EP.37 堰の手前
朝、息子の母親のかまどで、パンを三つ買った。銅貨を六枚。布にくるんで、包みの中に入れた。今日の昼と、明日の分だ。
リアも、自分の分を買っていた。
昨日の夕方、畑の男が杭を打っていた所まで戻った。崩れた縁には、新しい土が詰めてあった。杭の頭が、朝露で濡れている。
リアはそこで見取図を広げ、昨日の線の端にペンを置いた。それから、歩きはじめた。
唇が、また動いている。
水路は、村の先でさらに細くなっていた。人がまたいで越えられるくらいの幅だ。溝に分かれるたびに、水は少しずつ減っていく。それでも、細い流れは、畑のあいだを切れずに上へ続いていた。
昼が近くなったころ、リアが立ち止まった。
ペンの先が、紙の端に届いていた。
見取図の、いちばん上の端だった。運河から分かれた点線は、もともと、ここで切れていた。
リアは、しばらく紙の端を見ていた。
それから、帳面を裏返して、後ろのほうの白い頁を開いた。綴じ目に指を入れて、一枚、そっと外した。紙の破れる小さな音がした。
リアは、外した紙を見取図の端に並べて置いた。風でめくれないように、道端の石を二つ、角に乗せた。
ペンが、見取図の端から、新しい紙の上へ移った。
線が、続いた。
橋の石段で初めて見せてもらったとき、点線は、紙の端で切れていた。どこへ続いてる、と俺が聞いて、リアは、分かりません、と言った。紙の端で、切れていたので。
その先を、今、リアは自分の手で描いている。
午後に入ると、土手の縁が低くなった。水路の水面と、土手道の地面が、ほとんど同じ高さになる。縁の土は、ところどころ黒く湿っていた。
「水側は、俺が歩く」
言ってから、リアの前に出かけた。
リアは、足を止めなかった。
「縁は、近くで見ないと、描けません」
それだけ言って、水路の側を歩いていった。ペンの先は、縁の線をなぞり続けていた。
「……分かった」
陸の側の、半歩後ろについた。
水側を歩くと言ったのは、崩れるかもしれないからだ。リアは、縁を見るために水側を歩く。どちらも、本当のことだ。
分かった、と言った。
けれど、半歩後ろから、リアの足元から目を離せなかった。
*
三軒きりの集落だった。
屋根が三つ、畑のあいだに寄り合っている。鶏が、道の真ん中で地面をつついていた。
集落の手前の土手で、男が二人、崩れた縁を直していた。年かさの男が杭を打ち、若い男が籠で土を運んでいる。崩れは、昨日の村の先のものより大きかった。土手の肩が、人ひとりぶんほど、えぐれて水の中へ落ちている。
年かさの男が、俺たちに気づいて顔を上げた。それから、崩れた所の奥を、顎で示した。
「見てみな」
えぐれた土の奥に、穴が開いていた。
拳を二つ並べたくらいの口だった。斜めに、土手の奥へ続いている。覗いても、先は暗くて見えなかった。
穴の口のまわりに、掘り出された土が小さく積もっていた。その土に、細い筋が何本も走っている。爪の跡のように見えた。
リアが、帳面を開いた。
俺は、崩れの上を見た。えぐれた所の上の縁が、張り出したまま残っている。下の土がなくなって、肩だけが宙に浮いているようだった。
「手を、貸せます」
男たちが、俺を見た。
「今夜の飯と、寝る所の代わりに」
年かさの男は、俺の肩の索を見た。それから、うなずいた。
「助かる」
縁の上に土を詰める前に、その縁がどこまで保つのか、確かめなければならなかった。
「杭を、一本」
年かさの男が、杭と木槌を渡してくれた。
崩れから三歩離れた、固い所に、杭を打った。木槌の音が、土手に響く。杭の頭が、膝の高さまで沈んだ。
