EP.43 器具の帳面
四一二年の切り口は、三日で、白さが抜けた。
刻んだ朝は、木の中の色が、そのまま出ていた。生の、明るい色だった。雨の残りと日の光を何度か浴びるうちに、それが薄い茶色になった。十日もすると、上の三八六年の筋と並べても、どちらが新しいのか、すぐには分からなくなった。
そのあいだに、畑の水が引いた。
水の下から出てきた畑には、泥の筋が残っていた。植えたばかりの苗は、半分ほどが倒れて、根元から黒くなっていた。腐った草の匂いが、土手の上まで上がってきた。
鍬の男は、倒れた苗を一本ずつ抜いて、畝の脇に積んだ。それから、新しい苗を植えた。子どもたちが、苗の束を抱えて、畑と家のあいだを何度も行き来した。
水が引くと、水番は、上げたままだった堰の板を、一枚ずつ戻した。板が木の溝を滑り落ちて、ごとん、と石に当たる。二枚目も、ごとん。俺は、土手の上から、それを見ていた。手は、出さなかった。
空いていた肩の裏は、もう一度、詰め直した。籠の土を入れ、突き棒で奥まで突く。とん、とん、と、締まった音になるまで突いた。裏の草の根元から、水は、もう出てこなかった。
雨の後の、最初の見回りの夕暮れ。堰の前に、灯が三つ並んだ。
水番は、灯の前に立って、まずリアを見た。
「お前は」
「灯の後ろを、歩きます」
水番が持って歩く灯の、後ろ。リアが、初めの夜に、自分で選んだ持ち場だった。
俺は、何も言わなかった。
水番が聞いて、リアが答えた。水番が聞いたことだ。俺が言うことじゃない。
その夜、新しい穴は、一つも見つからなかった。次の夜もだった。
「雨の後、十日で、三つです」
リアが、村の分の頁を水番に見せた。水番は頁を見て、見回りを一晩おきにした。
リアとは、話すようになった。
「杭を、もう一本、お願いします」
「分かった」
「穴は、堰から二百十歩の所です」
「行く」
話すのは、仕事のことだけだった。それで、困ることはなかった。二十二日の夜のことは、リアも言わなかったし、俺も言わなかった。
元に戻った、と思った。
六月六日は、休みの日だった。
水番は、休みの日も堰にいる。リアは、朝から道具小屋で、帳面の頁を写していた。柱の頁だった。いちばん上の筋の下に、四一二年の線が足してある。その上の段に、板の行と、水番の話。
昼過ぎ、リアは、その一枚を持って、水番の小屋へ行った。
俺は、土手の上にいた。声は、聞こえなかった。
リアが紙を差し出し、水番がそれを見て、しばらく動かなかった。それから、紙を受け取って、小屋の中へ入っていった。
リアは、戸口の前で少し立っていて、それから戻ってきた。
前に、要らん、と言われた紙だった。今日は、言われなかったらしい。
六月十日の昼前、俺は、土手で籠の土を突いていた。
*
「王都の人だって!」
子どもが二人、土手の上を走ってきた。前の子が、ハルムへ行く道のほうを指さした。
「王都から、人が来た! 前掛けのおばちゃんが、連れてくる!」
突き棒を止めて、顔を上げた。
道のほうから、前掛けの女が来るのが見えた。その後ろに、知らない男が一人。
旅装だった。裾も靴も、道の埃で白くなっている。肩から斜めに、厚い革の鞄を掛けていた。留め金が、二つ。両手で、帳面を一冊、胸の前に持っていた。
年は、二十の終わりくらいに見えた。
前掛けの女が、土手の下で止まった。
「この人がね、帳面を持った娘さんを、探してるって」
男は、土手の下から、俺たちを見上げた。そのまま、軽く頭を下げた。
「フェリク・ナウルと申します。王都から来ました。読取所の記録を、調べています」
丁寧な声だった。一つずつ、言葉を置くような話し方だった。
「リア・セルヴィさんは、こちらに、いらっしゃいますか」
穴の脇で書いていたリアが、立ち上がった。
「私です」
男は、リアを見て、もう一度、頭を下げた。
「カーヴェルの、再測定の写しを、読みました」
リアの手が、帳面の上で止まった。
