幕間 この世界について、俺が知っていること
木の向こうで、リアがまた横になる気配がした。包みが、木の根に擦れる。それから、静かになった。
土手のほうの音は、止まなかった。乾いた土を、細かく掻く。少し止まって、また掻く。さっきより、少し右へ寄った気がした。
眠らないことにした。
眠ったら、音がどこへ動いたのか、分からなくなる。分かったところで、何ができるわけでもない。夜の土手は、歩けない。それでも、聞いていたかった。
背中を、木の幹に預けた。樹皮が、上着越しに冷たい。膝の上の索は、夜露を吸って、少し重くなっていた。
腰の、索が食い込んだ所が、まだ熱を持っている。脛の擦り傷が、湿った布に擦れて、ときどき痛んだ。昼に崩れた土手の縁が、この腰を引いて止めたのだ。
村のほうに、灯が三つ、四つ。土手の上を、見回りの灯がゆっくり動いている。音のする所までは、届いていない。
魔物、と集落の男は言った。
前の世界で読んだ話なら、魔物は倒すものだった。
剣か、魔法で。
倒せば、何かの数字が上がる。強くなって、次の、もっと大きな魔物へ向かう。
そういう話を、たくさん読んだ。どの話だったかは、もう、どうでもいい。型だけが、頭に残っている。
読んだ話の主人公なら、今ごろ、土手へ走っている。光る技か何かで、闇を払って。
俺は、走らない。走らない理由なら、三つ言える。
暗くて、足元が見えない。
土手の縁は、昼に崩れた。
ここに住む人が、歩くなと言った。
今、俺の手にあるのは、索が一本だ。
それを、おかしいとは思わなかった。目を覚ましてから一月と少しで、ここはそういう所だと、分かってきた。
どういう所なのか。
数えてみることにした。目を覚ましてから、俺が見たもの、聞いたもの。分かったことと、分からないこと。
リアなら、帳面に書く。見たことと、考えたことを、分けて。俺は、字が書けない。だから、頭の中で並べる。
一つ目は、板だった。
*
上着の内側から、板を出した。手のひらほどの、薄い板。暗くて、面は見えない。見えても、俺には読めない。
四月八日の朝、水路脇の草の上で目を覚ました。その日のうちに、読取所の窓口で、これを貸された。金は取られない。借りるだけ。
板の面に字が浮かんで、ミラさんが読み上げた。名前、ユート。身分、仮登録。魔力、三。レベル、一。
前の世界の話なら、ここで目の前に画面が開く。数字が並んで、それがその人の強さになる。三は、笑われる数字だ。
三って少ないんですか、と俺は聞いた。
「数だけでは何とも」
ミラさんは、それだけ言った。この灯を点けるには足ります、と。次の日、トーマも同じことを言った。灯には足りる。それで、三の話は終わりだった。
職業の欄は、未測定。測っていない、というだけだ。
リアの板には、奴隷、とあった。リアが自分で読み上げた。日付を読むのと、同じ声だった。
前の世界の話なら、欄の字が、その人だった。勇者と書いてあれば勇者で、奴隷と書いてあれば、奴隷だ。
ここでは、違った。
「職業欄は、測った日の推定です」
河務局の窓口で、ミラさんはそう言った。身分と通行は、台帳と文書で決まる。欄の字は、器具がその日に読んだものだ。
リアの欄は、今は横線だ。測り直しても、線だった。上流の詰所の男は、その線を見て、字じゃない、と言った。俺の「未測定」は、字があるから通した。照会の返事が来て、リアも通った。職業欄の表示は、通行を決めない。
板の字は、その人ではない。測った日の、器具の読みだ。
そこまでは、分かった。
分からないことも、ある。俺は、この板に何と書いてあるのかを、自分の目で読んだことがない。いつも、誰かに読んでもらっている。
板を、上着に戻した。
土手の音が、止んだ。
耳を澄ました。畑の虫の声だけが残った。
少しして、また始まった。
*
二つ目は、灯だった。
荷揚げ場の倉庫で、トーマに渡された箱形の灯。正面のガラスの中に、拳ほどの白っぽい石が入っていた。
光るのは、この石だ。トーマは、ガラス越しに石を指で叩いて言った。人の手は、点けろと合図するだけだ。
手を平らに当てる。横の板が、手に吸いつく。つながった印だ。光っても、三つ数えるまで離さない。放熱面は上。下に向けると、熱がこもって止まる。石が濁ったら、替える。
最初は、指が浮いていた。石が二、三度またたいて、消えた。手が平らじゃない、とトーマは言った。手のひらを押し当て直したら、板が吸いついて、石が白く光った。
今なら、暗がりでも点けられる。手のひらが、あの吸いつく感じを覚えている。
前の世界の話なら、魔法は手から出た。呪文を唱えて、手のひらから火や光が飛ぶ。
ここでは、光るのは石だった。手は、合図をするだけだ。
三つ目は、錠と水門だった。
四月二十三日、市内の水門。操作台の柵の扉は、板を当てると掛金が動く錠だった。台の足元の箱が水をかぶって、掛金は動かなくなった。
