EP.29 上りの船
五月三日、まだ暗いうちに目が覚めた。
船宿の共同寝台で、手のひらに銅貨を並べた。
七枚。
二十九日の朝は、二十五枚あった。三十日は門の休みで、積み込みもなかった。一日は荷を積んで、手間賃が二十枚。二日は読取所にいて、船着場へ来たときには荷はもう積み終わっていた。
パンと粥と寝台で、一日に十三枚。今日の手間賃が出なければ、今夜の粥と寝台で足りなくなる。
数えるだけ数えて、懐にしまった。
外へ出ると、水はまだ黒に近い青だった。
鉤竿の船頭の船の横に、もうリアがいた。
積み上がった荷の前にしゃがんで、指で一つずつ触れていく。麻袋の束。塩の俵。膝の帳面に、数えては書く。上着の胸が、四角くふくらんでいた。見取図と、移動文書と、板。
苫の下から、船頭が顔を出した。
「……早えな」
「数え直しています。昨日の夕方から、誰かが触ったかもしれないので」
リアは顔を上げずに答えた。船頭は鼻を鳴らして這い出し、俺とリアを順に見た。
「記録は、上の船着場の受け渡しまでだ。上の門の先は、索の奴だけだ」
リアがうなずき、俺もうなずいた。どちらも、自分で決めてきたことだった。
俺は杭の前に立った。索は、昨日の夕方のまま、一握りの余りを残して杭に巻いてある。
水門のほうで、扉の開く重い音がした。六時だ。
リアのペンが動いた。
「三日。六時。麻袋、八束。塩、二十俵」
小さな声が、数のところだけ、はっきりした。
「書けたか」
「書きました」
船頭が、俺を見た。
「ほどけ」
手首を二度返した結びを、逆にたどってほどく。索が、杭から離れた。
二十九日、サナの乗った船の索も、こうして岸を離れていった。俺は岸で見ていた。今日は、俺の手からほどけていく。
船が、岸を離れた。
リアの帳面に書かれるのは、荷の数と、受け渡しの時刻だけだ。人の名前は書かない。ローデルでは、リアは毎朝、人数の欄を書いていた。
今日の帳面に、俺はいない。
それでいい、と思った。今朝、俺が数えたのは、自分の銅貨だけだ。ほどくのは、俺の役だ。
*
船は、門の順番の一番目だった。
門の下の扉が、両側へ開いていた。その奥に、石の壁で囲まれた細長い水がある。上りの船はここへ入って、後ろの扉を閉め、水ごと持ち上げてもらう。
入る手前で、門の脇の岸壁が目に入った。
細い足場。途中で一段低くなった継ぎ目。その先の、柵に囲まれた台。石段と、上の道への扉。
石は、どれも乾いていた。
台の柱の低い所に、黒く錆びた鉄の把手があった。
水から、腕一本ほど上に。
二十三日、あの把手から水面までは指一本になり、それから水の下へ沈んだ。サナが濡れた板に腹ばいになって、肘まで水に入れて引いた。
あそこまで、水が来ていたのだ。
荷のあいだで、リアの顔がそっちを向いたのが分かった。
「投げろ」
船頭の声で、目を戻した。
「輪にして。あの杭だ」
頭の上、門の中の壁の縁に、太い木の杭が並んでいる。俺は索の端で輪を作り、腕を振って投げた。
輪は杭に届かず、壁に当たって落ち、水をはたいた。
しぶきが、顔にかかった。
船頭が、鉤竿にもたれて俺を見た。
「……結ぶのは上手えのにな」
二度目は、腕だけでなく腰から振った。輪が、杭の頭にかかった。
「金具に、ひと巻き。結ぶな」
「水が入ると、船は前へ引かれる。持ち上がった分だけ、たぐれ」
後ろで、下の扉が閉まった。重い、長い音だった。
それから、門の奥で水が鳴った。底のほうから、泡が湧き上がってくる。舳先が、ぐっと前へ引かれた。
索が張った。
金具のひと巻きが、きしんだ。手のひらで索が擦れる。俺は体を後ろへ倒して、持った。
結んでいたら、結び目ごと持っていかれる。ひと巻きなら、手で加減できる。
リアが、張った索の下に座っていた。ちょうど、内側だ。