「ミラさんが、王都へ送ると言っていました」
「はい。それを、読みました」
王都。
ミラさんは、あの日、原記録はここに残して、写しを王都へ送ると言っていた。器具の記録の決まりだ、と。あの紙を読んだ人が、ここまで来たのだ。
「上流の水門の詰所からも、報告が届いていました」
男は、帳面を開かずに言った。
「詰所の帳面に、五月八日、土手道へ、とありました。古水路は、この村で終わると、聞きました。ハルムに、寄ってきました。読取所が、あるので」
ここまでの道が、四つの文で、全部並んだ。
男の帳面は、角がきちんとそろっていた。その指の先に、インクの染みがあった。人差し指と、中指。
リアの親指と、同じ色だった。
「お話を、聞いていただけますか」
男は、リアに言った。
「お仕事の後で、構いません」
前掛けの女も、子どもたちも、聞いていた。男は、それ以上、何も言わなかった。板のことも、線のことも。
リアは、少し考えた。
「夕方に。堰で、聞きます」
「ありがとうございます」
男が、俺のほうを見た。
「ユートさん、ですね」
「……はい」
「写しに、お名前がありました」
読取所の、あの三回目。灯が、手を着いた瞬間に点いた。手首が、先に返った。あれも、紙に書かれて、王都へ行ったのだ。
俺の名前も、その紙にある。
頼んだ覚えは、なかった。上流の詰所で、台帳の照合が済んでいたと聞かされたときと同じ落ち着かなさが、胸の底に残った。
「お二人で、ここまで」
「別々の仕事で、ここにいます」
リアが、先に答えた。
そのとおりだった。俺は土手の手間で、リアは穴の記録だ。そのとおりだ、と思った。
男は、うなずいて、何か小さく書きつけた。
それから、頁を繰って、指で一つの行をたどった。
「もう一つ、探している方がいます。三六〇年に、ハルムで測った、この村の方です」
苗の束を抱えて土手の下を通りかかった鍬の男が、足を止めた。
「三六〇年?」
鍬の男は、指を折りかけて、やめた。
「……そんな昔に測ったのは、鍛冶のじいさんぐらいだ」
「鍛冶のじいさん!」
子どもたちが、声をそろえた。
*
水番は、堰にいた。
戻した板の上を、水が細く越えていた。雨の前と同じ、いつもの音だった。水番は柱の前にしゃがんで、板の縁にたまった泥を、指でかき出していた。
鍬の男と子どもたちが、少し離れて、ついてきていた。
男が、堰の手前で止まった。
「王都から来ました。フェリク・ナウルと申します」
水番は、しゃがんだまま、顔だけ上げた。
「三六〇年に、ハルムで、測りましたか」
長い間があった。
「……測った」
男は、帳面を開いた。
「ハルムの読取所で、記録を、写してきました。ここで、読んでも、よろしいですか」
水番は、男を見ていた。それから、リアを見た。
「……読め」
男は、指で行をたどりながら、読んだ。
「三六〇年。堰の村の者。二十。職業、鍛冶と出る。本人の言う仕事は、堰の手伝い。合わず。手の当て方か。接触不良として、保守記録へ。測り直しを勧める」
泥をかき出していた水番の指が、止まった。
係は、首をひねった。手の当て方かもしれん、と言った。何か書いて、それきりだ。
あの日、堰の前で、この人は、そう言っていた。
その何かを、今、知らない人が読んだ。
「……書いてたのか」
水番の声は、低かった。
「はい」
男は、帳面を閉じなかった。
「ただ、これは、器具の手入れの帳面です」
ゆっくり、言った。
「あなたの帳面では、ありません」
水番は、黙っていた。
「あなたの四十年は、どこにも、書かれていないのです」
書かれていたのだ。四十年前に。
器具のほうに。
水番が、立ち上がった。曲がった背を、ゆっくり伸ばした。泥のついた手を、腰で一度ぬぐった。
男のほうは、見なかった。
背を向けて、堰から離れていった。水番の小屋のほうへ。
誰も、何も言わなかった。リアは、帳面を胸に抱えたまま、その背中を見ていた。
書いても、水は同じに来る。
