EP.35 照会の返事
六時、上の門の扉の音がした。
重い、長い音。昨日は一度も鳴らなかった音が、今朝は寝台小屋の板壁を震わせた。
起き上がると、若いほうが藁の上でこめかみを押さえていた。
「……薄いって、言ったろ」
誰に言ったのかは、分からなかった。
年長のほうは、もう上着を着ていた。戸口で振り返って、俺に顎を上げた。
「今日は、上流便が来る。午前は小屋だ。昼から積む。一日分、二十だ」
「はい」
午前は、荷受け小屋を掃いた。
四日に運んだ麦の三十袋と、四月から隅にある十四袋。そのあいだの土間に、袋からこぼれた麦と埃が溜まっている。箒で寄せると、粉っぽい匂いが立った。
リアは、戸口で帳面を開いていた。積む袋の印を、一つずつ帳面と合わせている。いつもと同じ顔だった。
ただ、ときどき、顔を上げて下流のほうを見た。
運河は、下流の曲がりの先で見えなくなる。見ても、まだ何も来ていない。リアはすぐに帳面へ目を戻した。
俺も、箒を動かしながら、何度か同じほうを見た。
昼過ぎ。書付が載っていれば。
載っていなかったら、また何日か待つ。リアはまた、札のこっち側で数える。
昨日、リアは決めたことを言った。明日の朝、堰から描く。
俺は、横を歩く。
そのことは、今日は考えないことにした。今日は、返事の日だ。
箒の先で、麦の粒が一つ、戸口の外へ転がっていった。
*
昼の粥の椀を洗って戻しても、下流の曲がりには、まだ何も見えなかった。
リアは、戸口に立ったままだった。帳面の角を、指で押さえている。インクの跡のある親指が、紙の角を何度もなでていた。
若いほうが、水を一杯飲んで、小屋の日陰に座りこんだ。年長のほうは、袋の山の前で腕を組んで、何も言わなかった。
しばらくして、下流の曲がりに、船の舳先が見えた。
「……来た」
声に出していた。
帆はたたまれていて、岸の道を曳き手が一人、背を起こして歩いている。舳先に、日に焼けた顔が立っていた。大きな声で、曳き手に何か言っている。
ローデルの上流便だった。四月十五日、俺たちを乗せて上ってきた船だ。
船が寄ってくると、船頭は俺とリアを順に見て、目を丸くした。
「あんたたち、まだいたのかい」
「まだ、いました」
「下じゃ、もう誰も上流の話をしてないよ。塩の値段が上がった話ばっかりさ」
船頭は舵を離さずに、しゃべり続けた。
「そうそう。荷揚げ場のトーマがさ。毎朝、白線の角で、結び目のある索を当てて、何か測ってるよ。何やってんだかね」
点検欄を、書いているのだ。残って、書く、とトーマは言った。
リアが、帳面から顔を上げた。何も言わなかったが、口の端が、少しだけ動いた。
船頭がしゃべっているあいだに、曳き手が索を投げた。受けて、杭に結んだ。手首を二度返す。余りを、一握り。
船頭は結び目を見て、何も言わなかった。
船べりから、男が一人、降りてきた。
紺の上着。詰所の男と同じ上着だが、胸の札が一回り大きい。髪には白いものが混じっていた。手に、油紙の包みを持っている。
男は、船着場を見回しもしなかった。まっすぐ詰所へ歩いていく。
詰所の戸口で、紺の上着の男が背を伸ばした。
リアが、帳面を閉じた。
俺は、肩に担ぎかけた袋を、土の上に下ろした。
監察官の記録は、照会と同じ机に載る。オルドさんは、リアにそう言った。
あの人は、その机のほうから来たのかもしれない。
口は、出さない。リアの照会だ。
*
白髪まじりの男は、詰所の前で、包みを紺の上着の男に渡した。
「監察官の記録が、照会と同じ机に載った」
それだけ言って、一歩下がった。
紺の上着の男が、油紙を開いた。中に、紙が何枚か重なっている。一枚目を広げて、目を落とした。
一行目で、目が止まった。
男は顔を上げて、リアを見た。それから、紙をリアのほうへ差し出した。
「……読んでくれ。あんたの照会だ」
リアは、帳面を胸に抱えたまま近づいた。両手で、紙を受け取った。
字は、青いインクだった。俺には一つも読めない。けれど、細くて、まっすぐ並んでいるのは分かった。
リアが、読んだ。
「リア・セルヴィ。身分、自由民。移動文書、有効」
声は、高くも低くもならなかった。
「職業欄の表示は、通行を決めない」
少しだけ、間があった。
「カーヴェル支局、読取所。ミラ」
リアは、紙から目を上げた。
「ミラさんの字です」
白髪まじりの男が、紺の上着の男のほうを向いた。
「この札は、板を貸す前の者と、記録の欠けた者のための札だ」
札の白い杭を、顎で示した。
「未測定は、そこに入る。線は、入らん。字でなくても、表示だ」
十四日の窓口で、ミラさんは船着場の係の男に言った。迷ったときは、台帳を照会してください。そのための窓口です。
袋を運んでいた日、八十歩の途中で、俺は並べた。札が待たせるはずの者は、俺のほうだ、と。
それは考えたことのまま、リアの帳面の、線の下にあった。
リアが、帳面を開いた。横に一本、線の引かれた頁だった。ペンを取って、線の上に、一行書き足した。