「リア。そこ、索の内側だ」
「はい」
リアは帳面を抱えて、荷の反対側へ移った。何も聞き返さなかった。
索は、俺の持ち場だ。
船が、持ち上がっていく。壁の石の、濡れて黒い筋が、一段ずつ下へ沈んでいく。索が緩む。たぐる。また緩む。たぐる。
環に、ひと巻きしろ。
二十三日、トーマはそう言った。俺は同じ言葉のまま、それを奥へ運んだ。巻いたのは、背の高い男の手だった。俺の手は、何も握っていなかった。
今日は、俺の手が巻いている。
上の扉が開くころ、船は街の水の高さにいた。
扉の脇に、水門番が立っていた。十八日、扉の軸に油を差していた男だ。
「……今日は、乗るほうか」
「はい」
水門番は、顎を一度だけ上げた。
*
門を出ると、倉の並ぶ岸になった。
船頭が鉤竿で岸の石を突くたびに、こつん、と乾いた音がした。
七時を過ぎたころ、見覚えのある岸が近づいてきた。
ローデルの荷揚げ場だ。
地面に引かれた白線。その角。
角の手前で、トーマが膝をついていた。
肩幅ごとに結び目のある索を、白線に当てている。十七日、角の幅を測るのにトーマが結び直した物差しだ。角から樽の置き場まで、結び目を一つずつ数えている。
残って、書く。二十九日、トーマはそう言った。
本当に、書いている。
竿の音に、トーマが顔を上げた。こっちを見た。俺を見て、それからリアを見た。
何も言わなかった。
片手を、上げた。二十九日、下りの便のサナに上げたのと、同じ手だった。
俺も、上げた。
リアは帳面を胸に抱えたまま、小さく頭を下げた。
荷揚げ場が、後ろへ流れていく。倉の陰に入る前に、トーマはもう白線のほうへ顔を戻していた。
リアは、振り返らなかった。
膝の上に見取図を広げて、街の線の上に指を置いていた。その指が運河の線をたどって、上流のほうへ、少しずつ動いた。
俺も、前を向いた。
残るのは、トーマだ。
俺は、上る。
*
家がまばらになり、やがて畑になった。
風は、朝から一度も吹かなかった。
「降りろ。曳くぞ」
曳舟道へ跳び移って、曳き索を肩に掛けた。麻が、手のひらの擦れ跡の横に食い込む。
背を起こす。足で歩く。十五日に、曳き手の若い男が見せてくれた歩き方だ。
船が、ゆっくりついてきた。
青い麦が、腰の高さまで伸びていた。十五日より、ずっと高い。
最初の曲がりが来た。
「曲が……」
船頭の声が終わる前に、俺の足は、もう曲がりの外側にあった。船の尻が振れて、索が内側の草を低くなでていった。
船頭は、何も言わなかった。次の曲がりでも、何も言わなかった。
誰に習った、とは、もう誰も聞かない。
長い直線に入った。
両側は、畑ばかりだった。日が高くなって、首筋に汗がにじむ。
「遅えな」
船頭が、空を見上げた。
「昼までに着きてえ」
それから、荷のあいだに座っているリアを見た。
「記録の。舵、持てるか。まっすぐにしときゃいい。俺も降りて曳く」
俺は、口を開いた。
「俺が一人で……」
そこまで出かかって、止めた。
聞かれたのは、リアだ。
リアが、膝の見取図から顔を上げた。
「書くのは、荷の数と、受け渡しの時刻だけです」
船頭が、眉を上げた。
リアは、少し間を置いた。
「……舵は、持ったことがありません」
船頭は、しばらくリアを見ていた。
「……ああ。そう言ってたな」
舵を握り直した。
「なら、座ってろ」
それで終わった。船頭は舵に残って、鉤竿で岸を突いた。俺は、一人で曳いた。
肩の索が、さっきより重くなった。来るはずだった船頭の分の力が、来ないのだ。
嫌かどうかを、聞かれたことがありません。
十四日、帳場の階段で、リアはそう言った。
今日、リアは聞かれた。そして、断った。
断った分だけ、索が重い。
それが、少しも嫌ではなかった。
