EP.33 点検の日
板戸の隙間が、白くなっていた。
眠りは浅かった。目を開けるたびに、板の隙間から詰所の窓が見えた。ゆうべは、遅くまで灯が点いていた。
板戸を押すと、夜明け前の空気が頬に冷たかった。水門の石の壁は、まだ黒い。船着場の水だけが、薄く光っていた。
水位標の前に、人がいた。
刻みのある長い竿を、水に立てている。刻みを読んでは竿を抜き、一歩ずれて、また立てる。竿の先から、滴が落ちた。
十七日の朝と、同じ動きだ。
雨具の上に、札が下がっている。
近づくと、男は振り向かずに言った。
「六時前。刻み、一つ上。十七日より、四つ上だ」
乾いた、低い声だった。
「上から、来ている」
二十一日の夜、俺も同じことを思った。水が来た所は、あの上の門の向こうにある。後で行きます、と、俺は船頭に言った。
男が竿を抜いて、こちらを向いた。片目の下に、古い切り傷が一本走っていた。
「……二十三日の、索の」
「ユートです」
オルドさんは、小さくうなずいただけだった。
十七日、この人は積みすぎの船を止めた。二十三日は、門の水を止めた。測って、書いて、止める人だ。
あの朝、俺はこの人の前で、言いかけてやめた。この人が何を止められるのかを、知らなかったからだ。
今は、知っている。
「オルドさん。詰所で、リアが……」
言いながら、足が一歩前に出ていた。
オルドさんは、竿の滴を手で払った。
「止められたのは、お前か」
「……リアです」
「なら、リアに聞く」
竿を、水位標の杭に立てかけた。
「お前の見たことは、その後だ」
口が、半分開いたまま止まった。
三日の昼過ぎ、札の前で、男の手のひらが……そこから先を、俺は全部並べるつもりでいた。それが、喉の奥でつかえた。
その後だ。
二十五日も、そうだった。支局の長椅子に並んで、一人ずつ呼ばれた。この人は、そういう順番で聞く。
順番の話だ、と思った。
荷受け小屋の戸が開く音がした。
リアだった。帳面を胸に抱えて、まっすぐこちらへ歩いてくる。
リアは、俺の横に並んで止まった。
「監察官」
オルドさんが、リアを見た。
「リア・セルヴィです。申し立てたいことが、あります」
二十三日、リアは、ローデル運送商会の、リアです、と名乗った。
今朝は、商会の名前がなかった。
オルドさんは、リアの胸の帳面を見た。それから、竿を手に取った。
「点検が先だ」
「八時に、詰所の前で聞く。詰所の者も、いさせる」
「はい」
リアは、小さく頭を下げた。
*
六時、上の門の扉が開く、重い音がした。
昨日の朝、索をほどいて岸に残ったときと、同じ音だ。
年長のほうが、小屋の戸口に出てきた。
「監察官が見終わるまで、荷は動かさん」
それから、俺に顎を上げた。
「今日は、昼からだ。半日で、十だ」
「はい」
手が、空いた。
オルドさんは、門の扉の脇にしゃがんで、軸のあたりを覗き込んでいた。泥のついた指で石の継ぎ目をなぞり、帳面に何か書いた。
船着場の杭には、下りの荷船が一艘、結んである。オルドさんは舳先の結び目を目で追い、余りを手で握った。今度は、誰が結んだのかを聞かなかった。
次に、荷受け小屋の戸口に立った。
奥の隅に、麻袋が積んである。十四。
「……十七日のか」
「次の便が、まだでな」
年長のほうが、顎をかいた。土間で、若いほうが下を向いて肩を揺らしていた。
オルドさんは何も言わずに、帳面に一行書いた。
最後に、オルドさんは札の前に立った。
小屋の角の、新しい杭。白い木の肌に、黒い字。
オルドさんは、長く立っていた。
俺には、字が一つも読めない。分かるのは、読んでいる人が、どれだけ長く立っているかだけだ。三日にリアが読んだときより、ずっと長かった。
オルドさんの目が、札から土手道の先へ動いた。八十歩先に、リアの杭が四本、並んでいる。
詰所の戸口で、紺の上着の男が、背を伸ばした。
十七日、袋を受け取りながら、若いほうが言った。測って、書いて、止めただけだ。