何を書いたのかは、読めない。けれど、どの段に書いたのかは、見えた。
紺の上着の男が、口を開いた。
「……字のない、と読んでいた」
男は、リアの前に立った。手のひらは、もう伸びてこなかった。
「三日、止めた。すまなかった」
男は、頭を下げた。
リアは、すぐには何も言わなかった。
「帳面を、直してください。照会済み、と」
男は顔を上げて、腰の帳面を開いた。短いペンが、三日の行の横で動いた。
リアは、まだ手に持っている返事の紙を見た。
「写しを、一枚、私にもください。私の照会なので」
白髪まじりの男が、紺の上着の男の手元を指さした。
「もう、入っている」
油紙の中の、二枚目の紙だった。同じ青いインクで、同じ字が並んでいる。男がそれをリアに渡した。
リアは、二枚を見比べた。それから、二枚目を帳面に挟んだ。照会の写しと、受付の控えと、同じ頁だった。
白髪まじりの男が、紺の上着の男の帳面の一行を見た。
「この表示は、報告しておく」
どこへ、とは言わなかった。
リアが、懐から板を出した。読み取り面を開いた。
紺の上着の男は、それを最後まで読んだ。
「通っていい」
*
リアは、札の横を抜けた。
乾いた土の道を、土手道へ歩いていく。背中が、少しずつ小さくなる。唇が、かすかに動いているのが分かった。数えているのだ。八十歩を。
「おい」
紺の上着の男が、俺を呼んだ。
「……あんたの分も、来てる」
油紙の中の、三枚目の紙だった。男は、それを読み上げた。
「ユート。仮登録。カーヴェル支局。台帳、照合済み」
「俺は、照会を出してません」
白髪まじりの男が、俺を見た。
「監察官の記録に、未測定の者が通ったとあった。支局で、照合した」
紺の上着の男は、帳面に何か書いた。それから、俺の顔を見た。
「これで、あんたも、通っていい」
毎日、通っていた。三日に六回、四日に六回。昨日も、パンを買いに。
照会が済めば、通す。誰でもだ。三日、この男はリアにそう言った。
本当に、誰でもだった。
札は、本当に、俺のための札だった。俺は、照会を待つはずの者だった。待たずに通って、今日、俺の知らないところで、俺の分まで済んでいた。頼んでいないのに。
ありがたいはずだった。
けれど、知らないうちに済んでいたことが、少しだけ落ち着かなかった。なぜなのかは、考えなかった。
八十歩先で、リアが止まった。
杭の横だった。リアは、四本のうちの一本の頭に、手のひらを置いた。リアが自分で打った杭だ。
それから、堰の先を見た。
水は板の縁を越えて、細く落ちている。その先で、石の縁が土の縁に変わり、畑のあいだへ分かれていく。リアの見取図では、点線の所だ。
リアは、そこから先へは行かなかった。
帳面も、開かなかった。しばらく立っていて、それから、こっちへ戻ってきた。来たときと同じ歩幅で。
止められたあの日、リアは言った。村まで、描きます。今日のうちに。
今日は、通れるのに描かない。決めたのは、次の朝だから。
俺は、袋を肩に担ぎ直した。重さが、肩の擦れ跡に食い込んだ。
明日の朝は、俺も、横を歩く。
リアが、札の横を通って、こっちへ戻ってきた。男は、顔を見ただけだった。
*
十四袋と、三十袋。日が傾くまでに、全部、上流便に積んだ。
リアが戸口で数え、俺が担ぎ、若いほうが船の上で受けた。最後の一袋を下ろすと、船頭が船べりを叩いた。
「十四袋、やっとだよ。小屋で根が生えるかと思ったさ」
年長のほうが、空になった小屋の隅を見た。
「これで、ラートさんに、何て言やいいか、考えなくて済む」
若いほうが、まだ少し青い顔で笑った。
明日の朝六時、上流便は門を下りる。白髪まじりの男も、それに乗っていくらしい。
リアが、帳面を閉じて、年長のほうの前に立った。
「明日から、来ません」
年長のほうが、顔を上げた。
「点線の先へ、行きます」
やめるときは、前の日に言います。四日の朝、リアは指を折ってそう言った。今日が、その前の日だった。
「返事が来るまで、だったな」
「はい」
年長のほうは、しばらくリアを見ていた。それから、銅貨を数えて、リアの手のひらに置いた。
「……そうかい」
年長のほうは、俺には何も聞かなかった。俺も、何も言わなかった。
前の日に言う相手が、俺にはいない。日雇いは、来なければ、それで終わる。誰にも言わずに、明日、どこへでも行ける。
夜、寝台小屋の板の隙間から、詰所の窓の灯が見えた。窓の中で、二つの影が机に向かっていた。白髪まじりの男と、紺の上着の男だ。何かを書いている。報告だろう、と思った。
その手前に、札の杭が白く立っていた。
懐の銅貨を数えた。二十七枚。
奥の寝台で、リアが帳面を閉じる音がした。
明日の朝、リアは、堰から描く。俺は、横を歩く。
もう一度、言っておこうか、と思った。明日、俺も行く、と。
やめた。昨日、言った。
明日の朝、俺も、あの札を通る。今度は、照会済みで。