肩から索を下ろして、杭に巻いた。手首を、二度返す。結び目を締める。反対の端を、自分の腰に回して、もう一度結んだ。余りを、一握り残す。
縁の手前に立った。
片足を、縁に乗せた。少しずつ、体重をかけていく。
土が、足の下から消えた。
体が、一段落ちた。
膝から下が、冷たい水の中にあった。しぶきが、顔にかかった。
腰に、索が食い込んだ。
止まった。
「引け!」
若い男の声がした。索が、上へ引かれる。俺も、土手の土に手をかけて、体を持ち上げた。年かさの男が、俺の腕をつかんだ。
土手の上に、転がるように戻った。
脛を、どこかで擦っていた。血は、少しだけだった。
崩れた縁は、もうなかった。土の塊が、水の中で崩れて、茶色く広がっていた。
「……止まった」
自分の声が、少し震えていた。
手首を二度返す結びは、荷揚げ場でトーマに習った。余りを一握り残すのは、上流便の船頭に言われた。その二つが、今、俺の腰で止まっている。
土手の上で、リアが立っていた。帳面を胸に抱えている。崩れた瞬間だけ、ペンが止まっていた。今は、また動いている。
リアは見取図を広げて、崩れた所の奥の、穴の位置に、小さな印を付けた。
これは、頼まれた仕事だ。俺が申し出て、男たちが受けた。俺の索で、俺の腰で、確かめた。
*
夕飯は、年かさの男の家で、豆の煮たのとパンだった。
かまどの火のそばで、濡れたズボンを乾かした。脛の擦り傷が、熱でひりついた。
リアは、自分の皿を前に、懐から小さな袋を出した。
「私の分は、払います」
年かさの男は、少し笑った。
「手を貸したのは、そっちの兄さんだ」
「はい。私の分は、私が払います」
男は、それ以上は言わずに、銅貨を受け取った。
食べ終えると、男は火に薪を一本足した。
「何かが、夜に掘ってる」
火を見ながら言った。
「見たやつはいねえ。朝になると、穴が開いてる。雨の日に、そこから崩れる。雨がなくても、穴が大きけりゃ、崩れる」
「灯を置いとくと、そこは掘られねえ。だから、弱い所には、夜、灯を置く。全部には、置けねえけどな」
リアのペンが、止まった。
「灯は、どういう灯ですか」
「作業灯だ。中に、光る石の入ってるやつだ。上の村から、二つ借りてる。足りねえ」
リアのペンが、また動いた。
作業灯なら、点けられる。荷揚げ場で、トーマに習った。手を平らに当てて、板が吸いつくのを待つ。光ってから、三つ数えて離す。
けれど、灯そのものは、俺の物ではなかった。
「上の村じゃ、魔物って呼んでるらしい。獣だろう、って言うやつもいる」
男は、俺とリアを順に見た。
「夜の土手は、歩くな」
魔物。
この世界に来て、それに近い言葉を聞いたのは、上流便の船頭が笑って言ったときだけだ。
(魔族? ありゃ前線の話だよ。)
前線の話では、なかった。この土手の話だ。
灯があれば、近づかない。点け方は知っている。けれど、灯を持っていない。
「この先、寝る所は」
男は、少し考えた。
「番小屋が、二つ先の曲がりにある。畑の見張りに建てたやつだ。今は、誰も使ってねえ」
リアが、それも書いた。
その夜、納屋の藁の上で、腰の索の跡が、いつまでもひりひりした。
*
翌朝、集落の女が、パンを二つ、布にくるんで俺に持たせた。
「持ってきな。手間の分だ」
年かさの男は、古い杭を二本、俺の足元に置いた。
「持ってけ。木槌は、そこらの石で足りる」
土手道は、さらに上へ続いていた。
水路は、もう溝と見分けがつかないほど細かった。それでも、水は切れていなかった。
穴が、増えた。
土手の肩に、一つ。少し行って、また一つ。どれも拳を二つ並べたくらいの口で、斜めに奥へ続いている。口のまわりに、細い筋の付いた土。
