グレイスに行くぞ
翌朝。レイジが目を覚ましても、エレノアは起きてこなかった。
予想通りだった。三日間ほとんど研究室から出ず、最後には目の下に大きな隈を作って寝室へ消えていったのだ。こうなると、一日や二日は起きてこない。
最初の頃は心配したが、今はもう慣れた。
レイジは寝室の前を素通りし、顔を洗ってから台所へ向かった。壁際の保存庫を開くと、中から冷気が流れ出す。昨夜のキノコスープが残っていた。
鍋を取り出して調理台の窪みに置き、横に埋め込まれた魔石へ触れる。鍋の底がゆっくりと温まり始めた。その間にパンを切り、飲み物を用意する。
一年も暮らしていれば、この辺りの使い方にもすっかり慣れた。火を起こす必要はない。水はいつでも出る。食材は長く保存できるし、風呂では好きなときに温かい湯が使える。
初めてこの家で目を覚ましたときには、異世界という割にずいぶん便利だと思ったものだ。今では、それすら考えなくなっていた。
温まったスープを器へ移し、一人で朝食を済ませる。食後、居間へ向かう途中で玄関脇に置かれた新聞に気づいた。
王立新聞。
毎日届くそれを拾い上げる。エレノアが飼い慣らしているフライングチキンという魔物が、毎朝届けてくれるのだ。
普段ならエレノアが先に読むことが多いが、今日はまだ寝ている。レイジは新聞を広げた。
一面の大きな見出しが目に入った。
『セレスティア所有のオリハルコン消失――保管先イステンデット物流倉庫で大量の鉄鉱石』
「……オリハルコン?」
聞いたことはある。錬金術を学んでいれば嫌でも出てくる希少素材だ。実物を扱ったことはないが、高級な魔道具などに使われるらしい。
記事によれば、鉱山都市グレイスで採掘されたオリハルコン鉱石をセレスティア・アルケミーが購入し、輸送までの間、イステンデット物流が管理する倉庫に保管していた。
ところが、出荷前の確認で問題が起きた。
保管されていたはずのオリハルコン鉱石が消え、代わりに大量の鉄鉱石が残されていた。すでに警察も入り、盗難事件として調査が始まっているという。
「これ、結構大規模な盗難事件じゃん」
セレスティア・アルケミーとイステンデット物流。どちらも、ルヴェリア王国に存在する七つの大企業に名を連ねるうちの一つだ。
そんな二社の間で起きた盗難事件なら、一面になるのも当然だろう。しかも盗まれたのは大量のオリハルコン。金額がいくらになるのかは分からないが、安いはずがない。
「イステンデット物流、大変だな……」
預かっていた高価な鉱石が、自分たちの倉庫から消えたのだ。管理していた側としては、相当面倒なことになっているだろう。
レイジは新聞を畳み、テーブルの端へ置いた。師匠が起きたら聞いてみようと思ったが、それ以上気にすることもなく、いつもの生活へ戻った。
朝の運動をして、身体を拭く。
サボれば、エレノアが寝ている間であっても、左腕の魔道具から寝ぼけた声が飛んでくる。最近はむしろ、エレノアが寝ているときの方が真面目に取り組んでいた。
寝ている師匠にまで怒られるのは、なんとなく嫌だった。
午前中は錬金術の復習。昼になれば保存庫から食材を出して簡単に料理を作り、食べ終えた皿や鍋は流しの横に置かれた洗浄用の魔道具へ入れる。魔石に触れてしばらく待てば、汚れが落ちる。
午後も勉強を続けていると、夕方には部屋の照明が灯った。外が暗くなれば勝手に明るくなる。それにも、もう驚かない。
問題があるとすれば、普段ならどこかしらから飛んでくる師匠の声がないことくらいだった。
「静かだな……」
悪くはない。悪くはないのだが、一年も一緒に暮らしていると妙な感じがする。
寝室は静かなままだった。
翌朝。
エレノアはまだ起きてこなかった。
「よく寝るなあ」
三日間寝なかった反動だろう。レイジは昨日と同じように朝食を用意し、玄関脇から新しい新聞を取った。
昨日の新聞はテーブルの端に置いたままだ。その隣へ今日の分を置こうとして、手が止まった。
一面に見覚えのある言葉があった。
『消失したオリハルコン、倉庫内に戻る』
「……は?」
新聞を広げる。
昨日、盗まれたと報じられていたオリハルコン鉱石が、再び倉庫内で確認された。しかも、警察が現場へ入り、倉庫への出入りが厳しく管理されていた最中の出来事らしい。
調査にあたった錬金術師によって、現在保管されている鉱石が本物のオリハルコンであることも確認されたという。
