↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/47

Ep.36 点線

夜明け前の小屋は、まだ暗かった。


年長のほうは、もう起きていた。土間で、今日の帳面を開いている。


「索を、一本、もらえませんか。古いのでいいです」


年長のほうは、帳面から顔を上げた。


「何に使う」


「土手を、確かめるのに」


年長のほうは、しばらく俺を見ていた。それから、小屋の奥へ行って、巻いた索を一つ持ってきた。端がほつれて、ところどころ色が変わっている。手に受けると、思ったより重かった。


「……持ってけ」


どこへ、とも、誰と、とも聞かなかった。


索を肩に掛けた。懐には、もう一本、腕一本ほどの短い索が入っている。下の船着場の鉤竿の船頭にもらった、結び目が五つある索だ。


小屋を出て、札の前に立った。


空が、少しずつ白くなっていく。詰所の窓の灯は、もう消えていた。


六時、上の門の扉の音がした。


重い、長い音。石の壁の向こうで、上りの船が門に入っていく。あの扉の先が、水が来た所だ。後で行きます、と、俺は鉤竿の船頭に言った。


水は、逃げない。


リアは、何日も、誰も測っていない水の横を歩く。だから、今は、こっちだ。


船着場では、上流便が索をほどいていた。四十四袋を積んで、船べりが低い。舳先に、白髪まじりの上役が立っていた。前だけを見ている。


船頭が、俺に気づいて手を上げた。


「気をつけて行きな」


上流便は、下流の曲がりへ、ゆっくり離れていった。


寝台小屋の戸が開いた。


リアが出てきた。私物の小さな包みを肩に掛けて、帳面を胸に抱えている。


札の前の俺を見た。


一度だけだった。


リアは何も言わずに、詰所の戸口へ歩いた。懐から板を出して、読み取り面を開く。


紺の上着の男が、最後まで読んだ。


「通っていい」


リアは札の横を抜けた。


俺も、板を開いた。


「照会済みだ」


「知ってます」


男は、ほんの少しだけ口の端を動かした。


「……通っていい」


リアは、八十歩の先を歩いていた。駄目だ、とは、やはり言われなかった。


  *


堰の手前で、リアは止まった。


四本の杭の横で、包みを下ろした。帳面を膝の上に開いて、その上に見取図を広げる。小さなインク壺の栓を抜いて、ペンの先を浸した。


紙の上で、実線は堰の所で終わっている。その先は、点線だ。


リアは、実線の終わりにペンの先を置いた。左手の親指に、落ちないインクの跡がある。その指で、紙の端を押さえていた。


それから、立ち上がって、歩きはじめた。


唇が、かすかに動いている。数えているのだ。


水は、板の堰を細く越えて、その先へ流れていく。最初の溝の分かれ目で、リアは止まった。帳面を腕に乗せて、ペンを動かす。短い線が一本、横へ伸びた。また歩く。また数える。


しばらく行くと、水路の縁の石が終わって、土の縁に変わった。


リアはそこで止まって、長く紙を見ていた。それから、ペンの線の描き方を変えた。俺には、何が違うのか分からない。けれど、ペンの先が、さっきより細かく動いていた。


俺は、数えなかった。描きもしなかった。


二歩ほど離れて、横を歩いた。


数えないで歩くと、何を見ていればいいのか、最初は分からなかった。リアの背中を見ているのも、違う気がした。


水を見ることにした。


水は、足首ほどの深さで、澄んでいた。底の小石が見える。土の縁は、ところどころ草の根が張り出して、水の上に垂れていた。


気がつくと、草の根元ばかり見ていた。土が、えぐれていないか。縁が、低くなっていないか。


誰も測っていない水だ。だから、俺が見る。


畑の上で、鳥が高く鳴いていた。麦は、腰の高さで揺れている。


溝の一つに、細い板が渡してあった。人ひとりが渡れるくらいの幅だ。


リアが歩数を数えながら近づいてくる。


俺は、先に板に足を乗せた。体重をかけて、一度、踏んだ。板は、少しだけしなって、戻った。渡りきって、振り向いた。


リアは、何も言わずに、後から渡った。


渡りきってから、リアは振り向いて、板を見た。それから、帳面に短い線を一本、描き足した。板の橋も、地図に入るのだ。


板は、しっかりしていた。先に渡って、確かめた。


それは、横を歩くことの中に入る、と思った。


四月十六日、この道を一人で歩いたときは、半時間で村に着いた。


今日は、振り向くと、まだ堰の板が見えた。


  *


村に着いたのは、昼だった。


畑の向こうに屋根が寄り合って、どこかで犬が吠えた。井戸の横で、女が二人、桶を下ろして、こっちを見ていた。知らない顔が二人、土手道から入ってきたのだ。見られて当たり前だった。


