EP.45 それは、私の行き先ですか
「……三つ」
声が、かすれていた。夜じゅう、灯のない端に座って、黙っていたのだ。
リアは、帳面の表紙の上で、両手を重ねたままだった。
「何を、見たんですか」
すぐには、答えられなかった。
俺の結び目は、見たものを結ぶ。上流の村では、袋を十ずつ。水門の杭の前では、水が刻み一つ上がるたびに。聞いた数は、入れない。
リアは、それを知っている。俺がトーマにそう言ったとき、リアは帳面を持って、すぐそばにいた。
肩の索に、指が行った。
結び目は、なかった。指は、まっすぐな索の上を滑って、何もない所で止まった。
「……見たんじゃない」
声が、少し遅れて出た。
「聞くことだ。途中で、やめられるのか。いつまでなのか。誰が、一緒に行くのか」
言い終えると、朝の音が戻ってきた。堰の板を越える水が、遠くで鳴っていた。休みの日の村は、まだ眠っている。扉の音も、鍋の音もしなかった。
リアは、道具小屋の前に積んだ杭の束に、腰を下ろした。
帳面を、膝の上で開いた。
真ん中に、縦の線が一本引いてある頁だった。灯の下で、リアが書いていた頁だ。左の段にも、右の段にも、細い字が並んでいた。俺には、読めない。
リアの指が、右の段のいちばん上の行に置かれた。
「私の頁にも、ありました」
指が、字をたどった。
「途中で、やめられるか」
その行の上に、横に一本、線が引いてあった。
「線を、引きました。ユートさんが、先に聞いたので」
きのう、柱の前で、リアのペンが横に動いた。
聞いたことを、書いているのだと思っていた。
違った。
消していたのだ。リアの問いを。俺が、先に言ったから。
リアは、自分の問いを書いた頁を開いて、聞きに来ていた。二歩手前で、止まった。俺は、それを見ていた。見ていたのに、何も見ていなかった。
線の下に、もう一行あった。
そこには、線がなかった。
リアは、その行を、読まなかった。
*
リアは、頁から目を上げた。
俺を、まっすぐ見ていた。柱の前では、一度も、こっちを見なかったのに。
「私のほうも、三つです」
リアの声が、数を言うときの声になった。
「一つ。一緒に行く、は、洗い場で、聞きました」
洗い場。石の間で鳴る水。布にくるんだパン。手のひらに一枚ずつ置かれた、銅貨四枚。
「私が頼んだのは、パン二つでした」
詰所の男に、あの子は知ってるのか、と聞かれた。俺は、言いました、と答えた。
言ったのは、本当だった。
聞いては、いなかった。
駄目だ、とは、言われなかった。俺は、そう受け取っていた。リアは、答えていなかったのだ。
「二つ。持ち場が替わった、は、弟さんから、聞きました」
息が、止まった。
二十二日の夜のことを、リアが口にしたのは、初めてだった。
あの夕暮れ、俺は端から、置いた灯の輪を見ていた。弟が、何か言っていた。リアは、動いていく灯を、長いこと見ていた。それから、灯の横に座った。
座ったから、それでいいのだと思った。
「三つ。条件は、柱の前で、聞きました」
二歩手前。開いたままの帳面。動かなかったペン。
「どれも、私は、聞かれていません」
リアの声は、少しも、大きくならなかった。
東の空が、白から薄い黄色に変わっていった。杭の束の影が、地面に長く伸びた。
「ユートさんは、上へ行くと、言っていました」
リアは、俺から目を離さなかった。
「水が来た所を、見に」
言った。リアに、俺の口で。
「フェリクさんの紙には、ハルムと、王都と、ユートさんの名前が、書いてあります」
リアの指が、頁の左の段の、いちばん下に置かれた。
「俺の用は、後でいいです、と」
俺の言葉だった。リアの声で聞くと、知らない人の言葉のようだった。
リアは、少しだけ、間を置いた。
「……それは、私の行き先ですか。それとも、ユートさんの」
答えを、探した。
どこにも、なかった。
*
口が、先に開いた。
「……ごめん」
表紙の上で、リアの指が止まった。
「謝ることでは、ありません」
宿舎の石段でも、リアは、そう言った。俺が、辞めた、と言った夜だ。あの夜は、その後に、臨時の人は、辞められます、と続いた。
今朝は、何も続かなかった。
堰の水音がしていた。どこかの屋根で、鳥が鳴きはじめた。
リアは、俺を見ていた。答えを、待っていた。
「……リアが、危ないと思って」
言ってから、聞いたことのある形だと思った。
四月十六日の朝。土手道の杭の前で、俺は、リアが喜ぶと思って、と言った。
喜ぶと思って。危ないと思って。
口から出た形が、同じだった。
でも、と、すぐに思った。危ないのは、本当だ。夜の土手も、雨も、知らない道も。ハルムまで、一日か二日。その先は、俺も知らない。知らない道を、知らない人と行く。
「危ないかどうかは、私も、見ています」
リアの声は、静かだった。
「……柱の前で、見ていました」
水にいちばん近い所に立っていたのは、リアだった。手のひらを刻みに当てて、水の高さを読んでいた。
俺は、何も言えなかった。
リアは、表紙を押さえていた指を、頁に戻した。右の段の、線のない行に置いた。
「私が聞きたかったのは、これです」
指が、ゆっくり字をたどった。
「測った結果を、何に使うか」
俺は、その字を見た。読めない字だった。
「これは、まだ、誰も聞いていません」
俺の三つの中に、それはなかった。