レイジは記事を最初から読み直した。
「いやいや」
昨日は鉄鉱石が残されていた。今日はオリハルコンが戻っている。
「すり替えなら、なんで戻すんだよ」
盗んだ犯人がわざわざ戻しに来た。それも、警察がいる倉庫へ。
無理がある。
そもそも鉄鉱石を持ち込んでオリハルコンを持ち出し、翌日またオリハルコンを持ち込む。何がしたいのか分からない。
「変な事件だな」
昨日より気にはなったが、答えは出ない。
レイジは二日分の新聞を並べて置いた。
その日も、エレノアは起きてこなかった。
昼食を済ませた後、汗をかいたので風呂へ入る。浴室の魔石に触れれば、しばらくして浴槽へ温かい湯が満ちる。温度もほとんど変わらない。
風呂から上がると、脱いだ服を洗濯用の設備へ放り込んだ。洗って、乾かす。あとは待つだけだ。
前世と大して変わらない。違うのは、電気ではなく魔石と錬金術で動いていることくらいだった。
レイジは乾いた服を回収し、自室へ戻った。
この世界は、思っていたよりずっと便利だった。
翌朝。
寝室の扉が開く音がした。
振り返ると、エレノアが立っていた。目の下にあった大きな隈は綺麗に消え、顔色も悪くない。三日間研究室に籠もった直後の死人のような姿からは、すっかり回復している。
ただし、髪だけは別だった。
腰まで伸びた紫色の長い髪が、好き勝手な方向へ跳ねている。
寝癖という言葉で片づけていいのか分からない。
「……おはようございます」
「ああ」
エレノアは気にした様子もなく答えた。
「よく寝ましたね」
「そうか?」
「二日以上寝てましたよ」
「なら、そんなものだろう」
そんなものらしい。
エレノアは自分の髪へ手をやり、一房持ち上げて見る。
「風呂に入ってくる」
「はい」
研究中は三日間寝ない人間だが、研究が終わればこういうところは妙にきっちりしている。
エレノアが浴室へ消えると、レイジは玄関へ向かった。昨日から、少しだけ新聞が楽しみになっていた。
まさかな。
そう思いながら三日目の新聞を開く。
一面を見た。
「……マジかよ」
『戻ったオリハルコン、再び消失――倉庫には鉄鉱石』
また鉄鉱石になっていた。
一昨日、オリハルコンが消えて鉄鉱石が残された。昨日、オリハルコンが戻った。そして今日は、また消えている。
しかも記事によれば、倉庫は引き続き警察と両社の関係者によって管理されていた。その中で、また鉄鉱石へ入れ替わったらしい。
レイジは三日分の新聞を順番に並べた。
オリハルコンが消えた。戻った。また消えた。
「どうなってんだ、これ」
誰かがすり替えている。そう考えるには、もう無理がある気がする。なら、本当に何か別のことが起きているのだろうか。
錬金術を一年学んできた。物質が別の物質へ変わること自体は知っている。性質を抜けば変わる。性質を加えても変わる。
だが、それなら誰かが錬金術を使っていることになる。わざわざオリハルコンを鉄にして、元へ戻して、また鉄にする。
「だから、何のために?」
分からない。
新聞を眺めていると、浴室の方から足音がした。
振り返る。先ほどまで好き勝手な方向へ跳ねていた紫色の長い髪は、いつものように綺麗に整えられていた。
エレノアだった。
「飯」
「はいはい」
レイジは立ち上がり、保存庫から食材を取り出して朝食を作る。その間にエレノアはテーブルの新聞へ手を伸ばした。
一番古いものを開く。
レイジが料理をしている間、紙をめくる音が聞こえていた。
やがて朝食を運ぶと、エレノアは新聞を読みながら食べ始めた。しばらくして一日目の記事へ目を止める。
「ほう」
「それ、変ですよね」
エレノアは答えず、そのまま記事を読んだ。一日目の新聞を置き、二日目を取る。
「……ふむ」
今度は少し長く止まった。
そして三日目。
エレノアの手が止まった。記事を読み、もう一度二日目の新聞を取る。それから一日目へ戻った。
「師匠、それセレスティアの鉱石ですか?」
「ああ」
「変な事件ですよね」
「そうだな」
エレノアは三日分の記事を並べた。
「最初は盗難だと思ったんですけど。戻って、またなくなってるなら、さすがに変ですよね」
「だろうな」
それきり返事がない。
レイジはエレノアを見る。新聞を見ていた。正確には、記事のある一点をじっと見ている。
嫌な予感がした。
