EP.32 何も出ていない
荷受け小屋の戸は、開いていた。
中は、十五日に来たときと同じだった。帳面を置く台。壁に掛けた升目の板。奥の隅に、麻袋が十四。十七日、積みすぎだと言われて船から戻した袋だ。まだ、ここにあった。
台の前に、年長のほうが座っていた。若いほうは土間にしゃがんで、縄を巻いている。
台の横に、リアが立っていた。帳面を胸に抱えている。
「寝台と、仕事を」
戸口で言うと、年長のほうが顔を上げた。しばらく俺を見てから、太い指で顎をかいた。
「……十五日の、結んだのか」
「はい」
「船は、どうした」
「降りました」
年長のほうは、それ以上は聞かなかった。目を、リアに戻した。
「ゆうべ、聞いた。ローデルの者じゃ、なくなったってな」
「はい」
「記録の仕事、だったな」
そう言ってから、年長のほうは、また俺を見た。
「こいつの言うとおりで、いいのか」
十五日の夕方、この人は、俺に頼んだ。記録の子も来てくれりゃ、数が合う。あんた、言っといてくれ。俺は、言っておきます、と答えた。リアに聞く前に。
昨日の昼は、詰所の男に、リアの代わりに答えた。
「俺に聞かないでください」
声は、大きくならなかった。
「リアの仕事です」
年長のほうは、しばらく黙っていた。土間で、若いほうの手が止まった。
「……そうかい」
胸の奥が、少しすっとした。今日は、答えなかった。
年長のほうは、リアに向き直った。
「条件があるんだろう。言え」
リアは帳面を台に置いて、指を折った。
「書くのは、袋の数と、時刻だけです」
一本。
「一日、二十です」
二本。
「やめるときは、前の日に言います」
三本。
「写しを、一枚、私にもください」
四本。
年長のほうは、リアの指を見ていた。それから、天井を見上げた。
「……ラートさんに、何て言やいい」
十七日、袋を十四戻したときと、同じ言い方だった。若いほうが、縄を巻きながら小さく笑った。
年長のほうは、しばらく考えた。
「……まあ、記録が合ってりゃ、文句を言う人じゃない」
帳面を、台の上でリアのほうへ押した。
「返事が来るまでだな」
「はい」
年長のほうは、今度は俺に顎を上げた。
「荷車が、杭の所に来る。担ぐ手が要る。一日二十だ」
「お願いします」
「飯は、鍋から一杯五。寝台は四だ」
*
村の荷車は、八十歩の杭の横で待っていた。
荷台に、麻袋が三十。荷車を引いてきた村の男が、縄をほどいて待っている。俺が手押し車を寄せると、男は袋を一つ持ち上げながら言った。
「ローデルの、新しいのか」
「日雇いです」
「そうか」
袋は、去年の麦だった。持ち上げると、粉っぽい埃が鼻に入った。小屋の手押し車に五袋積んで、土手道を戻る。車輪が、一回りごとに軋んだ。札の横を抜けて、小屋の戸口まで押す。下ろして、空で戻る。
空の手押し車で札の前に来るたびに、紺の上着の男が言った。
「板を」
読み取り面を開く。男がのぞく。
「通っていい」
小屋の戸口には、リアが立っていた。
手押し車が着くと、リアは袋の一つ一つに指で触れていく。
「五」
帳面に、書く。二往復目には「……十」。数のところだけ、声がはっきりした。
リアは、戸口から一歩も出なかった。
札の杭は、小屋の角に立っている。戸口から、五歩もない。リアは、その五歩の手前で数えていた。
十六日、リアは年長のほうに、荷車の記録はここでします、と自分で言って、この小屋に残った。自分で選んだ置き場所だった。
今日は、ここでしか書けない。荷車の待つ杭は、リアが自分で打った杭なのに。
三往復目、札の前で、男はもう俺の顔を覚えていた。それでも、板を見た。俺の首筋を、汗が一筋流れた。
昼、小屋の前で、鍋の粥が配られた。一杯、五枚。
若いほうが、俺の横にしゃがんだ。日に焼けた首筋に、汗が光っている。
「あんた、板の職業、何て出てんだ」
「未測定」
「なんだ。何も出てねえのか」
「測ってないだけだ」
「同じこったろ」
若いほうは、それだけ言って、粥をかき込んだ。
「俺のは、荷役工って出てる。出てりゃ、それでいいんだよ」
椀の縁を舐めて、若いほうは小屋の中へ戻っていった。
同じこと、なのか。
測っていない、と、何も出ていない、は。
椀の底に残った麦を、指でつまんだ。
*
午後の、最初の往復だった。
空の手押し車を押して、札の前で止まった。
「板を」
読み取り面を開く。男が顔を寄せる。
「職業、未測定」
少し、間があった。
「……通っていい」
手押し車を押して、札の横を抜けた。
八十歩の、半分ほど来たところで、足が止まった。
未測定。
初日、読取所で、ミラさんはそう読んだ。就業の記録がまだありませんから。来たばかりの方には、普通のことです。
十四日、窓口で、ミラさんは言った。未測定は、測っていないというだけです。
昼、若いほうは言った。なんだ、何も出てねえのか。
