EP.40 道を空けろ
十四日の朝も、穴は輪の外にあった。
十五日も、十六日も、そうだった。灯の下の肩は、いつ見ても草が露で濡れているだけだった。穴は、灯と灯のあいだか、列の端の、光の届かない所に開いていた。
毎朝、籠の土を入れて、突き棒で突いた。とん、とん、と音が詰まるまで突いて、水番が口を押し固め、俺が杭を打つ。
右の手のひらのまめは、三日目に潰れた。しみるのをこらえて突いているうちに、皮が固くなった。今は、棒を握っても痛まない。
十八日は、休みの日だった。畑に人はいなかった。水番は、朝から土手にいた。俺も、いた。誰に言われたわけでもない。穴が、あったからだ。
リアは、毎朝、堰から歩数を数えて、穴の場所を書いた。直した日も書いた。夜は、道具小屋の奥で、その頁を清書していた。
二十一日の朝、穴を直し終えた水番の前に、リアが帳面を開いて差し出した。
村の分の頁だった。土手の線が一本、横に長く引いてある。その上に、灯の印が三つ。穴の印には、一つずつ小さな字が添えてある。日付だろう。
字は読めなくても、印の並びは分かった。
最初の何日かの穴は、灯と灯のあいだにあった。それが、日ごとに、列の端のほうへ移っていく。ゆうべの印は、いちばん端の灯から、ずいぶん離れた所にあった。
「灯の輪の中には、一つもありません」
リアが言った。
「十三日から、十四。全部、輪の外です。毎晩、端へ寄っています」
数を言うときの、はっきりした声だった。
水番は、帳面を受け取らなかった。リアの手の中の頁に、太い指を一本、置いた。いちばん端の印の上だった。
しばらく、そのまま見ていた。
「端へ、寄ってる」
水番は指を離して、土手の先を見た。列の端の灯から先は、明るい朝の中でも、ただの草の土手だった。
「今夜から、歩く」
灯を置く所が決められます、とリアは最初の日に言った。その頁が、今、水番の指の下にあった。
*
夕方、堰の前に、村の男が三人来た。
鍬の男と、まだ若い男が二人。若い二人は兄弟らしく、顔がよく似ていた。
水番は、小屋から灯を三つ抱えてきて、草の上に並べた。それから、落ちていた枝を拾って、地面に一本、長い線を引いた。土手だ。
「灯は、三つだ」
線の上に、枝の先で、印を二つ付けた。
「二つは、ここと、ここに置く。一つは、俺が持って歩く」
「下の三軒のは」
鍬の男が言った。下の集落に貸している、二つのことだ。
「下も、掘られてる」
鍬の男は、それ以上は言わなかった。
水番は、線の上の、印のない所を枝でなぞった。
「灯のない所は、座って聞け。掻く音が聞こえたら、灯を、と言え。俺が行く」
水番が、顔を上げた。
「誰が、どこだ」
「俺は、村の側だ」
鍬の男が、すぐに言った。若い二人は、顔を見合わせてから、置く灯の番をすると言った。弟のほうが「灯の横なら、寝ても分かるな」と言って、兄に肘でつつかれた。
俺は、地面の線の先を見た。いちばん端の印から、さらに先。リアの頁で、ゆうべの穴の印があった所だ。
「端へ、行きます」
水番が、俺を見た。
「いちばん下の、灯のない所です。杭と索があります。崩れそうな所は、確かめられます」
水番の目が、俺の肩の索に移った。三軒の集落の土手で、俺を止めた索だ。
「呼ぶときは、灯を、と言え」
それだけだった。
リアが、帳面を胸に抱えたまま、一歩前に出た。
「私は、持って歩く灯の後ろを行きます。掘られた所を、その場で書きます」
水番は、少し黙った。
「足元は、自分で見ろ」
「はい」
リアは、インク壺の蓋を確かめて、帳面の新しい頁を開いた。
俺は、肩の索を下ろして、端から端まで手で送った。ほつれた所は、ない。古い杭が二本。木槌は、道具小屋から持ってきた。
端は、俺の持ち場だ。杭と索がある俺が行けばいい。誰に言われたのでもない。俺が、決めた。
リアは、灯の後ろを選んだ。
灯の後ろなら、灯がある。
俺は、何も言わなかった。言うことでは、なかった。
*
日が沈むと、土手はすぐに暗くなった。
いちばん端の灯から、さらに百歩ほど下った所に、俺は座った。
振り返ると、置いた灯が二つ、小さな丸になって見えた。そのあいだを、もう一つの灯が、ゆっくり揺れながら動いていく。水番の灯だ。後ろに、リアがいるはずだった。ここからは、見えない。
前は、暗かった。
土手の肩も、その下の水も、草も、何も見えない。水の流れる細い音と、どこかの溝の蛙の声だけがある。
背中に、露が降りてきた。上着の上から、じわりと冷える。
夜の土手は、歩くな、と三軒の集落の男は言った。
今、俺は、夜の土手にいる。灯はない。見えない。
けれど、索がある。杭がある。
どれくらい座っていたのか、分からなくなったころ、蛙の声が、ふっと止まった。
その静かさの中に、別の音が混じった。
乾いた土を、細かく掻く音だった。
一つでは、なかった。二つか、三つ。ずれながら、重なっている。
自分の息の音が、やけに大きく聞こえた。
どこだ。前か。右か。音は、暗さのどこからでも聞こえる気がした。