魔法が止まっても、水は止まらない。
だから、手で開けた。台の上の弁を、体ごと回す。補助駆動の唸りが、止む。柱の把手。外の掛金。三手。
土手の上の灯が、一つ、止まった。しばらく動かずにいて、また進みだした。あれも、中に石の入った灯だろう。誰かが手を当てて、点けたのだ。
指を折って、数えた。灯。錠。水門の駆動。読取所の器具。板。
全部、器具だった。
この世界で俺が見た魔法は、どれも、器具を通していた。石が光り、掛金が動き、弁が回る。人の手は、器具に合図をする。止まったら、手で開ける。
それから、もう一つ、気がついた。
照らす。開ける。止める。測る。
何かを倒す魔法を、俺は、まだ一つも見ていない。
少なくとも、俺が見た分は。
倒す魔法が、この世界にないのか。それとも、運河と荷揚げ場には、要らないだけなのか。それは、分からない。勇者がいるなら、どこかには、あるのかもしれない。
魔物にさえ、ここの人は灯を置く。灯を置いとくと、そこは掘られねえ。集落の男は、剣の話をしなかった。
*
四つ目は、俺のものだった。
《未来確定》
水路脇で目を覚ました朝、今夜の自分を思い浮かべたら、足元が並び直った気がした。それで、名前を付けた。声に出すと、思っていたより格好よかった。
次の日、トーマの前で、その名前を小声で言った。索は、杭からするりと落ちた。
十日の朝、角の樽の山が崩れかけたとき、名前を言う暇はなかった。今夜を思い浮かべた。胸の奥で、ことり、と掛け金が落ちた。見てきたものが、使う順番で並んだ。
同じ日の午後、一人で名前を言った。何も起きなかった。読取所で、言われて二回言った。二回とも、何も起きなかった。
前の世界の話なら、技の名前を叫べば、技が出る。
俺のは、名前を呼ぶと、出ない。
ことり、と掛け金が落ちたのは、水路脇を入れても、片手で数えられるほどだ。市内の水門で一度。リアの再測定の日に一度。落ちなかった日のほうが、ずっと多い。救助の最後も、詰所の札の読み違いに気づいた日も、胸の奥では何も落ちなかった。
ミラさんの読み上げを、思い出す。観測、候補。再現、一回。認証、なし。
手のひらを開いた。索の擦れ跡が、暗い中でも、指先で分かる。
この掛け金は、灯を点けない。錠も開けない。石も光らない。並ぶのは、頭の中の順番だけだ。
さっき数えた器具の列に、これは入らない。器具を通さないものは、俺の知る中で、これだけだった。
それが何なのかは、分からない。候補のまま。
分からないものは、分からないまま置いておく。リアなら、見たことと、考えたことを分ける。器具を通さない、は見たことだ。それが何か、は、まだ考えることにもなっていない。
土手の音が、また少し右へ動いた。
*
ポケットの銅貨を、指で探った。十二枚。一枚を出して、縁をなぞる。暗くて見えないが、片手を高く掲げた人の姿が刻んであるはずだ。勇者の紋。
勇者は、どこかにいるらしい。魔族は、遠い所の話らしい。どちらも、見たことがない。
リアの再測定の日、ミラさんは、写しを王都へ送ると言った。器具の記録の決まりだ、と。リアの線と、俺の「再現、一回」が、王都のどこかの机に載る。誰が読むのかは、知らない。
勇者も、魔族も、王都も、この木の下からは見えない。
見えるのは、土手の上の灯だけだ。聞こえるのは、土を掻く音だけだ。
銅貨を、ポケットに戻した。
数えたものを、並べ直してみた。
板の字は、その人ではない。魔法は、器具を通す。倒すための魔法は、まだ見ていない。俺の掛け金だけが、器具の外にある。
分かったのは、それくらいだ。
分からないほうを数えると、指が足りなくなった。板に何と書いてあるのか。石の力は、どこから来るのか。リアの線は、なぜ出るのか。掛け金は、何なのか。勇者はどこにいて、魔族は何をしているのか。土手を掘っているのは、何なのか。
それに、俺は、なぜここにいるのか。
木の向こうで、リアが寝返りを打った。包みが、根に擦れた。寝息が、また静かになった。
リアの見取図も、はじめは点線だった。歩いた所だけが、実線になった。今日は、紙の端を越えた。
分からない所は、空けておけばいい。歩いた所から、埋まる。
明日は、あの村に入る。リアの線が、堰に届く。俺は、その横にいる。
土手の音が、また止んだ。
今度は、耳を澄まさなかった。瞼が、重い。膝の索が、夜露で冷たく湿っている。その上に、指を置いたままにした。
読取所の窓口で、ミラさんは、板の端の、何も浮かんでいない所を指した。この欄は、効果が確認できたときに埋まります。今は空欄です。
あの欄には、今は、候補、とあるらしい。自分では読めないから、らしい、としか言えない。
数えたものの中で、埋まったのは、まだ少しだけだ。
分からない欄のほうが、まだ多い。




