空の端が、灰色から白に変わっていった。露を踏んで、端から道具小屋まで歩いた。


今日は、休みの日だ。村は、まだ眠っていた。扉の音も、鍋の音もしなかった。


道具小屋の戸口の前に、リアが立っていた。


先に戻っていたのだ。帳面を、胸の前に抱えていた。開いてはいなかった。表紙の上で、両手を重ねていた。


俺が近づくと、リアは、顔を上げた。


「ユートさん」


名前を呼ばれたのは、いつ以来だろう、と思った。


二十二日の夜から、リアは、俺に何も聞かなかった。仕事のこと以外は。


リアは、俺の肩の索を見ていた。


まっすぐに戻った、古い索だった。


「結び目は、いくつでしたか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。