EP.31 照会
日が落ちきる前に、船頭が船べりで小さな焜炉に火を入れた。
鍋に、水と麦と、塩をひとつまみ。塩は、昼に村へ渡した俵からこぼれた分だった。
湯気が上がると、船頭は木の椀に粥をよそって、俺に突き出した。
「食え」
「銭は——」
「一人分も二人分も、同じ鍋だ」
椀は熱かった。両手で持って、船べりに腰を下ろした。
土手道のほうから、車輪の軋む音が聞こえてきた。
空の荷車が、二人に押されて下りてくる。前を押しているのが年長のほう、後ろが若いほうだ。十五日、この船着場で俺たちを迎えた、ローデルの上流組の二人。
荷車は、札の横を通った。紺の上着の男は、二人の顔を見ただけだった。
年長のほうが、荷受け小屋の戸の閂を外した。戸が開き、しばらくして、窓に灯が入った。
石段にいたリアが、立ち上がった。
帳面を胸に抱えて、年長のほうの前まで行く。何か言った。声は、ここまでは届かない。年長のほうが顎をかいて、屋根の低い寝台小屋のほうを指した。リアは胸の内側から小さな袋を出して、銅貨を何枚か、年長のほうの手のひらに置いた。
それから、私物の包みを持って、寝台小屋へ入っていった。
声をかけようとして、やめた。椀を持ったまま、俺は船べりに座っていた。
今夜どうするのか、聞くまでもなかった。リアは、もう決めていた。
俺は、まだ何も決めていない。
明日、六時だ。船頭はそう言った。俺は、聞こえました、とだけ答えた。
粥をすすった。昼の塩の味がした。
照会。
十四日、河務局の窓口で、ミラさんが船着場の係の男に言った言葉だ。迷ったときは、台帳を照会してください。そのための窓口です。
あの男は、迷っていなかった。線は、字じゃない。迷わずに、そう言った。
なら、照会を出してくれ、と頼めばいい。
今度は、大きな声を出さない。
空の椀を、船べりに置いた。
「ごちそうさまです」
船頭は、鍋をかき回しながら顎を上げた。
詰所の窓にも、灯が入っていた。
*
石積みの小屋の戸は、半分開いていた。
戸に手をかけたところで、中から声がした。
「札には、照会を待つこと、とあります」
リアの声だった。
手が、止まった。
戸の隙間から、中が見えた。小さな机に、灯がひとつ。紺の上着の背中。その向かいに、リアの横顔。灯に寄ってきた羽虫が、机の紙の上に小さな影を落としていた。
「待つには、照会が出ていないといけません」
男は、すぐには答えなかった。
「照会は、誰が出しますか」
長い間があった。
「……照会を出すのは、あんたが最初だ」
男の声は、昼と同じに平らだった。
「今月からの決まりだ。止めたのも、あんたが初めてだ」
少しして、男は机の引き出しから紙を一枚出した。
「書付は、俺が書く。支局へ」
「控えの番号は、これです」
リアが、胸の内側から紙を一枚出して、机に置いた。二十六日に、ミラさんが読み上げて渡した三枚のうちの一枚だ。本人用の控え。リアの指が、紙の端の一行を押さえていた。
「カーヴェル支局の、読取所の、ミラさんです。五月二日に、私の板を測り直した人です」
男のペンが動いた。番号を写す。名前を書く。日付を書く。
「写しを、一枚、私にもください」
ペンが、止まった。
「写し?」
「私の照会なので」
男は、リアを見た。それから、何も言わずに二枚目の紙を出した。
ペンの音が続いた。羽虫が一匹、灯の覆いに当たって、机に落ちた。
俺は、戸口に立ったままだった。
照会を出してくれ。それを言いに来た。
リアは、もう言っていた。番号まで持っていた。俺は、控えに番号が書いてあることも知らなかった。
口は、出さなかった。昼の「ユートさん」が、まだ耳に残っていた。
男が、二枚の紙を並べて見比べた。一枚を折り、もう一枚をリアに渡した。
「下りの便は、明日の朝だ。返事は、早くて二日。六日は門の休みだ。三日は見とけ」
「はい」
「その間、土手道には出せん。船着場にいるのは、構わん。宿と飯は、自分でな」
「寝台は、借りました」
男が、少しだけ眉を上げた。
「……手回しがいいな」
リアは写しを帳面に挟んで、立ち上がった。
戸口で、リアが俺を見た。
逃げる場所は、なかった。逃げるつもりも、なかった。
「……聞いていましたか」
「……途中から」
リアは、責めるような顔はしなかった。帳面を、胸に抱え直した。
「照会を、出してもらいます。明日の朝の、下りの便で。返事は、三日です」
「……そうか」
リアは、寝台小屋のほうへ歩いていった。
明日の船のことを、言いかけた。
言えば、リアは何と言うだろう。
そう考えているうちに、背中は灯の届かない所へ行ってしまった。
三日。
リアは、ここで、土手道に出られないまま、三日待つ。
明日の六時、船は上の門を越える。
*
苫の下は、麻袋の匂いがした。
船頭は梁に小さな灯を吊るして、古い索の端を撚り直していた。
俺が這い込むと、手を止めずに言った。
「何だ」
「明日の船、降ります」
撚っていた指が、止まった。
船頭は、灯の下で俺を見た。しばらく、何も言わなかった。
「……前の日に、言いに来たか」
「はい」
「記録の子と、同じ言い方だな」
二十九日、リアはこの船頭の前で指を折って、条件を四つ言った。三つ目が、それだった。やめるときは、前の日に言う。
「何で降りる」
「照会の返事が来るまで、ここにいます」