最初の日に、この人は、リアにそう言った。
男は、帳面の角を、指でそろえ直した。それから、そのまま、待っていた。
*
水番は、戻ってきた。
手に、紙を一枚持っていた。四つに折って、折り目がついている。
男の前まで来て、それを差し出した。
「……書いてある」
男は、両手で受け取った。
「板は、よろしいのですか」
「板は、いい」
男が、紙を開いた。
リアの字だった。字の読めない俺にも、それは分かった。頁の上のほうに縦の線が一本あって、左に短い行がいくつか、右に、もっと長い行が並んでいる。下の段に、柱の絵。横線が、六本。
六日に、リアが渡した一枚だった。
要らん、と言った紙を、この人は、取っておいたのだ。
男は、しばらく黙って読んでいた。指が、右の行をゆっくり下りていった。柱の絵のところで、止まった。
「これを、書いたのは」
「私です」
リアが言った。
「水番さんの、許しで」
男は、自分の帳面を開いて、ペンを出した。細いペンだった。速く、細い字で、何かを書いた。
「写した者、リア・セルヴィ。本人の、許しあり」
書いたことを、声に出して確かめた。
リアは、自分の名前が書かれるのを、黙って見ていた。
男は、柱の絵を指さした。
「いちばん上の線の、すぐ下。四一二年。……手のひら一つ、とは」
「私の、手のひらです」
男は、少し考えて、鞄の留め金を外した。中から、細い木の棒を出した。折りたたんだ物差しだった。ぱち、ぱち、と広げると、目盛りが細かく刻んであった。
「では、測らせて——」
測る、という言葉で、肩が固くなった。
リアが、手を出した。
「自分で、測ります」
男の手が、止まった。
「……はい」
男は、物差しをリアに渡した。
リアは、物差しを自分の手のひらに当てた。親指を除いた、四本の指の幅。目盛りを、目で数えた。
「目盛り、九つと、半分です」
数を言うときの、はっきりした声だった。
「九つと、半分」
男は、それも書いた。物差しを受け取って、ていねいにたたんだ。
リアは、自分で測った。それを見て、肩から力が抜けた。
男は、水番のほうを向いた。
「お仕事を、何と書きましょう」
水番は、柱を見ていた。
「……水番だ」
初めて会った朝、夜明けの土手で、この人はそう名乗った。同じ言葉だった。
男は、それを書いた。
「堰の村の、水番。四十年。……合っていますか」
「……ああ」
男は、紙を元のとおりに四つに折った。折り目に合わせて、ていねいに。
「お返しします」
水番は、紙を受け取った。何も言わずに、小屋のほうへ持っていった。すぐに戻ってきて、また板の前にしゃがんだ。
リアが、男に言った。
「ハルムの帳面に、ほかにも、いますか」
同じことを、リアは、柱の前で水番にも聞いた。知らん、と水番は答えた。
男は、すぐには答えなかった。
「……います」
「何人、ですか」
「ほかの方の記録なので、数は、申し上げられません」
リアは、うなずいた。それ以上は、聞かなかった。
土手の上で、子どもの一人が叫んだ。
「鍛冶のじいさんが、王都の紙に載るんだって!」
苗の束を下ろしていた鍬の男が、その子の頭を、軽くはたいた。
「水番だって、言ってたろ」
*
夕方、灯を三つ、堰の脇まで運んだ。
見回りのない夜も、灯は、土手の弱い所に置く。いちばん端の一つを、柱の近くに据えた。手を平らに当てる。板が、手のひらに吸いつく。三つ数える。灯が、点いた。
水番が、夜の分に、堰の板を一段下ろした。ごとん、と石が鳴った。水番は、板の前にしゃがんだまま、こっちに背を向けていた。
リアは、柱の横の石に座っていた。帳面を、膝に置いていた。
男が、前掛けの女の家のほうから来た。納屋を借りたのだと、昼に子どもたちが言っていた。鞄は下ろしていたが、帳面は、やはり両手で持っていた。
男は、リアの向かいの石を見た。
「座っても、よろしいですか」
「どうぞ」
男は座った。それから、灯の横に立っている俺を見た。