さっき、俺が先に「一人で曳きます」と言っていたら、リアは聞かれずに済んだ。けれど、聞かれずに済むことと、断れることは、同じではない。
「昼過ぎだな、こりゃ」
船頭がぼやいた。怒ってはいなかった。
索を肩に、歩いた。
二十一日の夜、船宿の寝台で雨の音を聞きながら、この水はどこから来ているのかと、初めて思った。
誰かに行けと言われた所ではない。誰かのために行く所でもない。知らない所へ、自分で決めて向かうのは、この世界に来て初めてだった。
俺は、曲がりを数えていた。
リアも、数えていた。見取図の運河の線の上で、曲がりのたびに指が止まり、また動く。十五日、リアが船の上で描き足した線だ。
五つ。六つ。
七つ目の曲がりを、船がゆっくり回った。
俺は、黙っていた。
「七つ目です」
リアが言った。
その声で、肩の索が少し軽くなった気がした。もうすぐ着くからだ、と思った。
運河の先に、石の壁と、木の扉が二枚、見えてきた。
*
船着場に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
門の手前の岸に、荷受けの小屋と、屋根の低い寝台小屋。十五日と同じ並びだった。
荷受け小屋の戸は、閉まっていた。
船頭が、水位標を見上げた。
「足りてるな」
十五日は、この杭の前で、刻みが三つ足りなかった。その三つを、二十日の夜からの雨が埋めた。水は、上から来ていた。
俺は、岸の杭に索を結んだ。手首を二度返す。余りを、一握り。
締めるとき、指先が水に触れた。
冷たかった。指の骨まで、しんとした。
上の水は冷てえぞ、と船頭は言った。本当だった。
水門の脇に、石積みの小さな小屋がある。十五日にもあったが、何の小屋かは気にもしなかった。
今日は、荷受け小屋の角に、男が一人立っていた。紺の上着。胸に、河務局の小さな札。腰に、短い棒。
二十三日、足場の入口に立った警備と、同じ上着だった。
荷受け小屋の角から先が、土手道だ。
その入口に、新しい杭が一本立っていた。木の肌が、まだ白い。打ちつけた板に、黒い字が何行か並んでいる。
十六日の朝、俺はここから一人で、土手道を村へ歩いた。
こんな札は、なかった。誰も、俺の板を見なかった。
札の向こう、土手道の脇に、古い杭が四本並んでいた。小屋の角から八十歩。十六日の朝、リアが木槌で打った、荷車の待つ場所の目印だ。
四本とも、まだ立っていた。
リアが船から下りてきて、札の前で足を止めた。
俺には、字が読めない。
「何て、書いてある」
リアは札を見上げた。唇が、声を出さずに一度動いた。それから、読んだ。
「土手道へ出る者は、詰所に板を示すこと」
次の行。
「職業欄に表示のない者は、台帳の照会を待つこと」
最後の行。
「河務局、カーヴェル支局」
リアは、しばらく札を見ていた。
それから、その向こうを見た。八十歩先の、四本の杭を。
口は、開かなかった。
表示のない者。
リアの職業欄には、字の代わりに、横に一本の線がある。二日、読取所で、ミラさんは言った。未測定とは、違います。無職とも、違います。
線は、表示だ。
たぶん。
——たぶん、は、結ばない。
結ぶのは、見たものだけ。あの紺の上着の男が線をどう読むのかを、俺はまだ見ていない。
大丈夫だ、とも言わなかった。言えば、見ていないことを、見たことにしてしまう。
リアが、札から目を離した。
「先に、受け渡しを書きます」
帳面を開きながら、船へ戻っていく。船べりで、船頭が塩の俵に手をかけて待っていた。
俺は、札の前に残った。
畑の男が一人、紺の上着の男に板を見せた。男は読み取り面にちらりと目をやって、うなずいた。
小屋の角の新しい札と、八十歩先の古い杭のあいだを、畑の男は、板をしまいながら歩いていった。




