EP.41 灯の輪の中
眠れなかった。
夜明けの補修を終えて、道具小屋の藁に横になった。目を閉じると、輪の縁で光った歯が見えた。細くて、白い。リアのくるぶしの、すぐ横。
しゅっ、という短い息の音も、耳の奥に残っていた。
寝返りを打った。腰の索の跡が藁に擦れて、ひりひりした。
昼前に、起き出した。
明るい土手を、堰のほうへ歩いた。ゆうべ灯を置いた所が、見えた。土手の上の、平らなあたりだ。持って歩く灯は、その先の、肩の縁を行く。穴の口は、肩の縁に開く。
堰の脇の日なたで、若い兄弟が籠を直していた。土を運ぶ籠の、ほつれた縁を編み直している。鍬の男がその横に座って、パンをかじっていた。
堰の板の縁から、水が細く落ちていた。
明るい所は、追われたものが抜けていく所だ。ゆうべの一匹は、灯に追われて、灯の後ろを抜けていった。置いた灯の輪の中なら、動かずにいられる。あそこには、追われたものは来ない。
守らなきゃ、と思った。
兄弟の前で、足を止めた。
兄のほうが、顔を上げた。
「どうした、兄さん。寝てねえ顔だな」
弟が、籠の縁を引っぱりながら言った。
「村じゃ、もう噂だぜ。魔物が、娘っこに歯をむいたってよ」
「今夜」
声が、少しかすれた。
「灯の後ろを、替わってもらえませんか」
兄は、籠を編む手を止めた。
「俺が?」
「はい。リアは、置く灯の番に」
兄は、弟と顔を見合わせた。
「あの子は、いいって?」
「……言っておきます」
口から出たのは、それだった。
鍬の男が、パンを飲みこんだ。
「そのほうがいい。ゆうべのは、肝が冷えた」
膝の上のパンくずを払って、続けた。
「若い娘を、灯の後ろにやるもんじゃねえ」
兄は、少し考えてから、うなずいた。
「なら、いいけど」
兄は、籠を膝から下ろした。
「灯の後ろってのは、何すりゃいい」
「穴を見つけたら、棒を立てておいてください。朝、リアが書きます」
「棒なら、任せとけ」
弟は、籠から顔を上げないまま、小さく笑った。
言ってしまうと、胸が軽くなった。
今夜、灯の後ろに、リアはいない。
*
道具小屋に戻ると、リアが眠っていた。
奥の隅で、壁にもたれて座ったまま、首を傾けている。膝の上に、帳面が開いていた。ゆうべの頁の清書の途中らしく、書きかけの行の先で、ペンが紙の上に転がっていた。
上着の裾には、夜露の乾いた白い筋が残っていた。
開いた頁に、ゆうべの土手の線が引いてあった。その上に、小さな黒い点が並んでいる。穴の印だ。一つずつ、塗りつぶしてある。
藁の横に、インク壺が置いてあった。蓋が、開いている。膝のすぐそばだった。寝返りを打てば、倒れる。
そっと膝をついて、蓋を閉めた。小さな音がした。壺を、膝から少し離して置き直した。
リアは、起きなかった。
ペンを、帳面の綴じ目に挟んでおこうかと思った。手を伸ばしかけて、やめた。リアの帳面だ。
ゆうべは、一晩じゅう、灯の後ろで、しゃがんでは立っていた。眠らせておけばいい。
言うのは、夕方でいい。
今夜は、置く灯の番だ。兄のほうと、替わってもらった。棒を立ててもらうから、朝、書けばいい。
頭の中で、言うことをなぞった。それで、足りる気がした。
戸口の外で、鳥が鳴いていた。俺は自分の藁に戻って、横になった。
今度は、眠れた。
*
目を覚ますと、戸口の光が赤かった。
眠りすぎた。
奥の隅は、空いていた。帳面も、インク壺も、なかった。藁に、座っていた形のくぼみだけが残っていた。
夕方だ。言うのは、夕方だ。
堰へ急いだ。
堰の前に、灯が三つ並んでいた。水番と、鍬の男と、若い兄弟。地面には、ゆうべ水番が枝で引いた線の跡が、まだ薄く残っていた。
リアは、いなかった。
水番は、灯の前にしゃがんで、一つずつ面を手のひらで確かめていた。西の空を、一度だけ見上げた。西の低い所が、ぼんやり霞んでいた。
水番が、顔を上げた。
「誰が、どこだ」
鍬の男が、先に口を開いた。
「ゆうべと、ちょっと替えた。兄貴が灯の後ろだ。あの子は、置く灯の番」
水番は、鍬の男を見た。目が、集まった顔を順になぞった。
「……あいつは」
「言っておきます」
俺が言った。
水番が、俺を見た。
何も言わなかった。しばらく俺を見て、それから、暮れていく空を見た。西の端の赤が、もう薄くなっていた。
水番は、灯を一つ持ち上げた。
「行くぞ」
兄が、棒の束を肩に担いで、水番の後ろについた。鍬の男は村の側へ、弟は灯を一つ抱えて、置く場所へ歩きだした。
俺も、行かなければならなかった。端に杭を打つには、明るさの残っているうちでないといけない。暗くなってからでは、固い所が探せない。
歩きだしたところで、井戸のほうから、リアが来るのが見えた。帳面を胸に抱えて、急ぎ足だった。歩きながら、帳面の留め紐を結んでいる。まだ、こっちには気づいていない。
遠かった。呼べば、届く距離だった。
空の赤が、また一段、薄くなった。