「ユートさんも、よろしければ」
リアは、何も言わなかった。こっちも、見なかった。
俺は、灯の横に立ったままでいた。
「先に、お伝えします」
男は、帳面を膝の上でそろえた。
「私には、あなたに何かをさせる力は、ありません。お願いをしに来ました」
「はい」
「断っても、あなたの身分も、通行も、何も変わりません」
男は、そこで一度、言葉を切った。
「お願いは、二つです。一つは、ハルムの読取所で、もう一度、測らせていただきたい。カーヴェルとは別の担当者で、別の器具で。手順は、あなたが決めてかまいません」
リアのペンが、帳面の上で動いた。
「ハルムの読取所には、もし受けてくださるなら、と、話してあります」
「もう一つは」
「そのあとで、王都へ、一緒に来ていただきたいのです。王都にいる間の宿と食事は、こちらで持ちます」
王都。どれくらい遠いのか、俺は知らなかった。
聞くことを、数えていた。
途中で、やめられるのか。いつまでなのか。誰が、一緒に行くのか。
「今日、水番さんの記録を見ました」
男の声は、昼と同じに、ていねいだった。
「四十年、誰も、あの方のことを書かなかった。器具の帳面に、一行、入っていただけで」
男は、柱の刻みを見た。
「あなたの記録を、器具の帳面に入れさせたくないのです。王都なら、私が、そばで見ていられます」
男の顔は、まじめだった。
「正確に、残したいのです」
リアは、少し黙っていた。
「測った記録は、誰が持ちますか」
「原記録は、ハルムに残ります。写しを、王都へ」
「私の分は」
男の口が、開いたまま止まった。
「……作れます」
男は、帳面に何か書き足した。
リアは、もう一つ聞いた。
「王都へ行ったら、いつまで、ですか」
同じことを、考えていた。俺が数えていたことを、リアが、自分で聞いている。
「どの型か、分かるまで」
「分からなかったら」
男は、すぐには答えなかった。それから、やさしい声で言った。
「……分かるまで、です」
分からなかったら、ずっと、だ。
暮れていく空の下で、灯の輪が、少しずつはっきりしてきた。リアの膝の帳面も、男の手元も、その輪の中にあった。
「十五日の朝、ハルムへ戻ります」
男は言った。
「それまでに、お返事をいただければ」
リアは、帳面を閉じた。
「考えます」
「はい。待ちます」
男は立ち上がって、頭を下げた。前掛けの女の家のほうへ、帰っていった。
三つ目を、リアは、聞かなかった。
誰が、一緒に行くのか。
考えるのは、リアだ。リアが、考えます、と言った。
……それでも、聞いていないことが、ある。
*
道具小屋の灯は、小さい。
リアは、奥の隅で、帳面を開いていた。頁の真ん中に縦の線を一本引いて、その両側に、何か書いていた。夕方に聞いたことだろう、と思った。
書き終えると、リアは、胸の内側から見取図を出した。
紙を開く音がした。リアの指が、線をたどって、端のほうで止まった。堰の所だ。点線は、もうない。線は、あの堰で終わっている。
その先は、紙の白だった。
リアは、長いこと、その白を見ていた。それから、いつもの折り目で、見取図をたたんだ。胸の内側に戻した。
灯を消す前に、リアは、一度だけ、こっちを見た。
俺は、何も言わなかった。
灯が消えた。
外で、蛙が鳴いていた。
暗がりの中で、目を開けていた。
今、聞けば、まだ、リアに聞ける。行くのか、と。いつまでなのか、と。
けれど、リアは、考えます、と言ったのだ。考えている人に、聞くことじゃない。
聞いていないことは、あの人に聞けばいい。
リアの代わりに、じゃない。リアが聞かなかったことを、聞くだけだ。
手を伸ばして、枕元の索を探った。年長のほうにもらった、古い索だ。
暗くても、結べる。手首を二度返して、締める。
一つ目。途中で、やめられるのか。
二つ目。いつまでなのか。
三つ目。
誰が、一緒に行くのか。
明日、あの人に聞く。
結び目は、三つになった。




