EP.39 装置の調子
灯の下には、穴がなかった。
夜明けの土手を、水番の後ろについて歩いた。ゆうべ置いた三つの灯は、まだ点いていた。けれど、光はずいぶん痩せていた。中の石が、朝の明るさに負けそうな色で光っている。
灯の下の土手の肩は、ゆうべのままだった。草が露で濡れているだけで、土には何の跡もない。
二つ目の灯と三つ目の灯のあいだで、水番が足を止めた。
土手の肩に、新しい穴が一つ開いていた。口のまわりに、湿った土が盛り上がっている。その土に、細い爪の跡が何本も残っていた。
水番は、二つの灯を順に見た。それから、穴を見た。
「輪の、外だ」
ゆうべ、日が沈んだあとの灯を思い出した。草の上にできた、丸い明るい輪。輪の外は、すぐに暗くなっていた。
そこを、掘られた。
灯は、効いていた。足りないのは、灯の数だ。村に五つ。ここにあるのは、三つ。
水番が、小屋から籠と棒を持ってきた。棒は腕ほどの太さで、先が丸くすり減っている。
「土を入れたら、これで突け」
水番が指さした所の土を籠に取って、穴の口から流しこんだ。半分ほど入ったところで、棒を渡された。
突いた。土が、穴の奥へ沈んだ。
「詰めるだけじゃ、駄目だ。奥まで、突け」
棒を深く入れ直して、もう一度突いた。手応えが、少し重くなった。一籠入れて、突く。また一籠入れて、突く。
突くたびに、土の音が低くなっていった。最初はぼそぼそと崩れる音だったのが、だんだん、とん、とん、と詰まった音に変わる。
締まった音だ、と思った。
最後の一籠を突き終えると、水番が膝をついて、穴の口を大きな手のひらで押し固めた。昨日の朝に見た手つきだった。
「杭を」
穴の脇の肩に、杭を打った。小屋に木槌があったから、今日は石ではない。打つたびに、手のひらがじんとした。三本目を打ち終えたとき、右の手のひらの、指の付け根に、まめが一つできていた。
リアは、穴から離れた土手の上に立っていた。
堰のほうから、歩いてきたらしい。唇が、まだ小さく動いていた。帳面を開いて、ペンを走らせる。
水番が、膝を払って立ち上がった。
「歩数か」
「堰から、数えました」
リアは、帳面から顔を上げずに答えた。
点線を描いてきたのと、同じ数え方だった。見取図のための歩数が、今は、穴の場所になっている。
水番は、それ以上は何も言わなかった。次の灯のほうへ、土手を歩いていった。
*
昼は、土手の上で食べた。
前掛けの女が、包みを提げて土手を上がってきた。昨日、俺の板を読んだ人だ。包みの中は、豆を煮たのと、パンだった。
「じいさんの分は、ここに置いとくよ」
女は、包みを一つ、草の上の脇に置いた。
水番は、堰のほうにいた。板の具合を見ているらしく、曲がった背中が遠くで動いていた。こっちへ来る様子はなかった。
畑のほうから、男が一人上がってきた。昨日、家の前で鍬の柄を直していた男だ。女の包みから、パンを一つ勝手に取った。
「じいさんの手間か。銭も出ねえのに、物好きだな」
「飯は、出ます」
男は、声を上げて笑った。
「鍛冶のじいさんの飯は、豆ばっかりだぞ」
豆を口に入れたところだった。噛みながら、ゆうべの子どもの声を思い出していた。板に、そう出てんだって。
「……鍛冶って、本当なんですか」
聞いてから、パンをちぎった。
「板にはね」
女が言った。
「若いころ、ハルムで測ったら、そう出たんだって」
「ハルム」
「町さ。読取所がある。ここには、ないよ」
男が、パンをかじりながら肩をすくめた。
「装置の調子だろう。あの人が槌を持つのは、杭を打つときだけだ」
「測り直しゃいいのにねえ。ハルムは、遠いから」
