EP.30 詰所
「塩は、ここで下ろす。受け取るのは、土手道の先の村だ」
船頭が、顎で土手道を指した。小屋の角から八十歩先、四本の杭の横に、荷車が一台止まっている。荷車の待つ場所。十六日の朝、リアが木槌で打った目印だ。
ほどなく、土手道を手押し車が下りてきた。
押しているのは、日に焼けた腕の若い男だった。札の横を下りてくるとき、紺の上着の男は顔を見ただけだった。板を見るのは、土手道へ出ていく者だけらしい。
手押し車が、船の横まで来た。若い男は俺の顔を見て、目を細めた。
「あんた、十六日の。……結び目の」
車軸の割れた荷車の家の、息子だった。あの日、この手押し車で、二人で袋を二往復運んだ。
「ユート」
「今日は、結ばないのか」
「数えるのは、あっちだ」
船べりで、リアが俵の一つ一つに指を置いていた。手押し車に積むたびに、帳面に短い線を一本引く。
俵を、船べりから抱えて下ろした。思っていたより重い。袖に、白い粉が残った。唇に触れた粉が、しょっぱかった。
四俵積んで、二人で押した。
札の前で、手押し車を止めた。
「板を」
紺の上着の男が言った。近くで見ると、首筋が日に焼けて、襟に汗がにじんでいた。
懐から板を出して、読み取り面を開いた。男は顔を寄せて、一行ずつ目でたどった。
「ユート。仮登録。職業、未測定」
少し、間があった。
「……字は、あるな」
男は腰の帳面を開き、短いペンで何か書いた。
「通っていい」
手押し車を押して、札の横を抜けた。
字は、あるな。
男は、そう言った。俺の欄には、測っていない、と書いてあるだけだ。それで、通れた。
今朝、リアの帳面に、俺の名前はなかった。今、知らない男の帳面に、俺の名前がある。
杭の横で、荷車に俵を移した。戻って、また積んだ。
二往復目も、三往復目も、男は板を見た。息子の板も、毎回だった。
「月が替わってからだよ、これ」
息子が、板をしまいながら小声で言った。
「毎日、見せる。畑に出るのにもさ」
月が替わってから。十六日には、なかったわけだ。
三往復目の帰り、札の横で、船のほうを見た。
船べりで、リアが帳面に線を引いていた。
リアの欄には、字の代わりに、線がある。
言いに行こうか、と思った。
何を言う。男がまだ見ていない板の読み方を、俺が先に言うのか。それは、たぶん、を結ぶのと同じだ。
手押し車の柄を、握り直した。
*
四往復目を終えて船に戻ると、船べりの俵は、あと四つだった。
最後の四俵を積んだ。リアの指が、四つ目の俵の上で止まった。
「二十俵」
帳面に、線を一本。
「……済みました」
「合ってる」
息子が、手押し車の縁を叩いた。
リアはその場で帳面に向かい、頁を一枚、写した。同じ数を、同じ順に。書き終えると、元の頁を切り取って、船頭に差し出した。
「受け渡しの記録です」
船頭は頁を受け取り、リアの手元に残った写しを見た。
「写しは」
「私の分です。四つ目の条件です」
「……口の多い奴だ」
船頭は腰の革袋をほどき、銅貨を一枚ずつ、リアの手のひらに置いた。
数えるつもりはなかったのに、数えていた。二十枚。俺の手間賃と、同じだった。
「記録は、ここまでだ」
「はい。ここまでです」
リアは銅貨を小さな袋に入れて、上着の胸の内側にしまった。入れ替わりに、たたんだ紙が出てきた。
見取図だった。
リアは紙を広げずに、土手道のほうを見た。札の先。四本の杭。その先の、畑のあいだを細くなっていく水路。
「村まで、描きます。今日のうちに」
「村まで、か」
それ以上は、言わなかった。
点線の先は、自分の用で行けるようになってから、描きます。二十二日、宿舎の石段で、リアはそう言った。
今日が、その日だ。
俺の行き先は、杭の横の荷車までだった。同じ土手道の、八十歩だけ。
四俵を押して、札の前で止まった。
「板を」
息子が、ため息まじりに板を出した。
「五回目だよ」
男は、板から目を上げずに言った。
「五回目だな」
笑いそうになって、こらえた。
*
杭の横で、最後の俵を荷車に移した。
肩から、重さが抜けた。息子が荷台に縄を掛け始める。俺は手押し車の柄を離して、振り返った。
札の前に、リアが立っていた。
板を、開いていた。紺の上着の男が、読み取り面に顔を寄せている。
男の手が、横に伸びた。
リアは、その手の前で止まった。
八十歩も離れているのに、それだけは、はっきり見えた。
「これ、頼む」
手押し車を息子に預けて、走った。
八十歩は、リアが数えた歩数だ。俺は数えずに走った。乾いた土が、足の下で鳴った。
近づくと、声が聞こえた。
「カーヴェル支局の、移動文書です」
リアが、折りたたんだ紙を広げて差し出していた。角は、まだすり切れていない。二十六日に、ミラさんが渡したものだ。
男は文書を受け取り、最後まで目を通した。
「文書は、見た」
文書を返し、札を指した。
「札が言ってるのは、欄のことだ」
男の目が、リアの板に戻った。
「職業、……線か」
「はい」
「欄に字のない者は、照会まで通せない」
俺は、札の前で止まった。息が上がっていた。
男が、俺を見た。
「あんたは、いい。さっき見た」
俺は、いい。
男の手のひらは、まだリアの前にあった。腰の短い棒には、触れてもいない。手のひらだ。それだけで、リアは止まっていた。
