↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/51

EP.39 装置の調子

灯の下には、穴がなかった。


夜明けの土手を、水番の後ろについて歩いた。ゆうべ置いた三つの灯は、まだ点いていた。けれど、光はずいぶん痩せていた。中の石が、朝の明るさに負けそうな色で光っている。


灯の下の土手の肩は、ゆうべのままだった。草が露で濡れているだけで、土には何の跡もない。


二つ目の灯と三つ目の灯のあいだで、水番が足を止めた。


土手の肩に、新しい穴が一つ開いていた。口のまわりに、湿った土が盛り上がっている。その土に、細い爪の跡が何本も残っていた。


水番は、二つの灯を順に見た。それから、穴を見た。


「輪の、外だ」


ゆうべ、日が沈んだあとの灯を思い出した。草の上にできた、丸い明るい輪。輪の外は、すぐに暗くなっていた。


そこを、掘られた。


灯は、効いていた。足りないのは、灯の数だ。村に五つ。ここにあるのは、三つ。


水番が、小屋から籠と棒を持ってきた。棒は腕ほどの太さで、先が丸くすり減っている。


「土を入れたら、これで突け」


水番が指さした所の土を籠に取って、穴の口から流しこんだ。半分ほど入ったところで、棒を渡された。


突いた。土が、穴の奥へ沈んだ。


「詰めるだけじゃ、駄目だ。奥まで、突け」


棒を深く入れ直して、もう一度突いた。手応えが、少し重くなった。一籠入れて、突く。また一籠入れて、突く。


突くたびに、土の音が低くなっていった。最初はぼそぼそと崩れる音だったのが、だんだん、とん、とん、と詰まった音に変わる。


締まった音だ、と思った。


最後の一籠を突き終えると、水番が膝をついて、穴の口を大きな手のひらで押し固めた。昨日の朝に見た手つきだった。


「杭を」


穴の脇の肩に、杭を打った。小屋に木槌があったから、今日は石ではない。打つたびに、手のひらがじんとした。三本目を打ち終えたとき、右の手のひらの、指の付け根に、まめが一つできていた。