リアは、穴を見つけるたびに立ち止まり、見取図に印を付けた。
「……七つ」
数を言うときの、はっきりした声だった。
道が細くなって、土手の肩しか歩く所がなくなると、俺は杭を一本、固い所に石で打ちこんだ。索を結んで、先に足を置く。土が保つのを確かめてから、索をほどき、杭を抜いて、また肩に担ぐ。自分で決めた手順だ。
一回ごとに、少しずつ遅れた。石で杭を叩く音が、畑に響いた。手のひらに、杭のささくれが刺さった。
リアは、描きながら後から来た。俺が杭を抜くあいだ、待っていることもあった。何も言わずに、ペンを動かしていた。
その夜は、番小屋だった。
板の壁に、藁の残りが散らばっていた。屋根の板が一枚外れていて、そこから星が見えた。
リアは、戸口に近いほうに藁を寄せた。
俺は、小屋の中には入らなかった。戸口の外の壁に背をつけて、土手のほうを向いて座った。
一人分ずつ。宿の代金のことだ、と思っていた。番小屋には、代金がない。それでもリアは、戸口のそばに藁を寄せた。
俺は、壁の外で土手を見ていた。
見ていたいからだ、と思った。
板の壁の向こうで、藁の鳴る音がした。
「……中は、まだ藁があります」
リアの声だった。
「ここで、いい。土手を、見てるから」
少しのあいだ、何も聞こえなかった。
「……そうですか」
夜のあいだ、土手は暗いままだった。何も聞こえなかった。明け方、露で、膝の索が湿っていた。
十一日の昼過ぎ、畑の向こうに、遠く屋根が見えはじめた。
*
最後の曲がりを抜けたのは、日が傾いてからだった。
畑の向こうに、屋根が並んでいた。三軒の集落より、ずっと多い。煙が、何本か立っている。
その手前で、細い水路の水が、板と石で組んだ堰に溜まっていた。古い水路の終わりだった。堰から先は、水は畑の溝へ分かれていくだけで、もう上へは続いていない。
堰の村だ。
土手の上を、小さな灯がいくつか動いていた。見回りなのだろう。灯は、ゆっくり進んでは止まり、また進んだ。
リアは、その場で見取図を広げた。新しい紙の上で、線が、曲がりを一つ抜けて、堰の手前まで伸びた。
ペンの先が、堰の印の手前で止まった。リアは、紙から顔を上げて、堰を見た。長く見ていた。
点線の終わりは、あの堰だ。
商会の古い帳面の裏の図から写して、橋の石段で俺に見せて、上流の船着場で八十歩だけ実線にして、それから、ずっと点線のままだった線。その終わりが、今、畑の向こうにある。
日が、畑の向こうへ沈んでいく。
夜の土手は、歩くな。
二人で、土手から離れた木の下まで下がった。畑のあいだの、一本だけ立っている木だった。
リアは、木の反対側に座った。包みを枕にして、横になった。帳面は、包みの中にしまったようだった。
俺は、土手のほうを向いて座った。索を、膝の上に置いた。
明日、あの村に着く。リアは、堰まで描く。俺は、横を歩く。
上の門の向こうは、まだ後だ。水は、逃げない。
暗くなると、村の灯と、土手の上の見回りの灯だけが残った。
それから、音がした。
土手のほうだった。乾いた土を、何かが細かく掻いている。止まって、また掻く。
索を、握った。
立ち上がりかけて、やめた。灯を持っていない。夜の土手は、歩くな。
ここで聞いているしかなかった。
木の向こうで、リアが体を起こす気配がした。
「……聞こえますか」
小さな声だった。
「聞こえる」
「何の、音ですか」
「分からない」
リアは、それ以上は聞かなかった。分からない、と、二人とも知っている。それだけを、二人で聞いていた。
土手のほうで、何かが、土を掻いていた。




