EP.44 それで、いいです
目を開けると、道具小屋の中は、もう薄く明るかった。
奥の隅を見た。
リアの毛布は、四つにたたんで、藁の上に置いてあった。帳面も、インク壺も、なかった。藁のくぼみに手を置くと、もう冷たかった。
朝の穴を数えに出たのだ。雨の後も、リアは毎朝、堰から歩数を数えて、土手を見て回る。いつもの仕事だった。
枕元の索に、手を伸ばした。
結び目は、三つ。指で、一つずつ確かめた。途中で、やめられるのか。いつまでなのか。誰が、一緒に行くのか。
字は、書けない。けれど、これがあれば、言い忘れない。
リアが穴を数えている間に、済ませればいい。
聞くことは、俺が聞く。リアは、考えるだけでいい。
ゆうべ、リアは灯の下で、縦の線を引いた頁に何か書いていた。考えている人の邪魔は、しないほうがいい。
索を肩に掛けて、外へ出た。戸を、そっと閉めた。誰に聞かれているわけでもないのに、音を立てないようにしていた。
朝の霧が、畑の上に低くかかっていた。植え直した苗の列が、霧の下で、細い線になって並んでいた。葉の先に、露が光っていた。
堰の板を越える水の音が、霧の中から聞こえた。
柱の前に、人がいた。
フェリクだった。旅装の上着を脱いで、袖をまくっていた。折りたたみの物差しを柱に当て、刻みの高さを一つずつ測っては、膝の上の帳面に書いていた。
水番の姿は、なかった。右の畑のほうで、溝の板を動かす音がしていた。
フェリクの横に、子どもが一人しゃがんでいた。「王都の人だって!」と叫んでいた子だった。フェリクが物差しを当てるたびに、その子も、自分の指を柱に当てて、何か数えていた。
「目盛り、いくつ?」
「十二と、少しです」
「おれの指だと、三つ」
フェリクは、真面目な顔で、それも聞いていた。
*
足音に気づいて、フェリクが顔を上げた。
「おはようございます」
物差しを、ぱち、とたたんだ。
「水番さんに、いいと言っていただいたので。柱を、自分の目で、測らせてもらっています」
「おはようございます」
子どもが、俺とフェリクを見比べて、畑のほうへ走っていった。
フェリクは、帳面を閉じて、角をそろえた。
「何か、ご用でしょうか」
「聞きたいことが、あります」
言ってから、肩の索を下ろした。
「……リアのことで」
フェリクの目が、少しだけ土手のほうへ動いた。それから、俺に戻った。
「どうぞ」
索の一つ目の結び目を、指でつまんだ。固く締まっている。ゆうべ、暗がりで締めたままだ。
「途中で、やめられますか。……リアが、やめたくなったら」
「はい」
フェリクは、すぐに答えた。
「いつでも。ご本人が、やめると言えば、その場で」
いつでも。
ハルムで測っている途中でも。王都へ行く道の途中でも。リアが、やめると言えば。
字は、読めない。言われたことは、覚えておくしかない。けれど、紙になれば、誰が読んでも同じだ。
「それを、書いてもらえますか」
フェリクは、少しだけ黙った。ペンを持ったまま、俺の手の索を見ていた。
「……書きましょう」
帳面を開いて、細いペンを出した。速く、細い字で書きながら、声に出した。
「一、測ることも、同行も、本人が言えば、いつでもやめられる」
そのとき、土手のほうから、足音がした。
振り向くと、リアがいた。
帳面を、胸の前で開いたままだった。朝の穴を数えてきた頁だろう。霧で、髪の先が少し濡れていた。
リアは、二歩手前で止まった。
フェリクの読み上げた声が、まだ、そこに残っているようだった。
リアのペンが、頁の上で、横に動いた。
一本、線を引いた。
聞いたことを、書いているのだと思った。
*
「リアさん」
フェリクが、立ち上がった。
「おはようございます。ユートさんから、伺っていました。……どうぞ、こちらへ」
柱の横の、平たい石を手で示した。夕方の話のとき、リアが座っていた石だ。
「ここで、聞きます」
リアは、動かなかった。帳面を開いたまま、二歩手前に立っていた。
フェリクは、一度、リアを見た。それから、座り直した。
座らないのか、と思った。立ったままのほうが、書きやすいのだろう。
リアも、聞いている。
なら、早いほうがいい。リアが自分で聞くより、俺が先に聞いておいたほうが、リアは考えることだけに使える。
二つ目の結び目に、指を移した。
「いつまで、ですか」
「……はい」
「分かるまで、じゃなくて」
フェリクは、ペンの尻で、帳面の角を軽く叩いた。考えるときの癖らしかった。とん、とん、と、二度。
「では」
顔を上げた。
「ひと月ごとに、続けるかどうかを、ご本人に確かめる。……それで、いかがでしょう」
ひと月ごと。
分かるまで、より、ずっといい。終わりがなくても、ひと月ごとに、戸口がある。
「それで、いいです」
口から、出ていた。
フェリクは、うなずいて、書いた。