リアは、穴から離れた土手の上に立っていた。


堰のほうから、歩いてきたらしい。唇が、まだ小さく動いていた。帳面を開いて、ペンを走らせる。


水番が、膝を払って立ち上がった。


「歩数か」


「堰から、数えました」


リアは、帳面から顔を上げずに答えた。


点線を描いてきたのと、同じ数え方だった。見取図のための歩数が、今は、穴の場所になっている。


水番は、それ以上は何も言わなかった。次の灯のほうへ、土手を歩いていった。


  *


昼は、土手の上で食べた。


前掛けの女が、包みを提げて土手を上がってきた。昨日、俺の板を読んだ人だ。包みの中は、豆を煮たのと、パンだった。


「じいさんの分は、ここに置いとくよ」


女は、包みを一つ、草の上の脇に置いた。


水番は、堰のほうにいた。板の具合を見ているらしく、曲がった背中が遠くで動いていた。こっちへ来る様子はなかった。


畑のほうから、男が一人上がってきた。昨日、家の前で鍬の柄を直していた男だ。女の包みから、パンを一つ勝手に取った。


「じいさんの手間か。銭も出ねえのに、物好きだな」


「飯は、出ます」


男は、声を上げて笑った。


「鍛冶のじいさんの飯は、豆ばっかりだぞ」


豆を口に入れたところだった。噛みながら、ゆうべの子どもの声を思い出していた。板に、そう出てんだって。


「……鍛冶って、本当なんですか」


聞いてから、パンをちぎった。


「板にはね」


女が言った。


「若いころ、ハルムで測ったら、そう出たんだって」


「ハルム」


「町さ。読取所がある。ここには、ないよ」


男が、パンをかじりながら肩をすくめた。


「装置の調子だろう。あの人が槌を持つのは、杭を打つときだけだ」


「測り直しゃいいのにねえ。ハルムは、遠いから」


二人とも、笑いながら言っていた。悪く言う声ではなかった。天気の話をするときの声だった。


ペンの音が、止まった。


隣で、リアが帳面を膝に開いていた。午前の穴の場所を、書き足していたらしい。そのペンが、紙から浮いたまま、止まっていた。


リアは、帳面を閉じなかった。けれど、何も書かなかった。


聞いたことは、帳面に。リアは、ずっとそうしてきた。近くの村で、農夫の息子から堰の村の話を聞いたときも、帳面の後ろの頁に書いていた。


今は、書かなかった。


なぜかは、分からなかった。


堰のほうで、水番が板を一段動かした。水の落ちる音が、変わった。


  *


日が傾いて、手間が終わった。


木槌と残りの杭を道具小屋へ戻しに行く途中で、リアが堰のほうへ歩いていくのが見えた。


水番は、堰の板を下ろしていた。夜の分に、一段。大きな手が板の縁をつかんで、木の溝に沿ってゆっくり沈める。板の上を越える水の音が、細くなった。


リアは、水番の横で立ち止まった。


俺は、杭を抱えたまま、少し離れた所で足を止めた。呼ばれてはいない。


「お願いが、あります」


水番が、板から手を離した。


「あなたの板を、写させてください」


水番は、すぐには答えなかった。リアの顔を見て、それから胸の帳面を見た。


「……見て、どうする」


「板は、ほかの人が読みます」


リアの声は、いつもと同じだった。


「あなたの、いない所で」


腕の中で、杭が小さく鳴った。


昼に聞いたのは、俺だった。


「写すのは、あなたが、いいと言った所だけです」


水番は、堰の水を見た。


「書いても、水は同じに来る」


「はい」


リアは、うなずいた。


「でも、板を読む人は、水を見ません」


水番は、長いこと黙っていた。板の縁から水の落ちる音だけが、細く続いていた。


やがて、水番は懐に手を入れた。


出てきた板は、古かった。角がすり減って、丸くなっている。水番は読み取り面を開いて、リアのほうへ向けた。


「……読め」


リアが、顔を寄せた。目が、いちばん上の行で一度止まって、その下へ移った。名前の行だろう。リアは、そこを読まなかった。


「職業、鍛冶。測定、三六〇年。ハルム」


読んだのは、その一行だった。


「再検査前、とは、書いてありません」


「何だ、それは」


「測り直す前だ、という字です。私の前の板には、ありました」


水番の目が、リアの胸のあたりへ動いた。


リアは、上着の胸に手を入れた。前掛けの女に板を聞かれて、胸で止まった手だった。板を出して、読み取り面を開いた。


「私のも、見せます」


水番が、曲がった背をさらに曲げて、覗きこんだ。


「……字が、ねえな」


「線です。板と器具を替えて、二度、測りました。どの型にも当てはまらない、と、二度とも」


水番は、しばらくその線を見ていた。


「……なら、そっちは、合ってる」


「あなたのは」


「鍛冶だ」


リアの口の端が、ほんの少しだけ動いた。


