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EP.34 決めたら、言います

六時になっても、扉の音がしなかった。


寝台小屋の板戸を押して、外に出た。上の門の木の扉は、二枚とも閉じたままだった。ここへ来てから、毎朝この時刻に聞いた、重い音。今朝は、それがない。


船着場の杭には、船が一艘もいなかった。水は凪(な)いで、石の壁の影をそのまま映している。


休みの日だった。


後ろで、年長のほうが上着に袖を通していた。若いほうは、桶の水で髪を撫でつけている。


「休みの日は、鍋も休みだ」


年長のほうが言った。


「村だ。晩には戻る」


若いほうが、濡れた手を振りながら俺を見た。


「あんたも来るか。村の酒は、薄いぞ」


「……今日は、いいです」


「薄いから、いくらでも飲めるんだがな」


二人は小屋の角を回って、札の前へ行った。紺の上着の男が、詰所の戸口から出てくる。


「板を」


「休みの日まで、板かよ」


若いほうがぼやいた。


「休みでも、札は札だ」


男は、二人の板を一枚ずつ読んだ。若いほうは板をしまいながら、土手道を村のほうへ歩いていった。年長のほうは一度だけ肩越しに手を上げて、その後に続いた。


入れ替わりに、寝台小屋からリアが出てきた。帳面を胸に抱えている。


リアは、まっすぐ詰所へ歩いていった。


「返事は、明日の何時の便ですか」


男は、少し考えた。


「下からの上りの便が、明日の昼過ぎに着く。書付が載ってりゃな」


「はい」


リアは帳面に何か書いた。書き終えると、小さく頭を下げた。


俺は、小屋の角に立って、それを聞いていた。口は、出さなかった。


リアは戻ってきて、俺の前で止まった。


「村へ、行きますか」


「行く。パンを買いに」


鍋が休みなら、今日の飯は自分でどうにかするしかない。札の向こうへ出られる俺は、村まで歩いて買える。


リアは、少しだけ間を置いた。


「……頼んでも、いいですか」


「うん」


「パンを、二つ。戻ったら、払います」


「分かった」


リアは、もう一度小さく頭を下げて、小屋の裏のほうへ歩いていった。


三つ目だ、と数えていた。


二十二日、索のことは、ユートさんの口で言ってください。二十九日、再測定の作業の相手。今日、パンを二つ。


リアの頼みは、いつも短い。どこからどこまでかが、先に決まっている。


頼まれると、胸の奥が少しだけ軽くなった。


今日、リアは、札のこっち側で一日を過ごす。俺は、パンを買いに、あの道を歩ける。


  *


札の前で、男が言った。


「板を」


読み取り面を開く。男は、もう俺の顔も、板の字も知っている。それでも、最後まで読んだ。


「休みでも、札は札だ」


「さっき、聞きました」


「……通っていい」


小屋の角から、土手道へ出た。


八十歩先に、杭が四本並んでいる。リアが木槌で打った杭だ。頭が少しつぶれて、白い木の肌がのぞいていた。


その先に、板の堰がある。


リアの見取図では、ここまでが実線だ。ここから先は、点線になる。


堰を越えた。


石の縁が、少し先で土の縁に変わった。水は、ところどころで畑の溝へ分かれていく。分かれるたびに、水路は細くなった。麦は、腰の高さまで伸びていた。


気がつくと、数えていた。


二十九、三十、三十一。


やめた。


四月十六日も、この道で数えかけて、五十三でやめた。今日は、三十一で気づいた。


数えないで歩く道は、やはり長かった。


村は、畑の向こうに屋根を寄せ合っていた。


車軸の割れていた荷車の家の前に、荷車が一台止まっている。車軸は、新しい白木に替わっていた。


「あんた、また来たのか」


農夫の息子が、納屋の戸口から顔を出した。


「パンを、買えないかと思って」


「母ちゃんが焼いてる。休みの日は、皆ここで買うんだ」


台所のかまどから、焼けた麦の匂いがしていた。息子の母親が、丸いパンを布の上に並べている。


「一つ、二枚だよ」


四つ買った。銅貨を八枚、母親の手のひらに置いた。母親は、パンを布でくるんでくれた。まだ温かかった。


息子が、戸口の柱に寄りかかった。


「あの子は、まだ通れねえのか」


「明日、返事が来る」


「そうか」


息子は、それだけ言った。それから、土手道のほうへ顎を上げた。


「あの水路な。じいさんが言ってた。ずっと上まで続いて、堰の村ってとこで終わるって」


「堰の村」


「歩いて、何日かだ。俺は、行ったことねえけど」


布にくるんだパンを抱えて、土手道を戻った。


堰の手前で、足が止まった。


堰の村。何日か。


その名前も、道のりも、リアの見取図にはまだない。白い所だ。


白い所は、リアが自分で歩いて、自分で描く。俺が言えば、リアの地図に、俺の聞いた話が入る。


だから、言わない。


堰の水が、板の縁を越えて、細く落ちていた。


何日も、誰も測っていない水の横を歩く。夜は、どこで眠るのだろう。


  *


小屋の裏に回ると、柵に洗濯物が干してあった。


リアの上着と、布が二枚。水を含んで、色が濃くなっている。


古水路が運河から分かれる所に、平たい石を並べた洗い場がある。リアは、その石の縁に座っていた。


膝の上に、見取図が広げてあった。


三日に札の前で止められてから、俺は、この紙が開いているのを見ていなかった。


細いペンの線で、運河が一本。上流へ、曲がりが七つ。七つ目の先で、線が一本分かれている。小屋の角から堰までの短い実線。その先は、点線。点線は少しだけ伸びて、紙の端で切れていた。


