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EP.42 手のひら一つ

雨は、昼過ぎに来た。


土手の乾いた土に、黒い点が一つ落ちた。二つ、三つ。見ているうちに点がつながって、土の色が変わった。草の葉が、細かく震えはじめた。


水番は、堰の脇の柱の前にいた。柱の刻みと、堰の板を、交互に見ていた。


畑から、人が戻ってきた。鍬を担いだまま、空を見上げて、家へ急ぐ。前掛けの女が、井戸の前で子どもを呼んで、家の中へ押しこんだ。


「戸を、閉めとくよ」


水番に、そう声をかけた。水番は、うなずいただけだった。


夕方には、雨の音が、ほかの音を消していた。堰の板の縁を越える水が、太くなった。細く落ちていたのが、今は、板の上を一枚の布のように越えていく。


俺は、道具小屋にあった古い麻袋を、頭からかぶっていた。リアは、帳面を布で包んで、上着の胸に抱えていた。インク壺は、上着の内側の、帳面と同じ所にしまってあった。


リアは、ゆうべから、俺に何も言っていなかった。俺も、何も言っていなかった。言うことは、ないはずだった。


堰の前に、灯が三つ並べてあった。鍬の男と若い兄弟が、雨の中を走ってきた。


水番は、灯の前に立った。顔の雨を、大きな手のひらで一度ぬぐった。


いつもの言葉は、言わなかった。


リアを見た。


「お前は」


リアは、胸の帳面を抱え直した。


「柱を、見ます。刻みと、水の高さを、書きます」


柱。堰の脇の、刻みのある柱だ。堰の板のすぐ横で、水に、いちばん近い所だった。


「リアは、——」


口が、先に動いていた。


「お前は、どこだ」


水番が、俺を見ていた。


「……空いていた肩へ、行きます」


「裏から水が出たら、呼べ」


水番は、すぐに鍬の男のほうを向いた。


「誰が、どこだ」


鍬の男は堰の板、兄弟は籠で土を運ぶ。灯は、一つを柱に、一つを俺の肩に、一つを水番が持つ。


言いかけたことは、雨の音で消えた。


何を言おうとしたのかは、考えなかった。俺の持ち場を言わなければ、と思っただけだった。


灯を一つ受け取って、端へ走った。


  *


空いていた肩は、灯の輪の中で、黒く光っていた。


二日前の夜明けに詰めた土だ。杭が三本、頭を出している。雨が、杭の頭で跳ねていた。


灯を、杭の横の、少し高い所に置いた。輪の中を、雨粒が白い線になって落ちてくる。


首筋から、冷たい水が背中へ入った。麻袋は、もう水を吸って重いばかりだった。


表の水路の水が、すぐそこで鳴っていた。昼に見たときは、肩のずっと下を流れていた水だ。今は、灯の輪の端で、黒く、ふくらんで見える。


杭の頭を、見ていた。


最初は、気のせいだと思った。


杭の頭が、さっきより、低い。


詰めた土が、沈んでいた。雨を吸って色が濃くなり、杭のまわりで、指一本ぶんほど下がっている。


裏へ回ることにした。裏は、畑の側だ。灯の輪の外で、暗い。


肩の固い所に、もう一本、杭を打った。木槌が、雨で滑った。索を巻いて、手首を二度返す。腰に回して、余りを一握り。


腰の索を一度引いて、杭が保つのを確かめた。灯を片手に提げて、土手の裏の斜面を、横向きに下りた。濡れた草が、足の下で寝た。


裏の斜面の、いちばん下。畑との境の草の根元が、灯の光を受けて、光っていた。


濡れているだけでは、なかった。


草の根元から、水が滲んでいた。雨の水ではない。土の中から、出てきている。


見ているうちに、滲みが濁った。


泥の色の水が、草の根元から、小さく湧きはじめた。ぽこ、ぽこ、と、細い泡が立つ。


土手の中を、水が抜けてきている。


湧いている所の横に、杭を一本、打った。印だ。


「籠を!」


土手の上で、弟の声がした。


「どこだ!」


「裏だ! 土を、ここに!」


弟が、籠を抱えて、斜面を滑り下りてきた。途中で尻もちをついた。籠の土を、湧いている所の上にぶちまける。俺も、両手で土をすくって積んだ。


積んだ土の上から、また、滲んだ。


濁った水が、土の山の裾を、細く伝って流れ出た。


積んでも、湧く。


俺は、土手の上へ向かって叫んだ。


「裏から、水だ!」


土手の上で、兄が籠を放り出して、堰のほうへ走っていった。


  *


水番は、すぐに来た。


灯を低くして、裏の水を見た。積んだ土の裾から、濁った水が、まだ細く出ていた。


水番は、何も言わなかった。土手の上に戻って、表側の水を見た。水路の水は、もう土手の肩の、すぐ下まで来ていた。


「索を持って、来い」


そう言って、堰へ戻りはじめた。


俺は、弟に「ここ、頼む」と言った。弟は、泥だらけの顔でうなずいた。


堰の前は、水の音で、声が聞こえにくかった。


板の上を、水が、吠えるような音を立てて越えていた。板の縁が、白く泡立っている。


柱の前に、灯が一つあった。


その輪の中に、リアがいた。


帳面を、柱の横の石の上に、布で包んだまま置いていた。片手で布の端を押さえ、もう片方の手のひらを、柱に当てていた。いちばん上の刻みの、下だ。


手のひらを、一つ、下へずらす。もう一つ。その下は、水だった。


柱の下のほうの刻みは、もう見えなかった。一つ、二つ、三つ。水の下だ。


濡れた髪が、リアの頬に貼りついていた。柱に当てた手の甲を、雨が叩いていた。


リアが、顔を上げた。


「いちばん上の刻みまで、手のひら、三つ」