この顔を知っている。
「師匠?」
「搬入時にはオリハルコンだった」
「みたいですね」
「鉄鉱石が残された後、厳重な管理下でオリハルコンが戻った」
「はい」
「そして、また鉄鉱石が残された」
エレノアの口元が、わずかに上がった。
やっぱり。
「面白いな」
出た。
「面白いですかね?」
「面白いだろう」
エレノアは二日目の記事を指で叩いた。
「報道が正しいなら、そもそもすり替えではない可能性がある」
「すり替えじゃない?」
「ああ。同じものが変わっているとしたら?」
レイジは三日分の新聞を見る。
オリハルコン。鉄。オリハルコン。鉄。
「……そんなことできます?」
「できるかどうかを見に行く」
「え?」
エレノアは新聞を畳んだ。
「レイジ。グレイスに行くぞ」
「……はい?」
あまりにも突然だった。
「グレイスって、これが起きてるところですよね?」
「ああ」
「行くって言っても俺、森から出るの初めてなんですけど……」
「構わん。そろそろ外に出そうと思っていたところだ」
「ええ……」
軽い。
レイジにとっては、この世界へ来て初めての外出である。エレノアにとっては、新聞を読んで少し気になるものを見つけたから見に行く程度の話らしい。
すでに椅子から立ち上がっている。
「ちょちょちょ、待ってください」
「なんだ」
「せめて地理的位置くらい復習させてくださいよ」
エレノアが怪訝そうな顔をした。
「何だ。一年暮らしてまだそんなことも分からんのか」
そう育てたのあんただよ。
「何か言ったか?」
「いえ」
エレノアは少し考えた。
「仕方ないな。まあ教育の一環か」
書斎から地図を持ってきて、テーブルの上へ広げる。レイジも隣から覗き込んだ。
「ここがグレイスだ」
エレノアが地図の一点を指した。
「鉱山都市だ。鉱石や魔物素材が集まる。錬金術師なら世話になることも多い」
「結構大きい街なんですか?」
「五大都市の一つだ」
「そんなところなんですね」
新聞で名前を見ることはあった。だが、実際に行くとなると話は別だった。
レイジは地図を見る。
「で、俺たちは今どこです?」
エレノアも地図を見る。
「魔の森だ」
「それは知ってます」
「なら問題ないな」
「ありますよ」
一年経っても、この人の説明はこういうところがある。
結局、細かな地理の話は後回しになった。必要なのはグレイスへ行くこと。そしてエレノアには、そこへ行く手段があるらしい。
「準備しろ」
「何を持っていけばいいです?」
「特にいらん。数日泊まることになっても向こうで買える」
「分かりました」
初めての外出にしては、ずいぶん雑だった。
とはいえ、何も持たずに行くのも落ち着かない。レイジは自室へ戻り、最低限の着替えだけをまとめた。それから少し考えて、財布も持つ。
この世界へ来てから、金を使う機会はほとんどなかった。
初めて街へ行く。
そう思うと、今になって少し実感が湧いてきた。一年間、新聞や本でしか知らなかった世界だ。人がいる。店がある。
飯屋もある。
「……何食えるんだろ」
少し楽しみになってきた。
荷物を持って居間へ戻ると、エレノアはすでに待っていた。
「行くぞ」
「はい」
玄関へ向かうのだと思った。
違った。
エレノアは廊下の奥へ進んでいく。
「師匠、そっちですか?」
「ああ」
ついていく。
一年暮らした屋敷だ。使う部屋はだいたい知っている。研究室、書斎、倉庫、寝室、風呂。それ以外にも、エレノアが何に使っているのか分からない部屋はいくつかある。
そのうちの一つの前で、エレノアが止まった。
扉を開ける。
中は広かった。家具はない。
部屋の中央に、石で作られた円形の台座がある。その表面には複雑な術式が刻まれ、周囲にはいくつもの魔石が埋め込まれていた。
レイジは足を止めた。
「……何ですか、これ」
「転移陣だ」
「転移陣?」
「グレイスの錬金ギルドに繋がっている」
エレノアは当然のように答えた。
レイジは台座を見る。もう一度、エレノアを見る。
一年。
この家で一年暮らした。
冷たいまま食材を保存できる。いつでも温かい湯が出る。洗濯も乾燥もできる。部屋の温度は快適に保たれ、暗くなれば照明が灯る。
映像まで見られる。
さすがにもう、この家について驚くことも減ったと思っていた。
レイジは転移陣を見た。
(……まだ知らないもんあったのかよ……)