リアは板をしまって、帳面の新しい頁を開いた。頁の真ん中に、縦に一本、線を引いた。


「水番は、いつから」


「四十年になる」


「その前は」


「前の水番の、手伝いだ。板を測ったのは、そのころだ。二十のときだ。ハルムで、一度きりだ」


「鍛冶の仕事は」


「鍛冶場には、立ったこともねえ」


水番は、堰の板の縁を、指でなぞった。


「係が、首をひねった。器具を見て、手の当て方かもしれん、と言った。何か書いて、それきりだ」


「それから」


「測り直すなら、また来い、と言われた」


「行きましたか」


「堰は、待たん」


リアのペンが、縦の線の左に板の行を書き、右に水番の言ったことを書いていった。


手の当て方。


昨日の夕方、この人は、灯の面に手を平らに当てて、一度で点けた。俺は、荷揚げ場で、三度目だった。


それが何なのかは、分からない。分からないまま、堰の板の縁に置かれた手を見ていた。


  *


リアは、書き終えた頁を見て、顔を上げた。


「四十年のほうは、どこに、書いてありますか」


「書いてねえ」


水番は、すぐに答えた。


黙ったまま、堰の脇へ歩いていった。


そこに、古い木の柱が一本立っていた。


朝から、何度も目に入っていた柱だった。堰の脇の土手に打ちこまれた、灰色に乾いた太い柱だ。ただの杭だと思っていた。


近くで見ると、柱の水の側に、横の筋が刻んであった。ナイフで深く切りこんだ筋が、五つ。切り口の色が、筋ごとに違った。明るいのもあれば、黒ずんだのもある。


いちばん上の筋は、俺の胸の高さにあった。


「大水の年だ」


水番の指が、いちばん下の筋に置かれた。年を言った。リアのペンが動いた。指が一つ上の筋へ移って、また年を言った。リアのペンが、また動いた。


指は、上へ、上へと移っていった。


いちばん上の筋で、止まった。


「三八七年だ。水が、ここまで来た」


柱の根元から、俺の胸の高さまで。


堰の水を見た。今は、板の縁から細く落ちているだけの水だ。この水があの筋まで来た日を、俺は、うまく思い描けなかった。


「刻んだのは、俺だ。前の水番は、刻まなかった」


リアは、柱の形を描いた。筋の高さを、柱の根元から手のひらの幅で測って、一つずつ写した。年を、その横に書いた。


「写しを、一枚、作ります。あなたの分です」


「要らん」


リアは、それ以上は言わなかった。けれど、写す手は休めなかった。


最後の年を書き終えて、リアは柱を見上げた。


「ハルムで、同じことを言われた人は、ほかにも、いますか」


水番は、柱から手を離した。


「知らん」


土手の上を、風が渡った。


「そういう話は、誰もしねえ」


水番は、小屋のほうへ歩きだした。灯を出す時刻だった。


「装置の調子、で済むからな」


背中のまま、そう言った。


上流の詰所の男なら、この板は、通しただろう。


……字は、あるな、と言って。


リアの線は、止められた。


  *


夕飯は、水番の家で、昼の豆の残りを入れた粥だった。水番は、やはりほとんど口をきかなかった。


道具小屋に戻ると、リアは奥の隅で、借りた灯の下に帳面を開いた。今日の頁を、清書しているらしかった。ペンの音が、小さく続いていた。


俺は、戸口の側の藁に座って、右の手のひらを見た。まめは、潰れかけていた。明日も、あの棒を持つ。


戸口の外に、土手の灯が三つ並んで見えた。今夜は、水番と二人で置いた。灯と灯のあいだを、ゆうべより少し詰めた。そのぶん、端の暗い所が長くなった。


どこかの溝で、蛙が鳴いていた。


足音がした。


土を踏む、重い足音だった。戸口に、影が立った。


水番だった。


この小屋まで来たのは、初めてだった。曲がった背のまま、戸口の柱に手をかけて、中には入ってこなかった。


リアが、顔を上げた。


「いちばん上の刻みは、三八七じゃねえ」


水番は、リアのほうを見ないで言った。


「三八六だ」


少し、間があった。


「……数え直した」


それだけ言って、水番は戸口から離れた。足音が、土手の灯のほうへ遠ざかっていった。


見取図の溝を直したときと、同じ声だった。


戸口から見ていると、水番の背中が、一つ目の灯の輪に入って、また暗がりに出た。二つ目の輪の中で、足が止まった。灯の具合を見ているらしかった。


俺は、何か言おうとして、やめた。リアの頁のことは、リアと水番のことだ。


リアは、しばらく戸口の暗がりを見ていた。それから、帳面の頁を戻した。柱の絵の、いちばん上の筋の横。そこに書いた字の上に、細い横線を二本引いた。その横に、小さく書いた。


リアのペンは、今度は、止まらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。