「二、ひと月ごとに、続けるかを、本人に確かめる」
リアのペンは、動かなかった。頁の上で、止まったままだった。
三つ目の結び目は、いちばん端にあった。
「誰が、一緒に行くんですか」
「私が、ご一緒します。ハルムまでも、王都までも」
フェリクは、当たり前のように言った。
王都。どれくらい遠いのか、まだ、知らない。その道を、リアは、この人と二人で行く。知らない道を、知らない人と。夜は、どこで眠るのか。灯は、あるのか。
「俺も、行きます」
フェリクの手が、止まった。
「……ユートさんが、ですか」
「はい」
「ユートさんの、ご用は、よろしいのですか」
ご用。
上の門の向こう。水が来た所。上りの船の船頭に、見に行くと言った所だ。
あれは、後でいい。
「俺の用は、後でいいです」
フェリクの顔が、ふっと明るくなった。
「それは、心強いです。お一人よりも、ずっと」
ペンが動いた。
「三、同行、ユート。本人の申し出」
俺の名前が、紙に書かれた。
写しに名前がある、と言われたときと同じものが、胸の底で少し動いた。
リアのためだ、と思った。それで、消えた。
リアのペンは、やはり、動かなかった。
*
フェリクは、書いた頁を、もう一度、目でたどった。
それから、立ち上がって、帳面をリアのほうへ向けた。
「今のことを、書きました」
両手で、差し出した。
「リアさん。読んでいただけますか」
リアは、自分の帳面を閉じて、脇に挟んだ。フェリクの帳面を、受け取った。
リアの目が、行をたどっていった。一行目。二行目。三行目。
俺には、字が読めない。リアの目が、どこで止まったのかも、分からなかった。
リアは、帳面を閉じた。
「読みました」
フェリクに、返した。
「では、これで——」
「考えます、と、言いました」
リアの声は、いつもと同じだった。高くも、低くもなかった。
フェリクは、帳面を受け取ったまま、少し黙った。
「……はい。もちろんです」
ていねいに、頭を下げた。
「決めるのは、リアさんです」
リアは、うなずいた。
「朝の分を、水番さんに、渡してきます」
脇の帳面を持ち直して、右の畑のほうへ歩いていった。
一度も、こっちを見なかった。
霧は、もう、ほとんど晴れていた。リアの背中が、苗の列のあいだを、小さくなっていった。
フェリクが、その背中を見ていた。
「……私は、急ぎすぎましたか」
小さな声だった。
「いえ」
俺は、すぐに答えた。
急いだのは、俺だ。けれど、急いでよかったのだ。リアが一人で、あの紙の前に座らなくて済んだ。
リアは、考えます、と言った。それでいい。考えるのは、リアだ。聞くことは、俺が聞いた。
フェリクは、帳面の角をそろえた。物差しを拾って、また柱の前にしゃがんだ。
俺は、少し離れて、肩の索を下ろした。
結び目を、一つずつ、ほどいた。
一つ目は、固かった。ゆうべ、いちばん強く締めたのだ。爪の先で起こして、ゆるめた。二つ目。三つ目。
索は、まっすぐに戻った。
聞くことは、もう、なかった。
これで、守れる、と思った。
*
その日は、土手で、籠の土を突いた。
リアは、堰の向こうの肩で、歩数を数えていた。唇が、小さく動いていた。昼に、一度だけ、すれ違った。
「杭は、足りていますか」
「足りてる」
それだけだった。
夕方、弟が籠を担いで来て、堰のほうを顎で指した。
「王都の人、まだ柱を測ってたぜ。朝から、ずっとだ」
「王都の人は、暇なのか」
兄が言って、二人で笑った。
夕暮れ、堰の前に灯が三つ並んだ。見回りの夜だった。
水番は、灯の前に立って、言った。
「誰が、どこだ」
リアは、持ち歩く灯の後ろ。俺は、灯のない端。いつもと同じだった。
端に座って、夜を聞いた。
蛙が鳴いていた。露が、膝に降りた。土を掻く音は、一度もしなかった。
こんなに軽い夜は、久しぶりだった。
胸の中に、何も引っかかっていなかった。聞くことは、聞いた。紙にもなった。リアは、考えるだけでいい。
王都への道を、考えた。ハルムまで、一日か二日。その先は、知らない。けれど、知らない道でも、杭と索がある。灯の点け方も、知っている。
星が、ゆっくり回っていった。
空が白むころ、見回りが終わった。東の空の端が、灰色から白に変わっていった。露を踏んで、端から道具小屋まで歩いた。
今日は、休みの日だ。村は、まだ眠っていた。扉の音も、鍋の音もしなかった。
道具小屋の戸口の前に、リアが立っていた。
先に戻っていたのだ。帳面を、胸の前に抱えていた。開いてはいなかった。表紙の上で、両手を重ねていた。
俺が近づくと、リアは、顔を上げた。
「ユートさん」
名前を呼ばれたのは、いつ以来だろう、と思った。
二十二日の夜から、リアは、俺に何も聞かなかった。仕事のこと以外は。
リアは、俺の肩の索を見ていた。
まっすぐに戻った、古い索だった。
「結び目は、いくつでしたか」