車軸を新しい白木に替えた荷車の家の前で、農夫の息子が納屋の戸口に寄りかかっていた。


「あんた、また来たのか」


それから、リアを見た。三日に、札の前で止められていた人だ。


「通れたのか」


「はい」


「そうか」


息子は、俺とリアを順に見た。


「あんたら、二人で行くのか」


俺が口を開くより先に、リアが言った。


「同じ道です」


それだけだった。


俺は、開けかけた口を閉じた。俺が答えるつもりだった。何と答えるつもりだったのかは、自分でも、よく分からなかった。


息子は、それで分かったという顔をした。土手道の先へ、顎を上げた。


「堰の村までか」


リアの手が、帳面の上で止まった。


「堰の村、とは」


「じいさんが言ってた。この水路は、ずっと上まで続いて、堰の村ってとこで終わる。歩いて、何日かだ」


息子は、俺のほうへ顎を引いた。


「こいつにも、おととい話したけどな」


リアが、俺を見た。


さっき札の前で見たのより、少しだけ長かった。


「……言わなかったんですね」


「リアが描く所だから」


言いかけたことは、ある。おとといの昼、洗い場で、何日も、と口から出かけた。止めたのは、白い所はリアが描く、と、その前に決めていたからだ。


リアは、すぐには何も言わなかった。


それから、帳面を開いた。見取図ではなかった。後ろのほうの、白い頁だった。ペンを走らせる。短く、二行ほど。


聞いたことは、帳面に。歩いた所は、地図に。


胸の奥が、少しだけ温かくなった。


かまどのほうから、焼けた麦の匂いがしていた。息子の母親が、パンを布の上に並べている。一つ、二枚。俺は一つ買った。リアも、自分で一つ買った。


納屋の前の石に座って、パンを食べた。リアは半分を食べて、残りを布に包んで、包みの中にしまった。夕方までの分なのだろう。


パンを食べ終えたところで、リアが母親のほうを向いた。


「納屋を、今夜、借りられますか」


母親は、俺とリアを見た。


「二人かい」


「一人分ずつ、払います」


「一人、二枚だよ」


「はい」


一人分ずつ、とリアは言った。


宿の代金のことだ、と思った。


  *


午後、村の先を描いた。


水路は、また細くなっていた。溝に分かれるたびに、水は減る。土の縁は低く、ところどころ草に埋もれていた。


少し先の土手に、男が一人しゃがんでいた。


木槌で、杭を打っている。横に籠が置いてあって、湿った土が入っていた。男は杭を打ち終えると、籠の土を両手ですくって、土手の縁に詰めはじめた。


近づくと、縁の一か所が、えぐれたように崩れていた。崩れた土の色が、まわりより濃い。崩れたばかりの色だ。その下の水が、そこだけ濁っていた。


男が、顔を上げた。


「夜のうちに、また崩れてた」


土を詰めながら、ぼやくように言った。


「雨も降ってねえのに」


リアは、帳面を開いた。崩れた所と、杭と、男の言った言葉を書いた。


「いつから、ですか」


男は、土をすくう手を止めずに答えた。


「この十日ばかりだ。直しても、また崩れる」


リアは、それも書いた。見取図にも、小さな印を一つ付けた。


俺は、崩れた縁を見下ろしていた。


おとといの夜、寝台で思った。土手が崩れていたら、誰かが先に足を置いて確かめる。索があれば、杭に結べる。


肩の索を、握った。古い麻が、手のひらにざらついた。


崩れの手前の縁に、片足を乗せてみた。体重を、少しだけかける。土が、靴の下でわずかに沈んだ。乾いて見えるのに、中のほうが柔らかい。


足を、引いた。


誰も測っていない土手だ。雨も降っていないのに、崩れる。


日が、畑の向こうへ傾きはじめた。


リアは、そこからもう少しだけ描いて、止まった。見取図の実線の端に、ペンで何か書いた。


それから、帳面を閉じた。


「戻ります。納屋まで」


俺は、うなずいた。


  *


夕飯は、母親のスープとパンだった。一人、五枚。


納屋の藁は、乾いた麦の匂いがした。母親が、小さな灯を一つ貸してくれた。


リアは、納屋の奥の藁の山の前に座っていた。俺は、戸口に近いほうに座った。あいだに、農具が掛けてある。


リアは、灯の下で見取図を広げていた。


運河の線。七つの曲がり。小屋の角から、堰まで。そこから先に、今日の線が伸びていた。溝の分かれ目の短い線。板の橋。土の縁に変わった所。村。村の先の、小さな印。


点線だった所が、村の先まで、一本の線になっていた。


その線の端に、字が一つ並んでいた。


俺には読めない。けれど、何と書いたのかは分かる気がした。初めて上流へ行く前の夜、リアは、見取図の白い端に日付を書いた。


リアの指が、その字の上を、一度だけなぞった。


それから、リアは見取図をたたんで、帳面の後ろの頁を開いた。ペンの音が、少しだけ続いた。昼に聞いた堰の村の話の下に、何か書き足しているのかもしれなかった。


母屋のほうで、戸の閉まる音がした。犬が、遠くで鳴いた。納屋の外を、細い水が流れる音が、ずっと続いていた。


懐から、銅貨を出して数えた。十八枚。


明日も、リアは描く。あの崩れた縁の先から。


俺は、横を歩く。上の門の向こうは、まだ後だ。水は、逃げない。


リアに、何か言おうか、と思った。今日のこと。明日のこと。


何を言えばいいのか、分からなかった。言わないでおいた。


四月二十九日、船着場の杭のそばで、リアは言った。


同じ方角です。でも、同じ所では、ありません。


今日、村で、リアは言った。


同じ道です。


今日は、でも、がなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。