船頭は、索の端を膝に置いた。
「あの子が、残れって言ったのか」
「言ってません」
答えは、すぐに出た。
「俺が、決めました」
言ってみると、胸のどこかが少し軽くなった。自分で決めた、と口に出せるのは、悪くなかった。
リアの行き先は、リアが決める。俺の行き先は、俺が決める。二十六日、支局の外で、一人で橋のほうへ歩いていくリアの背中を見ながら、そう思った。
だから、これは俺が決める。リアに聞くことじゃない。聞けば、リアに、俺の行き先を決めさせることになる。
船頭は、長いこと黙っていた。
水が、船底を打った。吊るした灯が、少しだけ揺れた。
「……水が来た所を、見に行くんじゃなかったのか」
二日の昼、この船の横で、俺はそう言った。何しに上る、と聞かれて。
「後で、行きます」
「後で、か」
「水は、逃げないので」
船頭の肩が、一度だけ揺れた。笑ったのか、呆れたのか、分からなかった。
「そうかい」
撚りかけの索を、また手に取った。
「上の門の先は、俺一人で曳く。前は、そうしてた」
「すみません」
「謝るこたねえ。前の日に言いに来たんだ」
指が、また動き出した。
「手間賃は、今日の分で終いだ。今夜は、ここで寝てけ。六時前に、降りろ」
「はい」
船頭の横で、懐の銅貨を出して、灯の下で数えた。
二十七枚。
寝台と、粥と、パンで、一日十三枚。二日と少し。照会の返事は、三日。
明日から、日雇いを探せばいい。船着場なら、荷はある。
銅貨を、懐に戻した。
苫の隙間から、上の門の黒い影が見えた。
水が来た所は、あの向こうにある。
照会が済んでからでいい。水は、逃げない。
あの子が残れって言ったのか、と船頭は聞いた。
言われていない。
だから、俺が決めた。
*
夜明け前の水は、昨日の朝と同じ、黒に近い青だった。
苫から這い出して、船を降りた。岸の石が、夜露で濡れていた。
上の門の石の壁が、白みはじめた空に黒く立っていた。扉は、まだ閉じている。
寝台小屋の戸も、閉じていた。荷受け小屋の窓に、灯はもうない。詰所の窓にだけ、小さな明かりが残っていた。
船頭が、舵のそばで鉤竿を手に取った。
「ほどけ」
昨日の朝と、同じ言葉だった。
杭の前にしゃがんだ。索は、昨日の昼に俺が結んだままだった。手首を二度返した結び。一握りの余り。
ほどく前に、一度だけ手が止まった。
今、跳び乗れば、まだ間に合う。昨日の朝と同じ船で、同じ索を持って、上の門を越えられる。
手を、動かした。逆にたどって、ほどいた。
索を輪にまとめて、船へ投げた。輪は船べりを越えて、荷の上に落ちた。
今度は、一度で届いた。
船頭が索を拾って、足元に放った。それから、岸の俺を見た。
「……物好きだな」
二日の昼、上へ行くと言ったときと、同じ言葉だった。今度は、残るほうに言われた。
鉤竿が、岸の石を突いた。こつん、と乾いた音がした。船が、岸を離れた。
水面に、薄い霧が残っていた。船は、その中を門のほうへ進んだ。
門のほうで、扉の開く重い音がした。六時だ。
船は、門の下の扉の中へ、ゆっくり入っていった。船頭は、前だけを見ていた。
扉が、閉まった。
重い、長い音だった。昨日、市内の門の中で、俺はこの音を背中で聞いた。今朝は、岸で聞いた。
昨日の朝、俺は、ほどいて、乗った。
今朝は、ほどいて、残った。
手のひらには、索の擦れた跡だけがあった。
*
門の中で、水が鳴りはじめた。
石の壁の向こうで、船が持ち上がっていく。見えなくても、音で分かった。昨日、市内の門の中で、俺はこの音を聞きながら索をたぐっていた。
寝台小屋の戸が開いた。
リアが出てきた。帳面を胸に抱えている。
リアは、岸に立っている俺を見た。それから、杭を見た。索のない杭を。それから、門を見た。
「……乗らなかったんですか」
「降りた。昨日の夜、船頭に言った」
少し、間を置いた。
「前の日に」
リアは、すぐには何も言わなかった。
「……どうして、ですか」
「照会が済むまで、ここにいる」
リアの唇が、動いた。
「残ってくれとは、……」
そこで、止まった。
続きは、来なかった。リアは、帳面の角を指で押さえていた。
残ってくれとは、言わなくていい。
言われなくても、俺は残る。
「……そうですか」
リアの声は、それだけだった。
門の上のほうで、扉の開く音がした。鉤竿の船頭の船が、上の水へ出ていったのだ。
しばらくして、門の下の扉が、また開いた。出てきたのは、上から下りてきた荷船だった。袋を積んで、船べりが水に近い。荷船は門を出ると、船着場に寄ってきた。
詰所の戸が開いて、紺の上着の男が出てきた。手に、折った紙を一枚持っている。
「カーヴェルの支局へ。窓口だ」
荷船の船頭が紙を受け取り、懐にしまった。うなずいて、竿で岸を突いた。
リアは、その船を見ていた。
船が下流へ小さくなっていくあいだに、リアは帳面を開いて、何か書いた。何を書いたのかは、俺には読めない。リアも、読み上げなかった。
帳面を閉じて、リアは荷受け小屋のほうを見た。
「荷受け小屋で、仕事があるか、聞いてきます」
「……うん」
リアは、歩いていった。振り返らなかった。
俺は、一人で岸に残った。
上の門を、見上げた。石の壁と、木の扉が二枚。扉は、もう閉まっている。
水が来た所は、あの門の向こうにある。
今は、ここでいい。




