EP.38 水番
目を開けると、畑が白かった。
朝露だった。麦の穂先にも、木の根元の草にも、細かい水の粒が乗っている。膝の上の索が、しっとりと湿っていた。
木の反対側で、リアが包みから顔を上げた。
夜のあいだ、音は何度か止まって、また始まった。いつ止んだのかは、覚えていない。
二人で、土手のほうへ歩いた。
ゆうべ音がしたあたりの土手に、人がいた。
老人だった。痩せて、背が曲がっている。土手の肩に片膝をついて、何かを両手で押していた。
近づくと、穴だった。
土手の肩に、新しい穴が二つ開いていた。口のまわりに、掘り出された土がまだ湿って積もっている。老人は、その土を大きな手のひらで穴の口へ押しこんで、上から叩いて固めていた。それから、腰に差していた細い棒を一本抜いて、穴の横の土に立てた。
老人は、振り向かなかった。
「夜の土手を、歩かなかったか」
低い、かすれた声だった。
「歩いてません」
「なら、いい」
老人は、二つ目の穴の口を押しはじめた。手のひらが、土の上で何度も往復する。指の節が、太くて、曲がっていた。
「堤掘りだ」
穴を見たまま、老人が言った。
「村の者は、魔物と言う」
昨夜の音は、これだった。見たやつはいねえ、と三軒の集落の男は言った。この人も、見たとは言わなかった。名前だけを、穴に向かって言った。
二つ目の穴に棒を立て終えると、老人は膝を払って立ち上がった。俺の肩の索と、手に提げた杭に目をやった。
「その索は」
「土手を、確かめるのに」
老人は、それには何も言わなかった。リアの胸の帳面を見て、それから堰のほうへ顎を上げた。
「水番だ」
それだけ言って、土手の上を歩きはじめた。
穴の口を押していた手が、目に残った。大きくて、指の節が太く曲がっている。何十年も、重いものを上げ下げしてきた手だ、と思った。
*
堰は、近くで見ると、思ったより低かった。
厚い板が何枚も縦に差しこまれていて、その両脇を石が支えている。細い水路の水は、板の手前で溜まって、板の縁から細く落ちていた。落ちた水は、すぐに三つ、四つの溝に分かれて、畑のあいだへ広がっていく。
古い水路の、終わりだった。
水番は、堰の端の板に両手をかけた。大きな手が板の縁をつかみ、背を曲げたまま、ぐっと引き上げる。板が一段だけ上がって、木の溝に掛かった。板の下から、水が少し多く流れ出した。右の溝へ流れる音が、太くなった。
「右の畑が、乾いてる」
誰に言うでもなかった。指の節の太い手は、それでもう板から離れていた。
リアは堰の前で立ち止まり、帳面を膝に乗せて、新しい紙を広げた。ゆうべ、堰の手前で止めた線がある。その先に、ペンを置いた。
ペンが、紙の上を少しだけ動いた。堰の形を、短い線で描く。板と、石。
それから、止まった。
点線は、ここで終わる。
リアは、しばらく紙を見ていた。
水番が、堰の板の具合を手で確かめながら、こっちを見た。
「何を描いてる」
リアが、顔を上げた。
「見取図です。点線だった所を、上流点検水門の下から、描いてきました」
水番の目が、少しだけ動いた。
「……下の水門からか。四日は、かかる」
「五日です。描きながらなので」
水番は、何も言わずにリアの横へ来た。曲がった背をさらに曲げて、紙を覗きこむ。大きな指が、線の上をゆっくりたどった。堰から、下へ。曲がりを一つ、二つ。
指が、一か所で止まった。
「ここの溝は、去年の秋に埋めた」
リアの手が、止まった。
「いつ、ですか」
「秋の終わりだ。畑を広げるのに、埋めた」
リアは、ペンをインク壺に浸した。描いてあった溝の線の上に、細い横線を二本引いた。その横に、小さな字を書き足した。
「……書き直しました」
水番は、もう一度だけ紙を見て、うなずきもしないで堰へ戻った。
リアは、堰の印の横に、もう一つ字を書いた。日付だろう、と思った。
橋の石段で、点線は紙の端で切れていた。その終わりが、ここだった。
リアは、喜ぶ顔をしなかった。直された一本の線を、最後まで丁寧に描き直していた。
描き直すのも、リアの地図のうちなのだ、と思った。
*
村は、静かだった。
休みの日で、畑に人はいない。家の前で鍬の柄を直している男がいて、井戸のそばで女が洗濯物を絞っていた。子どもが二人、道を走っていった。
水番だけが、休みの日の顔をしていなかった。
「水は、休まん」
誰に言うでもなく、そう言った。
水番の小屋は、堰の脇にあった。その隣に、もう一つ、板壁の小屋がある。
小屋の前で、洗濯物を絞っていた女が、こっちを見た。前掛けで手を拭いて、近づいてくる。
「あんたら、板は」
知らない顔が二人、休みの日の朝に、水番と一緒に村へ入ってきたのだ。聞かれて当たり前だった。
俺は、懐から板を出して、読み取り面を開いた。女は顔を寄せて、目を細めた。
「……未測定、か」
隣で、リアの手が動いた。上着の胸に手を入れかけて、そこで止まった。
水番が、女と俺たちのあいだに、一歩出た。