振り返って、札を見た。黒い字は、一つも読めない。読めないのに、何が書いてあるかは知っている。三日に、リアが読んだ。職業欄に表示のない者は、台帳の照会を待つこと。
職業が、何も出ていない者。
来たばかりで、まだ何も測っていない者。
——俺のことだ。
昨日、男は俺の板を見て言った。字は、あるな。
ゆうべ、男はリアに言った。照会を出すのは、あんたが最初だ。止めたのも、あんたが初めてだ。
誰も、止められていなかった。
札が待たせるはずの者は、字が書いてあるから、毎日、通っている。
俺みたいに。
十四日の窓口で、船着場の係の男は、ミラさんに帽子を取った。板を見て、そういうものだと思っていました。
詰所の男も、たぶん、同じだ。札の字を、そういうものだと思って読んでいる。
手押し車の柄を、握り直した。木の目が、手のひらの擦れ跡に当たった。
胸の奥では、何も落ちなかった。
一つずつ、遅れて並んだだけだった。
札は、俺のために立っていた。
俺は、字があるから通される。リアは、線だから止められる。
手押し車の向きを、変えかけた。詰所のほうへ。
あの札は、俺みたいな者のための札だ。止める相手を、間違えている。そう言いに行けば——
昨日の昼の声が、耳の奥に残っていた。
ユートさん。
一語だけだった。
照会は、リアが出した。番号を持って、写しを一枚取って。リアの件は、リアが進めている。
言うなら、リアにだ。
詰所に言いに行くのは、俺じゃない。
手押し車を、荷車のほうへ向け直した。杭の横で、村の男が次の五袋に手をかけて待っていた。
*
三十袋を運び終えたのは、日が傾きはじめたころだった。
村の男が空の荷車を引いて帰っていき、俺は手押し車を小屋の裏に戻した。
袖の埃をはたいて表へ回ると、リアが石段に座って、帳面を開いていた。水位標の長い影が、石段の下まで伸びていた。
隣には座らなかった。一段下に、立ったままでいた。
「言ってもいいか。札のことだ」
リアが、顔を上げた。
俺は、昼から並べてきたものを、並べたとおりに言った。それから、最後に一つだけ足した。
「あの札は、未測定の者のための札なんじゃないか。来たばかりで、まだ何も測っていない者の。それなら、待たされるのは俺のほうで、リアじゃない」
リアは、すぐには何も言わなかった。ペンの先を、帳面の上で止めていた。
「それは、見たことですか。考えたことですか」
十四日、窓口へ行く道で、リアは同じ目で、俺の記録の全文を言わせた。
「……考えたことだ」
「未測定の人が止められたのを、見たことは、ありますか」
「ない」
少し考えてから、足した。
「俺は、今日だけで六回、通された」
「それは、見たことですね」
リアは、帳面に線を一本、横に引いた。線の上に何か書き、線の下に何か書いた。どちらが見たことで、どちらが考えたことなのか、俺には読めない。けれど、二つが別の場所に置かれたのは分かった。
リアは、どちらがいいとも言わなかった。
二十一日、下の船着場で、俺は上がった刻みだけを索に結んだ。このまま降れば、は結ばなかった。リアがしていたことを、リアのいない所でしていた。
今、リアは、俺の言ったことを、見たことと考えたことに分けて書いている。
言い直されたのではない。置き場所を、分けられただけだ。
書いたものを、リアが明日どうするのかは、聞かなかった。
小屋の中で、帳面を閉じる音がした。
戸口から、年長のほうが顔を出した。
「明日は、点検の日だ」
リアが、顔を上げた。それから、帳面に一行、書き足した。
十六日の夕方にも、この人は、同じことを言った。
*
寝台小屋は、屋根が低かった。藁の匂いがした。
隣の寝台で、若いほうが寝息を立てている。奥のほうで、年長のほうが一度だけ咳をした。壁の向こうから、水門の水の音が、低く続いていた。
懐から銅貨を出して、板の隙間から入る明かりで数えた。
三十三枚。
今日の手間賃が二十。粥が二杯で十。寝台が四。差し引きで、六増えた。明日も仕事があれば、また六増える。
板の隙間から、詰所の窓の灯が見えた。その手前に、札の杭が白く立っている。
札は、俺みたいな者のために立っている。俺は、明日もあそこを通る。
照会の返事が来たら、リアは土手道へ出る。点線の先を、描きに。
十六日、俺はあの土手道を、一人で村まで歩いた。堰を越えると、水路はすぐに細くなって、畑の中へ分かれていった。村から先は、俺も知らない。
そのとき、俺は、どうするのか。
上の門の向こうへ行くのか。
……一人で、行かせていいのか。
そう思いかけて、どこかに小さく引っかかった。何に引っかかったのかは、分からなかった。寝返りを打った。
藁が、かさりと鳴った。
十六日の夕方、水位標の前で、札を下げた雨具の男が、杭を二度測った。河務局だよ、明日は点検の日だ、と年長のほうは言った。
次の朝、その男は、オルドと名乗った。
明日は、点検の日だ。