水番は、リアの数を、聞き返さなかった。柱を見た。それから、堰の板を見た。


雨が、顔を叩いた。


しばらくして、リアがまた手を当てた。


「二つ」


さっきまで見えていた四つ目の刻みが、水の下に入っていた。


水番が、言った。


「……抜く」


鍬の男が、堰の板の前から振り返った。


「抜いたら、畑が沈む!」


雨の中で、声が割れていた。


「植えたばっかりだぞ!」


水番は、鍬の男のほうを見なかった。柱を見ていた。


「畑は、水が引けば戻る」


雨の音の中で、低い声だった。


「土手が抜けりゃ、家が流れる」


鍬の男は、口を開けた。何か言おうとして、閉じた。


「……くそ」


鍬の男は、堰の板の縁に、両手をかけた。


リアは、そこで、柱に手のひらを当てていた。堰の、いちばん水に近い所だ。


一度だけ、そう思った。


  *


水番が、堰の端の板の縁をつかんだ。


背を曲げて、引き上げる。


板は、動かなかった。


水が、板を石に押しつけていた。板の向こう側から、水の重さが、全部かかっている。水番の大きな手の、節が白くなった。それでも、板は、指一本ぶんも上がらなかった。


水番が、手を離した。


板の上の端に、切り欠きがあった。手を掛けるための、四角いくぼみだ。


「結べ」


肩から索を下ろした。切り欠きに、索の端を通す。水が、手首を叩いた。冷たい。指が、うまく動かない。


手首を、二度返す。


結び目を、締める。


余りを、一握り。


「俺が言ったら、引け」


水番が、索の手前を握った。その後ろに鍬の男。兄が走ってきて、その後ろについた。俺は、いちばん後ろで、索の端を腰に回した。


雨で、索が滑った。手のひらに、索の目が食いこんだ。


柱のほうから、声がした。


「手のひら、一つ」


数を言うときの、はっきりした声だった。雨の音の中でも、よく通った。


「引け」


引いた。


動かない。


四人の息が、雨の中で一つになって、吐き出された。足が、泥の中で滑った。腰の索が、ぐっと締まった。手のひらが、焼けるように熱かった。


「もう一度だ。……引け」


引いた。


板が、ずるりと動いた。


一段。もう一段。


水が、吠えた。


板の下から、白い水が、どっと噴き出した。足元の石が震えた。


噴いた水が、堰の脇へも跳ねて、柱の根元を洗った。灯の輪の中で、リアの足元が、一瞬、白くなった。


リアは、柱から離れなかった。片手を柱に当てたまま、もう片方の手で、石の上の帳面の布を押さえていた。水は、堰の先の溝へ、溝を越えて、暗い畑のほうへ広がっていった。ざあっ、という音が、闇の中で遠くまで伸びていく。


水番が、板を木の溝の高い所に掛けて、掛かったのを手で確かめた。


「次だ」


二枚目の板に、索を結び直した。手首を二度返す。余りを、一握り。


二枚目は、一枚目より軽かった。


板が上がると、堰の前の水の音が、少しだけ低くなった。


柱のほうから、リアの声がした。


「下がりました」


少し、間があった。


「……手のひら、二つ」


鍬の男が、泥の中に座りこんだ。


暗い畑のほうから、水の広がる音が、まだ続いていた。


リアの数で、引いた。


結び目は、最後までほどけなかった。余りを一握り、残してあった。


  *


夜明けが来るころには、雨は、細い糸のようになっていた。


土手の上から見ると、畑が、なかった。


溝も畝も、水の下だった。白んでいく空を映して、平らな水が、村の端まで広がっていた。その向こうに、家の屋根が並んでいた。どの屋根も、雨に濡れて黒く、どこも欠けていなかった。


空いていた肩へ、戻った。


弟が、積んだ土の横にしゃがんでいた。全身、泥だった。


「止まりかけてる」


裏の水は、細くなっていた。濁りも、薄い。積んだ土の裾から、糸のように細く滲んでいた。


土手は、保った。


弟が立ち上がろうとして、籠ごと泥に尻もちをついた。土手の上から、兄が笑った。


「何回、転ぶんだ」


「数えてねえよ」


鍬の男が、水の下の畑を、黙って見ていた。


それから、堰のほうを見た。


「……鍛冶のじいさんの、言うとおりだった」


誰に言うでもなかった。


堰へ戻ると、柱の前に水番が立っていた。


水は、もう下の刻みのあたりまで引いていた。柱の上のほうに、濡れた跡が、黒く残っていた。


水番が、振り返らずに言った。


「いちばん上は、いつだ」


リアが、帳面を開いた。布の下で、頁はほとんど濡れていなかった。


「夜明けの前です。いちばん上の刻みの、手のひら一つ下まで来ました」


水番は、腰からナイフを抜いた。


「どこだ」


リアが柱の前に立って、いちばん上の刻みの下に、手のひらを当てた。手のひらの下の縁を、指でなぞった。


「ここです」


水番は、リアの指の下に、ナイフの刃を当てて、深く引いた。


木屑が、雨に濡れて、太い指に貼りついた。


「……四一二年だ」


リアが、頁をめくった。柱の絵の頁だった。いちばん上の筋の、少し下に、ペンで一本、線を足した。その横に、字を書いた。


何か言おうとした。言うことが、見つからなかった。


水番は、ナイフを腰に戻して、柱から手を離した。


新しい刻みの切り口が、いちばん明るかった。

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