考えもしなかった。途中で、やめられるのか。いつまでなのか。誰が、一緒に行くのか。俺が数えたのは、危ないかどうかだけだった。
リアが測られて、その結果が、どこへ行くのか。誰の帳面に、何と書かれるのか。
水番の四十年は、器具の帳面に入っていた。
リアは、それを、ずっと考えていたのだ。
「これは、私が聞きます」
リアは、帳面を閉じた。杭の束から、立ち上がった。膝に、露がついていた。
「穴を、見てきます」
休みの日でも、穴は開く。リアは、毎朝、見て回る。
苗の列のあいだを、土手のほうへ歩いていった。
途中で、一度、振り返った。俺を見て、それから、また歩いていった。
俺は、肩の索を下ろした。
手の中で、まっすぐだった。
*
道具小屋に入って、藁の上に横になった。
眠れなかった。夜じゅう起きていたのに、目を閉じると、リアの指が頁の上を動いた。線のある行。線のない行。
昼前に、外へ出た。
休みの日の村は、音が違った。土を突く音も、籠を下ろす音もしない。どこかの家の裏で、洗い物の水をあける音がした。子どもの笑う声がした。
堰の前に、水番がいた。
休みの日も、水番は板の前にいる。水は、休まないからだ。板を一段下ろして、水の筋を見ていた。
俺に気づいて、顔を上げた。
「……寝たのか」
「いえ」
水番は、俺の顔を、少し長く見た。
「……寝ろ。今夜は、見回りはない」
それだけ言って、板に戻った。
見回りの前に、水番は、一人ずつ聞く。どこに立つのか、と。リアにも、聞いた。俺より、先に。
リアは、自分で答えた。
水番は、聞いてから、決めていた。
俺は、聞かなかった。
堰の下の石の上で、若い兄弟が、並んで糸を垂らしていた。
「釣れねえ」
弟が言った。
「お前がしゃべるからだ」
兄が言った。弟は、口をとがらせて、納屋のほうを顎で指した。
「王都の人、休みの日も書いてるぜ」
前掛けの女の家の納屋の戸口に、フェリクが座っていた。膝に帳面を広げて、細いペンを動かしていた。
「……じゃあ、暇じゃねえのか」
兄が言って、弟が笑った。
あの帳面に、三つ目がある。同行、ユート。本人の申し出。
足が、一歩、納屋のほうへ出た。
今、行けば、今日のうちに済む。リアが土手にいる間に。
そこで、止まった。
済ませる。
きのうの朝も、そう思った。リアが穴を数えている間に、済ませればいい、と。
カーヴェルの支局で、知らないうちに、俺の台帳の照合が済んでいた。頼んでもいないのに。ありがたいはずなのに、少しだけ、落ち着かなかった。なぜなのか、あのときは考えなかった。
今なら、分かる。
あれを、俺は、リアにした。
索をほどいたとき、軽かった。聞くことはもうない、と思った。
軽かったのは、俺だけだった。
出した足を、戻した。
堰の先の土手を、上へ歩いた。リアの見取図が、白くなる所だ。
土手の上に立つと、上流から水が来ていた。細く光って、畑の溝に分かれる前の、一本の水だった。
あの先に、上の門がある。その向こうが、水が来た所だ。俺は、まだ、見ていない。
後でいい、と言ったのは、俺だ。俺の用を後にして、リアの道の上に、俺の名前を書かせた。
決めた。
三つ目は、俺の名前だ。明日、あの人に、俺の口で、消してもらう。
一つ目と二つ目は、リアの問いだ。俺は、もう、触らない。
リアには、先に言う。
水は、上から来て、足元を過ぎていった。
*
日が傾くころ、道具小屋の戸口の前に立った。
杭の束の横で、待った。土手から、リアが戻ってくるはずだった。
蛙が、鳴きはじめていた。見回りのない夜だ。堰の前に、灯は並ばない。村の窓に、灯が一つずつ入っていった。どこかで、鍋の蓋が鳴った。
立って待つのは、思っていたより長かった。
リアも、ここで、こうして待っていたのだ。帳面を胸に抱えて。いつから待っていたのか、俺は知らない。
苗の列のあいだを、リアが歩いてきた。帳面を、胸の前に抱えていた。靴に、夕方の土がついていた。
俺に気づいて、リアは、少し歩みをゆるめた。
戸口の前で、止まった。
聞いてから、決めるか。消してもらっていいか、と。
違う。
これは、俺の名前のことだ。聞けば、リアに、俺のことを決めさせる。
けれど、黙って済ませたら、柱の前と同じだ。
だから、先に、言う。
「リア」
名前を呼ぶと、リアが顔を上げた。
「明日、フェリクさんの所へ行く」
リアは、黙っていた。
「三つ目を、消してもらう。あれは、俺が言ったことだから。俺の口で、言う」
肩の索は、まっすぐなままだった。結び目がなくても、言うことは、言えた。
「一つ目と、二つ目は、リアのだ。俺は、もう、言わない」
リアは、しばらく、何も言わなかった。
蛙の声だけがしていた。
それから、リアは、俺を見た。
「……ユートさんの行き先は、ユートさんが決めてください」
「……分かった」
リアは、戸口をくぐった。
俺は、索を、戸口の脇の釘に掛けた。まっすぐなまま、垂れた。
中に入ると、奥の隅で、リアが灯をともしていた。小さな火が、藁と、インク壺と、開いた帳面を照らした。
縦の線の頁だった。
リアのペンが、動いた。
右の段の、線のない行の下に、細い字が増えていった。止まって、また動いた。灯の芯が、小さく鳴った。
きのうは、動かなかったペンだ。
何を書いているのか、俺には読めない。
読めなくていい、と思った。
あれは、リアの頁だ。