その人が、札の前に立っている。
止めてくれる、と思った。
今度止めるのは、リアを止めている、あの札のほうだ。
頭の中で、言うことを並べ直した。
見たことだけ。三日に、六回。四日に、六回。
札が誰のためのものか、は、言わない。それは、リアの帳面の、線の下にある。
俺が言うのは、見たことだけだ。
*
八時、詰所の前に、四人が立った。
石積みの壁。半分開いた戸口。その横に、札の杭。紺の上着の男は戸口の前で、腰の帳面に手を置いていた。襟に、もう汗がにじんでいた。
オルドさんが、リアを見た。
「聞く」
リアは帳面を開いた。けれど、頁は見なかった。
「三日の、昼過ぎです。この札の前で、止められました」
「移動文書は、見てもらいました」
「欄に字のない者は、照会まで通せない。線は、字じゃない。そう言われて、書きました」
「帳面の、表示なし、を、線、に直してもらいました」
「宵に、照会を求めました。書付は、四日の朝の、下りの便です。これが、写しです」
オルドさんは写しを最後まで読み、それから、リアの帳面に目を移した。
「その頁は」
リアが、横に一本、線の引かれた頁を向けた。
オルドさんが、読み上げた。
「上。五月四日。未測定の人が止められたのを、ユートさんは、見ていない。ユートさん、札を六回、通る。ユートさんが、見た」
「下。札は、未測定の人のためのものではないか。ユートさんの、考え」
昨日の夕方、石段で、リアが何を書いたのか、俺には読めなかった。下の段にも、俺の名前があった。
オルドさんの指が、頁の一番下で止まった。
「五日。点検。申し立てる」
それから、リアを見た。
「昨日、書いたのか」
「はい。点検の日だと、聞いたので」
明日は点検の日だ、と年長のほうが言ったあとに、リアが書き足した一行だ。
今朝、俺がオルドさんの所へ行くより前から、リアは決めていた。
「下の段は、私の考えでは、ありません」
「考えは、考えとして付ける」
オルドさんは、俺を見た。
「何度、通った」
「三日に、六回。四日に、六回」
少し考えてから、足した。
「今朝は、まだです」
オルドさんの顔は、動かなかった。帳面に、数を書いた。
「帳面を」
紺の上着の男が、腰の帳面を開いた。
「三日。ユート。仮登録。職業、未測定」
少し間を置いた。
「リア・セルヴィ。職業欄、……」
男の声が、そこで止まった。
リアが、上着の胸に手を入れた。
「板も、見ますか」
「要らん。帳面に、線と書いてある」
リアは、板をしまい直した。
「札を、読め」
俺には読めない字を、男の声がなぞった。
「土手道へ出る者は、詰所に板を示すこと。職業欄に表示のない者は、台帳の照会を待つこと」
「札は、表示のない、と言っている。字のない、とは言っていない」
男は、しばらく黙っていた。
「……同じことだと思っていた」
板を見て、そういうものだと思っていました。十四日の窓口で、船着場の係の男もそう言った。詰所の男もたぶん同じだ、と昨日、俺は考えた。その考えが、今、本人の口から出た。
「最初に、表示なし、と書いたな」
「ああ」
「直したのは」
「この人に、言われてだ」
「見て、直したか」
男は、リアの横顔を見た。それから、自分の帳面に目を落とした。
「……見た。線が、ある」
「なら、お前の帳面は、この人の欄に表示がある、と書いている」
オルドさんは、男の帳面の一行を、指で押さえた。
「空欄と、横線は、違う」
誰も、何も言わなかった。水門の水の音だけが、低く続いていた。
三日、リアが直させたのは、通り道ではなかった。帳面の、一語だった。なぜそれが先なのか、俺には分からなかった。
表示なし、のままなら、男の帳面は、札と合っていた。
合っている帳面からは、誰も、何も測れない。
リアは、あの場で、測れる形にしていた。俺が大きな声を出していた、その横で。
「今月、止めたのは」
「この人、一人だ」
「未測定を、通したのは」
男が、俺のほうへ顎を引いた。