まだ、灯を呼べない。どこか分からないまま呼んでも、水番が迷うだけだ。
手探りで、背中の側の、踏み固められた所を探した。固い。杭を立てて、木槌で打った。音が、暗い土手に響いた。掻く音が、一度止まった。
また、始まった。
杭に索を巻いた。手首を、二度返す。反対の端を、腰に回して結ぶ。余りを、一握り。
立ち上がって、音のするほうへ、土手の肩に片足を出した。体重を、少しずつ乗せる。
一歩目は、保った。
二歩目も、保った。
三歩目で、足の下の土が、わずかに沈んだ。
崩れはしなかった。ただ、踏んだ所の下が、柔らかく、ふわりと受けた。
中が、空いている。
足を、引いた。
腰の索を手繰りながら、杭のところまで戻った。もう一本の杭を、沈んだ所の手前に打って、印にした。
掻く音が、すぐ近くでした。足元の、暗い肩の下からだった。
「灯を!」
声が、土手の上を走った。
遠くの灯が、揺れた。こっちへ、動きはじめた。
*
灯は、思ったより速く近づいてきた。
水番の曲がった背が、灯を低く提げて、土手の上を来る。その後ろで、リアの帳面の白い頁が、ときどき白く浮いた。
光の輪が、土手の肩を這って、俺の打った杭まで届いた。
その縁に、影が浮いた。
一つではなかった。二つ、三つ。肩の斜面に、低く伏せた影が、四つか、五つ。
猫くらいのものも、小さな犬くらいのものもいた。体は低く、平たい。土の色の毛が、輪の縁で鈍く光っている。前足だけが太く、その先に長い爪があった。
目が、光を返した。小さな丸い光が、いくつも、こっちを向いた。
次の瞬間、影が散った。
穴へもぐりこむもの。斜面を水際へ駆け下りるもの。水音が、ぱしゃ、と二度した。
遠くで、鍬の男の声がした。
「出たか、魔物!」
一匹だけが、残っていた。
灯と、水のあいだだった。斜面の途中で、上には灯がある。下は、すぐ水だ。逃げる所がない。
そいつが、身を低くした。
灯の脇で、リアがしゃがんでいた。肩の縁の、いちばん近い穴の口に、印を書きかけていた。
そいつの顔が、リアのほうを向いた。
口が開いた。細くて白い歯が、輪の縁で光った。
しゅっ、と短い息の音がした。
「動くな」
水番の声だった。
リアの手が、帳面の上で止まった。
誰も、動かなかった。
「下がれ。道を、空けろ」
リアが、しゃがんだまま、一歩下がった。それから、もう一歩。水番が、灯を後ろへ引いた。
斜面の上に、暗い筋が一本できた。
そいつは、その筋に飛びこんだ。リアのくるぶしの、すぐ横を抜けて、暗がりへ走った。
草の擦れる音が、少し先で止まった。
気がつくと、俺の足は、前に出ていた。
腰の索が、張っていた。杭のところで、ぴんと張って、俺をそこに止めていた。
水番が、灯を持ち直した。
「追い詰めりゃ、噛む。道を空けりゃ、行く」
誰に言うでもない声だった。
水番は、灯を低くして、俺の打った杭のほうへ向けた。
肩の斜面に、穴の口がいくつも並んでいた。どの穴も、斜めに奥へ続いている。水番が灯をかざして、穴の奥を覗いた。
「……中が、空いてる」
穴と穴が、土の中でつながっているのだろう。さっき、足の下でふわりと受けたのは、これだった。
水番は、空を見上げた。星が出ていた。
「雨が来たら、ここからだ」
リアは立ち上がって、帳面を開き直した。並んだ穴の口と、さっきの一匹が走っていった暗がりのほうを、順に見て、ペンを動かした。
*
空が白んでくると、土手の草に、色が戻ってきた。
空いた肩に、籠で土を運んだ。村の側から、鍬の男と若い二人も下りてきた。穴の口から土を入れ、突き棒で突く。一つの穴に入れた土が、隣の穴の口から、ぼろりとこぼれた。やはり、中でつながっていた。
突いた。とん、とん、と音が詰まるまで。
手のひらは、もう痛まなかった。腰だけが、ひりひりした。ゆうべ、索が張った所だ。
鍬の男が、籠を下ろしながら言った。
「見たか、あれ」
「見ました」
「噛まれなかったんなら、上等だ」
水番は、空いていた肩に杭を三本打たせた。詰めた土を、手のひらで押し固めて、空を見上げた。雲は、なかった。水番は、何も言わなかった。
リアは、帳面を開いて、水番に見せていた。上着の裾が、夜露で黒く濡れていた。一晩じゅう、灯の後ろで、しゃがんでは立ち、しゃがんでは立っていたのだろう。
「あの穴へ、入りました」
指さしたのは、肩の五歩ほど先の、小さな穴だった。口のまわりの土に、新しい爪の跡がある。水番は、その穴を見て、うなずいた。
俺は、突き棒を握ったまま、リアの足元を見ていた。くるぶしの高さの草が、露で濡れていた。
ゆうべ、あの歯は、リアのくるぶしのすぐ横を抜けていった。
灯の後ろなら、灯がある、と思っていた。
けれど、あれは、灯に追われて、灯の後ろを抜けていった。
リアに、何か言おうとした。口を開きかけて、何を言えばいいのか分からなくて、閉じた。
リアは、頁に何か書き足していた。こっちは、見なかった。
明けていく土手の上で、置いた灯の丸い光が、一つずつ薄くなっていった。
明るい所のほうが、危ないのかもしれなかった。