「パン、買ってきた」


布ごと差し出すと、リアは見取図を膝に置いたまま、両手で受け取った。


「ありがとうございます」


俺は、隣には座らなかった。一歩離れて、立っていた。


リアの指が、紙の上を動いた。運河の線を上って、七つ目の曲がりで分かれて、短い実線をたどる。


堰の所で、指が止まった。


「点線の先、決めました」


リアは、顔を上げなかった。


「返事が来たら、次の朝、堰から描きます」


四月十六日の夕方、荷受け小屋で、俺は初めて聞いた。点線の先、いつ描きたい。


分かりません。決めたら、言います。


リアは、言った。


「……そうか」


次の朝。明日、返事が来たら、明後日の朝だ。堰から、あの点線の上を。


息子の声が、耳に残っていた。歩いて、何日かだ。


あの水は、誰も測っていない。


「一緒に行く」


言ってから、言葉が先に出たのが分かった。けれど、取り消すことでもない。


「あの水は、誰も測ってない。監察官の巡回にも、入らないって」


リアは、何も言わなかった。


「村から先は、何日も……」


止めた。それは、言わないと決めたことだ。


「……先は、俺も知らない」


リアの指は、堰の所で止まったままだった。


「地図は、リアが描けばいい。俺は、横を歩くだけだ」


洗い場の水が、石の間で小さく鳴っていた。


リアは、答えなかった。


見取図を、たたみはじめた。いつもの折り目で、一つずつ。橋の石段で初めて見せてくれた日と、同じ手つきだった。角をそろえて、帳面の間に挟む。


それから、上着の胸に手を入れて、小さな袋を出した。


銅貨を、一枚ずつ、俺の手のひらに置いた。


一枚。二枚。三枚。四枚。


「パンの分です」


リアは立ち上がって、柵のほうへ歩いていった。干してあった布を、端から取りこみはじめた。


言い方が、少し強かったかもしれない、と思った。


けれど、間違ったことは言っていない。地図には触っていない。歩数も数えていない。堰の村のことも、言わなかった。


手のひらの四枚が、冷たかった。


働きはじめて四日目、橋のたもとで、リアはパンを二つに割って、片方を俺に差し出した。一銅貨です、と言った。俺は、次の日に返した。


今日は、リアが、その場で四枚を返した。


なぜそれが気になるのかは、考えなかった。


  *


リアは、取りこんだ洗濯物を胸に抱えて、寝台小屋へ入っていった。


俺は、手の中の銅貨を握ったまま、小屋の角に立っていた。


四月十六日の朝を、思い出していた。


リアは、土手道の脇で杭を打っていた。俺は、昨夜並べた順番を話した。点線の先、描けるぞ。リアは何も言わずに、四本目の杭を最後まで打った。木槌の音が三つ響いて、消えた。


あのときも、リアは答えなかった。


けれど、あのときとは違う。


あのときは、俺の仕事に、リアを付けようとした。俺の順番の真ん中に、リアを置いた。


今度は、逆だ。リアが決めた。リアの用で、リアの順番で行く。俺は、そこに付いていくだけだ。


詰所の石段に、紺の上着の男が座っていた。帳面ではなく、針を持っている。ほつれた袖口を、太い指で縫っていた。


男は、針を動かしながら言った。


「明日、返事が来りゃ、あの子は行くんだろう」


「……たぶん」


「あんたも、行くのか」


「行きます」


男の針が、止まった。


「……あの子は、知ってるのか」


「言いました」


男は、俺を見た。少しのあいだ、見ていた。


それから、何も言わずに、針に目を戻した。


喉の奥が、少しだけつかえた。何がつかえたのかは、分からなかった。唾を飲みこむと、それは下へ落ちていった。


閉じた上の門の向こうで、水が鳴っていた。


  *


暗くなってから、土手道のほうで歌が聞こえた。


調子が外れていた。若いほうだった。札の横を通るとき、詰所の男に顔を見られて、歌が少しだけ小さくなった。


「明日は、仕事だ」


年長のほうの声がして、歌はそこで止んだ。


寝台小屋の藁は、昨日と同じ匂いがした。若いほうは、横になるとすぐに寝息を立てはじめた。


奥の寝台に、リアがいた。壁のほうを向いて、動かない。枕元に、帳面が置いてある。眠っているのかどうかは、分からなかった。


懐から、銅貨を出して数えた。


二十一枚。


パンが四つで八枚。リアから四枚。寝台が四枚。


板の隙間から、詰所の窓の灯が見えた。今日は、一度も扉が鳴らなかった。門の向こうで、水だけが低く鳴っている。


明日、返事が来る。来たら、次の朝、リアは堰から描く。


俺は、横を歩く。


何日も歩くなら、夜はどこかで眠る。土手が崩れていたら、誰かが先に足を置いて確かめる。索があれば、杭に結べる。俺は、結べる。杭も、打てる。


一人より、二人のほうがいい。


上の門の向こうは、また後になる。水が来た所を見に行く、と、俺は船頭に言った。水は、逃げない。


明日の朝、もう一度聞こうか、と一度だけ思った。一緒に行っても、いいか、と。


けれど、もう言った。言ったことを、もう一度聞くのは、おかしい気がした。


寝返りを打った。


リアは、答えなかった。


いつもの折り目で、見取図をたたんだ。銅貨を四枚、一枚ずつ、俺の手のひらに置いた。


それだけだった。


行かないでください、とは、言わなかった。一人で行きます、とも、言わなかった。


駄目だ、とは、言われなかった。

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