「こいつだ。四日は、六度だ」
数えていたのか。農夫の息子にも、五回目だな、と言った人だ。俺の六と、男の六が、並んだ。
オルドさんのペンが、長く動いた。書き終えると、頁を一枚切り取って、リアに差し出した。
「申立てを、受けた。今日の日付だ」
受付の控えだった。
*
オルドさんが、帳面を閉じた。
乾いた音がした。
リアは控えを受け取って、照会の写しと同じ頁に挟んだ。指が、二枚の紙の角をそろえた。
終わった、と思った。
測って、書いた。十七日なら、ここで、止める、が来た。今日、止められるのは、札のほうで……
「……今日は、通れないんですか」
口が、先に動いていた。
オルドさんは、俺を見なかった。リアを見た。
「通せ、とは言わん」
リアは、何も言わずに聞いていた。
「俺が止められるのは、危険だ。この札は、危険の札じゃない」
オルドさんは、札の杭に目をやった。
「監察官が言えば通る札なら、監察官が言えば止まる札にもなる」
風が、土手道のほうから吹いてきた。札の杭の根元で、乾いた土が少しだけ舞った。
「通すのは、照会の返事だ。書いたものは、今日のうちに支局へ持っていく」
リアが、帳面を胸に抱え直した。
「支局では、照会と、一緒に読まれますか」
「同じ机に載る。そう書いておく」
「はい」
それで、終わりだった。
オルドさんは、詰所の中へ入っていった。紺の上着の男は、まだ帳面を開いたまま、同じ頁を見ていた。
三日、札の前で、男は俺に言った。声で、札の字は変わらん。
この人の声なら、変えられたかもしれない。監察官が、通っていい、と一言言えば、この男は通しただろう。
変えない、と、この人は言った。
言えば通る札は、言えば止まる札だ。
俺は、声で変えようとした。あの日、札の前でいちばん大きな声を出していたのは、俺だった。
オルドさんは、俺の問いに、リアを見て答えた。
なぜか、それが少しだけ気になった。
「ユートさん」
リアが、こちらを向いていた。
「ユートさんの六回も、書かれました」
「……うん」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
*
昼前、オルドさんは測り竿を肩に担いで、詰所から出てきた。
曳舟道を、下るらしい。カーヴェルまで、歩いて四時間。今日のうちに、支局に着く。
小屋の角を過ぎるところで、俺は数歩、追いかけた。
札の向こうを、指さした。土手道と並んで、古い水路が畑のほうへ延びている。石の縁と、板の堰。
「あっちの水路も、見るんですか」
オルドさんは、足を止めた。札の先の水を、一度だけ見た。
「あれは、村の水だ。俺の巡回には、入らん」
「堰と土手は、村が見ている」
それだけ言って、オルドさんは曳舟道を下っていった。肩の竿の先が、一歩ごとに小さく揺れた。
午後は、小屋の袋の積み直しだった。四日の三十と、四月の十四。袋の埃で、喉がいがらっぽくなった。リアは戸口で、袋の印を帳面と合わせていた。
日が傾くころ、年長のほうが、銅貨を十枚、俺の手のひらに置いた。
夕方、札の前に立った。
上の門は、もう閉まっていた。明日は、門の休みだ。照会の返事は、早くて明後日になる。
石の縁の内側を、水が流れていた。浅い。夕日で、底の石が見えた。
十六日、俺はこの土手道を、一人で村まで歩いた。堰を越えると、水路はすぐに細くなって、畑の中へ分かれていった。
村から先は、知らない。
あれは、村の水だ、とオルドさんは言った。俺の巡回には、入らん。
あの水は、誰も測っていない。
照会の返事が来たら、リアは、あそこを歩く。点線の先を、描きに。
ゆうべ、寝台で思いかけたことが、また浮かんだ。
一人で、行かせていいのか。
オルドさんは、声では通さないと言った。俺も、もう、大きな声は出さない。
ただ、一緒に行けばいい。
それなら、誰の札も、変えなくていい。
そう思ったら、ゆうべから胸のどこかに引っかかっていたものが、すっと消えた気がした。