守らなきゃ、と思った。
この世界に来て、そう思ったのは、初めてだった。
昼前、船頭が舵のことを聞いたとき、俺は黙った。聞かれたのは、リアだったからだ。
今は、違う。これは、頼みごとじゃない。リアが、止められているんだ。
さっき、言いに行かなかった。字は、あるな、と男が言ったときに、もう見えていたのかもしれないのに。
だから、今は言う。
半歩、男とリアのあいだに入った。
「この人は、自由民だ」
「板に、そう出ている」
「文書もある。支局の文書だ」
「文書は、見た、と言った」
男の声は、変わらなかった。
「線は、表示だ!」
思ったより、大きな声が出た。八十歩先で、荷車の横の息子が顔を上げた。
「読取所で、測り直したんだ。板も、器具も替えて。有効な観測だって、登録官が……」
「俺は、読取所の者じゃない」
「なら、あんたが、読み違えてるだけだ」
言ってから、喉の奥が熱くなった。こんな声を、この世界で、誰かに向けたことはなかった。ラートさんにも、言わなかった。
男は、手のひらを下ろさなかった。前へも出なかった。
「大きな声を出すな」
静かな声だった。
「声で、札の字は変わらん」
拳を、握っていた。いつ握ったのか、覚えていなかった。
リアがどんな顔をしているのかは、見ていなかった。俺は、男の手のひらだけを見ていた。
*
「ユートさん」
後ろから、リアが言った。
一語だけだった。
口を、閉じた。
リアが、俺の後ろから横へ出た。俺の肩の横に、リアの肩が並んだ。それから、もう半歩、前へ出た。男の手のひらの、すぐ前まで。
「表示のない者、とは、どういう者ですか」
男が、リアを見た。
「欄に、字のない者だ」
「字の代わりに、線があります」
「線は、字じゃない」
リアは帳面を開いた。
「今の言葉を、書いてもいいですか」
男は、少し黙った。
「……書けばいい。決まりは、決まりだ」
リアのペンが動いた。何を書いたのかは、俺には読めない。けれど、長くはなかった。男の言ったことの、長さだった。
ペンを止めて、リアは男の腰の帳面を見た。
「あなたの帳面には、何と書きましたか」
男は帳面を開いて、読んだ。
「リア・セルヴィ。職業欄、表示なし。照会待ち」
「表示なし、ではありません」
リアの声は、高くも低くもならなかった。
「線です。そう、書いてください」
男は、しばらくリアを見ていた。それから、帳面に目を落とした。
「……線、だな」
短いペンが、一語の上に横線を引いた。その横に、何か書き足した。
「照会待ちは、そのままだ」
「はい」
リアは、帳面を閉じた。
「今日は、行きません」
背を向けかけたリアに、男が言った。
「照会が済めば、通す。誰でもだ」
リアは、小さく頭を下げた。
「リア……」
続きは、出てこなかった。
リアは、土手道の先を見た。荷車の横で、息子が手押し車の柄を持って立っている。
「手押し車を、返してきてください。まだ、向こうにあります」
それだけ言って、リアは船のほうへ歩き出した。
俺は、札の前に戻った。
「板を」
読み取り面を開く。男は、ちらりと目をやった。
「通っていい」
八十歩を、一人で歩いた。
リアの見取図で、点線の手前の、実線の八十歩だ。リアが数えて、引いた線だ。
杭の横で、振り返った。
札の向こうで、リアは船のほうへ歩いていた。
振り返らなかった。
通してくれ、とは、リアは一度も言わなかった。
直させたのは、通り道ではなかった。帳面の、一語だった。なぜそれが先なのか、俺には分からなかった。
読み違えている、と俺は言った。
札の字を、一つも読めない俺が。
*
日が傾くと、水門の石の壁の影が、船着場の半分を覆った。
荷受け小屋の戸は、まだ閉まっていた。
その石段に、リアが座っていた。膝の上に帳面を開き、横に小さな包みを置いている。宿舎から受け取った、私物の包みだ。見取図は、たたんだまま帳面の上にあった。
船頭が、船べりから俺を呼んだ。
「今日の分だ」
銅貨を、二十枚。手のひらで、今朝の七枚と重なった。二十七枚。
今朝、今夜の粥と寝台で足りなくなる、と数えた。その心配は、もうなかった。
「明日、六時だ」
船頭は、上の門のほうへ顎を上げた。石の壁と、木の扉が二枚。
「上の門の、一番目だ。門の先の船着場まで、日のあるうちに着きてえ」
はい、と言うつもりだった。
口が、動かなかった。
船頭が、俺を見た。
「聞こえたか」
「……聞こえました」
船頭は何か言いかけて、やめた。鼻を鳴らして、苫の下へ潜っていった。
石段のほうへ、一歩出た。
今夜、どうするんだ。
聞きかけて、足を止めた。聞いて、どうする。何と答えられたら、俺はどうするつもりなのか。それが、自分でも分からなかった。
小屋の角で、紺の上着の男が詰所の灯を点けた。石積みの窓に、小さな明かりが入った。
暗くなるほど、札の杭は白く見えた。
今朝、俺の行き先は、上の門の向こうだった。水が来た所を見に行く。誰のためでもなく、自分で決めた。
明日の六時、船は上の門を越える。
リアは、札のこっち側に残る。
やめるときは、前の日に言います。五月二日の夕方、リアがそう言って、俺も、そうする、と答えた。
前の日は、今日だった。