「板で、土手は直らん」
それから、俺のほうを向いた。
「手を見せろ」
俺は、板をしまって、両手を出した。水番は、大きな手で俺の手を取り、手のひらを上に向けた。索の擦れ跡。杭のささくれの、小さな赤い点。
水番は、次にリアを見た。リアは、胸から手を出して、そのまま両手を差し出した。左手の親指に、落ちないインクの跡がある。
水番は、それを少し長く見た。
「杭は、打てるか」
俺に聞いた。
「杭なら、打てます」
「明日から、土手だ。銭は出ねえ。飯と、寝る所は、出す」
「お願いします」
リアの手が胸で止まったことを、俺は見ていた。何も言わなかった。リアの板のことは、リアが決める。
リアが、帳面を胸に抱え直した。
「穴の場所を、書きましょうか。直した日も」
水番が、リアを見た。
「書いても、水は同じに来る」
「穴の場所が分かれば、灯を置く所が決められます」
水番は、しばらく黙っていた。堰のほうから、水の落ちる細い音がしていた。
「……書くなら、書け」
「写しを、一枚、私にも」
「好きにしろ」
女が、少し笑った。
寝る所は、隣の板壁の小屋だった。鍬と、堰の替えの板と、古い杭が立てかけてある道具小屋だ。リアは奥の隅に、俺は戸口の側に、藁を分けて敷いた。
板で土手は直らん、とこの人は言った。カーヴェルの船着場の係も、上流の詰所の男も、板を見た。この人は、手を見た。
*
夕方、水番が小屋の奥から作業灯を出してきた。
三つ。どれも古く、木の枠が手の脂で黒く光っている。
「村に、五つある。二つは、下の三軒に貸してる」
三つを持って、土手へ出た。朝、穴の口を押し固めた所。棒が二本、立っている。
水番は、灯を穴の横には置かなかった。土手の肩の、少し高い所に置いた。
「穴の横じゃねえ。上だ。肩に、光が落ちるように」
リアが、帳面から顔を上げた。
「光が届かない所は、どうなりますか」
「掘られる。届く所は、掘られねえ。だから、弱い所の上に置く」
リアは、それを書いた。
水番は、少し離れた、土の縁が低い所にもう一つ置いた。そこも、縁の上の、肩の高い所だった。
水番は、灯の面に手を平らに当てた。しばらくして、中の石が光った。三つ数えるほどの間を置いて、手を離す。光は、消えなかった。
三つ目の灯の前で、水番は俺を見た。
「点けてみろ」
灯の前にしゃがんだ。
手を、平らに当てる。指が浮かないように。板が、手のひらに吸いついてくるのを待つ。
じわりと、吸いついた。
中の石が、光った。一つ、二つ、三つ。手を離した。
光は、残った。
水番は、灯を見て、それから俺の手を見た。
「……点くな」
それだけだった。
荷揚げ場で、最初に点けた灯だ。三度目で、ようやく安定した。あのときは、奥の棚の札を見るためだった。
今は、土手を掘られないためだ。
同じ手の当て方で、違う所を照らしている。
リアは、灯から少し離れた所に立って、帳面の新しい頁を開いていた。見取図ではなく、村の分の頁だった。土手の線を一本引いて、その上に、灯を置いた所と、棒の立っている所に、小さな印を付けていく。
日が沈むと、灯の光は、思ったより遠くまで届いた。草の上に、丸い明るい輪ができる。輪の中に、小さな羽虫が寄ってきて、ゆっくり回っていた。
輪の外は、すぐに暗くなる。土手の肩が、その暗さの中へ続いていた。
三つの灯が、暗くなりはじめた土手の上で、丸く光っていた。
*
夕飯は、水番の家で、豆と麦の粥だった。一間きりの家で、かまどの火がそのまま明かりだった。水番は、ほとんど口をきかなかった。粥のおかわりを、黙って俺の椀に入れた。
食べ終えて、道具小屋へ戻った。リアは奥の隅で、灯を借りて帳面を開いていた。今日の頁の続きを、書いているらしかった。
戸口の側の藁に座って、懐の銅貨を確かめた。十二枚。今日は、一枚も減っていない。飯と寝る所は、明日からの土手の仕事の分だ。銭は出ないが、減りもしない。
村の夜は、静かだった。どこかの溝で、蛙が鳴いていた。遠くで犬が一度吠えて、それきりになった。
水番は、小屋の前に立って、土手の灯を見ていた。
土手の上で、三つの灯が並んでいる。昨夜、音がした所の近くだ。
道を、小さな足音が駆けてきた。
昼間、走っていた子どもの一人だった。小屋の前で止まって、水番を見上げた。
「鍛冶のじいさん、灯、ついたか」
「三つだ」
水番は、土手を見たまま答えた。
俺は、思わず聞いていた。
「鍛冶?」
子どもは、俺を見て、それから笑った。
「板に、そう出てんだって」
笑いながら、また駆けていった。
水番は、何も言わなかった。土手の灯を、見ていた。
小屋の奥で、ペンの音が止まっていた。
鍛冶。
土手の上で、穴の口を押し固めていた手。堰を描いた紙の一か所を、押さえた指。灯の面に、平らに当てられた手のひら。
どれも、鉄を打つ手には見えなかった。
振り向くと、リアは、ペンを持ったまま顔を上げていた。
リアは、ペンを止めたまま、水番の手を見ていた。