俺は、置く灯のほうへ歩いていく弟に、声をかけた。
「リアが来たら、ここだって、言ってくれ」
「おう」
弟は、振り返らずに片手を上げた。
言っておく、と言った。弟に頼んだ。同じことだ。
暗くなる前に、杭を打たないといけない。
俺は、端へ向かった。
*
端に着いて、杭を打った。固い所を探して、木槌で沈める。索を巻いて、手首を二度返す。腰に回して、余りを一握り。
振り返った。
置いた灯が二つ、丸く光っていた。
近いほうの輪の中に、影が二つあった。弟と、リアだった。
弟が、何か言っていた。片手で、土手の先のほうを指している。持って歩く灯のほうだ。
リアは、立っていた。
帳面を胸に抱えたまま、動いていく灯のほうを見ていた。水番の灯は、土手の上をゆっくり遠ざかっていく。その後ろに、兄の影がついている。
リアは、長いこと、それを見ていた。
声は、ここまで届かなかった。蛙の声と、水の音だけがあった。
やがて、リアは、置いた灯の横に座った。膝の上に、帳面を開くのが見えた。
灯の輪の中だ。
あそこなら、追われたものは来ない。
日が落ちきると、輪の外は何も見えなくなった。
夜のあいだに、何度か、灯の後ろから大きな声がした。
「穴だ! 棒、立てとく!」
兄の声だった。そのたびに、遠くの灯が止まって、また動きだした。
声がするたびに、置いた灯の輪の中で、リアの頭が上がった。声のほうを向いて、また膝の上へ下りた。
声は、五回だった。数えていたのに、気づいたのは、五回目の後だった。
俺の持ち場では、掻く音は遠かった。近くで聞こえた気がして、索を握ったこともあった。すぐに、やんだ。
夜が更けると、星が、西のほうから少しずつ消えていった。雲が来ているのだろう。風は、なかった。背中の露が、ゆうべより重かった。
夜半を過ぎたころ、灯が一つ、こっちへ来た。
水番だった。灯を低く提げて、曲がった背のまま、俺の杭の前で止まった。兄は、離れた所で、棒を何本か抱えて待っていた。
水番は、灯で俺の足元の肩を照らした。新しい穴は、なかった。
水番は、置いた灯のほうを見た。輪の中に、小さく、座った影が見えた。
灯を下ろしたまま、水番が言った。
「……言ったのか」
俺は、少し考えた。
「弟に、頼みました」
水番は、何も言わなかった。
灯を持ち直して、来た道を戻っていった。兄が、その後ろについた。
水番は、何も言わなかった。
灯の輪が、土手の上を遠ざかって、置いた灯の輪の近くを通り過ぎた。輪と輪が、一瞬だけ重なった。
それで、いいのだと思った。
*
夜明けの土手を、リアが歩いていた。
堰のほうから、唇を小さく動かしながら、一歩ずつ。兄が立てた棒の所で止まって、帳面に書く。また歩きだす。
俺は、端の杭を抜いて、索を巻きながら、それを見ていた。
棒は、肩の上に五本、立っていた。リアは、五本目を過ぎても止まらなかった。そのまま歩いて、何歩か先で足を止めた。
しゃがんで、土手の肩を覗きこんだ。
穴だった。口のまわりの土に、新しい爪の跡がある。棒は、立っていなかった。
兄が、残りの棒を抱えて寄ってきた。立ててある棒を、一本抜こうとした。
「抜かないでください」
リアが言った。
「数えてからです」
兄は、手を引っこめて、棒の立っていない穴を覗きこんだ。
「見落としたか」
頭を掻いた。
「灯の後ろは、思ったより目が要るな」
「棒は、いくつ立てましたか」
リアが、顔を上げずに聞いた。
「五つだ」
リアは、帳面に書いた。
弟が、あくびをしながら、置いた灯を抱えてきた。
「ひと晩じゅう、隣で書いてるんだもんよ。寝られねえ」
兄が笑った。
「寝ても分かるって、言ってなかったか」
「書く音で、起きんだよ」
水番が、堰のほうから来た。リアの横に立って、開いた頁を見下ろした。
俺も、離れた所から、頁を見た。
字は読めない。けれど、印は見える。土手の線の上に、いつもの黒い点が一つ。今、見つけた穴の所だ。
その手前に、白い丸が五つ並んでいた。中を塗っていない、輪だけの丸だった。
頁の下のほうには、時刻らしい字と、短い線がいくつも書いてあった。弟の言う、ひと晩じゅうの分だろう。
水番が、白い丸の一つに指を置いた。
「その白い丸は」
「見ていない穴です」
リアが答えた。
「声で聞いた所を、朝、数えました」
水番は、しばらく頁を見ていた。
それから、顔を上げて、俺を見た。
長かった。
水番は、何も言わずに、目を西の空へ移した。
西の空が、低い灰色の雲で埋まっていた。土手の上を、湿った風が渡った。草の匂いが、重かった。
「……降るぞ」
水番は、それだけ言って、堰のほうへ戻っていった。
雨の話だ、と思った。空いていた肩の話だ。
俺は、リアの頁の、白い丸を見た。
見ていない。
リアは、ゆうべ、灯の輪の中にいた。あの歯を、見ずに済んだ。
見なくて、よかった、と思った。