二人とも、笑いながら言っていた。悪く言う声ではなかった。天気の話をするときの声だった。
ペンの音が、止まった。
隣で、リアが帳面を膝に開いていた。午前の穴の場所を、書き足していたらしい。そのペンが、紙から浮いたまま、止まっていた。
リアは、帳面を閉じなかった。けれど、何も書かなかった。
聞いたことは、帳面に。リアは、ずっとそうしてきた。近くの村で、農夫の息子から堰の村の話を聞いたときも、帳面の後ろの頁に書いていた。
今は、書かなかった。
なぜかは、分からなかった。
堰のほうで、水番が板を一段動かした。水の落ちる音が、変わった。
*
日が傾いて、手間が終わった。
木槌と残りの杭を道具小屋へ戻しに行く途中で、リアが堰のほうへ歩いていくのが見えた。
水番は、堰の板を下ろしていた。夜の分に、一段。大きな手が板の縁をつかんで、木の溝に沿ってゆっくり沈める。板の上を越える水の音が、細くなった。
リアは、水番の横で立ち止まった。
俺は、杭を抱えたまま、少し離れた所で足を止めた。呼ばれてはいない。
「お願いが、あります」
水番が、板から手を離した。
「あなたの板を、写させてください」
水番は、すぐには答えなかった。リアの顔を見て、それから胸の帳面を見た。
「……見て、どうする」
「板は、ほかの人が読みます」
リアの声は、いつもと同じだった。
「あなたの、いない所で」
腕の中で、杭が小さく鳴った。
昼に聞いたのは、俺だった。
「写すのは、あなたが、いいと言った所だけです」
水番は、堰の水を見た。
「書いても、水は同じに来る」
「はい」
リアは、うなずいた。
「でも、板を読む人は、水を見ません」
水番は、長いこと黙っていた。板の縁から水の落ちる音だけが、細く続いていた。
やがて、水番は懐に手を入れた。
出てきた板は、古かった。角がすり減って、丸くなっている。水番は読み取り面を開いて、リアのほうへ向けた。
「……読め」
リアが、顔を寄せた。目が、いちばん上の行で一度止まって、その下へ移った。名前の行だろう。リアは、そこを読まなかった。
「職業、鍛冶。測定、三六〇年。ハルム」
読んだのは、その一行だった。
「再検査前、とは、書いてありません」
「何だ、それは」
「測り直す前だ、という字です。私の前の板には、ありました」
水番の目が、リアの胸のあたりへ動いた。
リアは、上着の胸に手を入れた。前掛けの女に板を聞かれて、胸で止まった手だった。板を出して、読み取り面を開いた。
「私のも、見せます」
水番が、曲がった背をさらに曲げて、覗きこんだ。
「……字が、ねえな」
「線です。板と器具を替えて、二度、測りました。どの型にも当てはまらない、と、二度とも」
水番は、しばらくその線を見ていた。
「……なら、そっちは、合ってる」
「あなたのは」
「鍛冶だ」
リアの口の端が、ほんの少しだけ動いた。
リアは板をしまって、帳面の新しい頁を開いた。頁の真ん中に、縦に一本、線を引いた。
「水番は、いつから」
「四十年になる」
「その前は」
「前の水番の、手伝いだ。板を測ったのは、そのころだ。二十のときだ。ハルムで、一度きりだ」
「鍛冶の仕事は」
「鍛冶場には、立ったこともねえ」
水番は、堰の板の縁を、指でなぞった。
「係が、首をひねった。器具を見て、手の当て方かもしれん、と言った。何か書いて、それきりだ」
「それから」
「測り直すなら、また来い、と言われた」
「行きましたか」
「堰は、待たん」
リアのペンが、縦の線の左に板の行を書き、右に水番の言ったことを書いていった。
手の当て方。
昨日の夕方、この人は、灯の面に手を平らに当てて、一度で点けた。俺は、荷揚げ場で、三度目だった。
それが何なのかは、分からない。分からないまま、堰の板の縁に置かれた手を見ていた。
*
リアは、書き終えた頁を見て、顔を上げた。
「四十年のほうは、どこに、書いてありますか」
「書いてねえ」
水番は、すぐに答えた。
黙ったまま、堰の脇へ歩いていった。
そこに、古い木の柱が一本立っていた。
朝から、何度も目に入っていた柱だった。堰の脇の土手に打ちこまれた、灰色に乾いた太い柱だ。ただの杭だと思っていた。
近くで見ると、柱の水の側に、横の筋が刻んであった。ナイフで深く切りこんだ筋が、五つ。切り口の色が、筋ごとに違った。明るいのもあれば、黒ずんだのもある。
いちばん上の筋は、俺の胸の高さにあった。
「大水の年だ」
水番の指が、いちばん下の筋に置かれた。年を言った。リアのペンが動いた。指が一つ上の筋へ移って、また年を言った。リアのペンが、また動いた。
指は、上へ、上へと移っていった。
いちばん上の筋で、止まった。
「三八七年だ。水が、ここまで来た」
柱の根元から、俺の胸の高さまで。
堰の水を見た。今は、板の縁から細く落ちているだけの水だ。この水があの筋まで来た日を、俺は、うまく思い描けなかった。
「刻んだのは、俺だ。前の水番は、刻まなかった」
リアは、柱の形を描いた。筋の高さを、柱の根元から手のひらの幅で測って、一つずつ写した。年を、その横に書いた。
「写しを、一枚、作ります。あなたの分です」
「要らん」
リアは、それ以上は言わなかった。けれど、写す手は休めなかった。
最後の年を書き終えて、リアは柱を見上げた。
「ハルムで、同じことを言われた人は、ほかにも、いますか」
水番は、柱から手を離した。
「知らん」
土手の上を、風が渡った。
「そういう話は、誰もしねえ」
水番は、小屋のほうへ歩きだした。灯を出す時刻だった。
「装置の調子、で済むからな」
背中のまま、そう言った。
上流の詰所の男なら、この板は、通しただろう。
……字は、あるな、と言って。
リアの線は、止められた。
*
夕飯は、水番の家で、昼の豆の残りを入れた粥だった。水番は、やはりほとんど口をきかなかった。
道具小屋に戻ると、リアは奥の隅で、借りた灯の下に帳面を開いた。今日の頁を、清書しているらしかった。ペンの音が、小さく続いていた。
俺は、戸口の側の藁に座って、右の手のひらを見た。まめは、潰れかけていた。明日も、あの棒を持つ。
戸口の外に、土手の灯が三つ並んで見えた。今夜は、水番と二人で置いた。灯と灯のあいだを、ゆうべより少し詰めた。そのぶん、端の暗い所が長くなった。
どこかの溝で、蛙が鳴いていた。
足音がした。
土を踏む、重い足音だった。戸口に、影が立った。
水番だった。
この小屋まで来たのは、初めてだった。曲がった背のまま、戸口の柱に手をかけて、中には入ってこなかった。
リアが、顔を上げた。
「いちばん上の刻みは、三八七じゃねえ」
水番は、リアのほうを見ないで言った。
「三八六だ」
少し、間があった。
「……数え直した」
それだけ言って、水番は戸口から離れた。足音が、土手の灯のほうへ遠ざかっていった。
見取図の溝を直したときと、同じ声だった。
戸口から見ていると、水番の背中が、一つ目の灯の輪に入って、また暗がりに出た。二つ目の輪の中で、足が止まった。灯の具合を見ているらしかった。
俺は、何か言おうとして、やめた。リアの頁のことは、リアと水番のことだ。
リアは、しばらく戸口の暗がりを見ていた。それから、帳面の頁を戻した。柱の絵の、いちばん上の筋の横。そこに書いた字の上に、細い横線を二本引いた。その横に、小さく書いた。
リアのペンは、今度は、止まらなかった。




