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お前の教育方針は決まった

翌朝。朝食を終えたレイジの前に置かれたのは、錬金術の本ではなかった。薄い本だった。表紙には、丸っこい文字と、何やら楽しそうに本を読む子供の絵が描かれている。


「これを読め」


向かいに座ったエレノアが言った。


「これですか?」


「ああ」


レイジは本を手に取って表紙を見る。文字は読める。中を開いてみる。やはり読めた。


昨日、自分がルヴェリア語とやらを普通に話していることには気づいた。だが、文字まで読めるのか。試しに最初の一文を声に出してみる。特に引っかからない。


「読めるな」


「読めますね」


「書く方は?」


差し出された紙と筆記具を受け取り、レイジは今読んだ文章を適当に書き写してみた。これも問題ない。


自分で書いた文字を見ても、知らない文字を書いているという感覚はなかった。日本語を書いているときと同じように、頭に浮かんだ言葉をそのまま手が文字にしている。


「ふむ」


エレノアがレイジの書いたものを見る。


「問題なさそうだな」


「みたいですね」


「なら、それを読め。分からないところがあれば聞け」


「分かりました」


レイジは改めて本へ目を落とした。内容は簡単だった。


この国の名前。人々の暮らし。昔の出来事。子供が最初に覚えるようなことが、絵と短い文章で説明されている。


あまりにも簡単なので、何歳くらいの子供向けなのか聞いてみた。


「三歳くらいだ」


「三歳」


レイジは思わず本を見る。三十八歳まで生きて、二回目の人生で最初に渡された教材が三歳児向け。


まあ仕方ない。何しろ俺は、この国のことを何も知らない。


そのまま読み進めていく。文章そのものは簡単なので、読むだけなら苦労はなかった。知らない言葉はいくつかあったが、それでも前後の文章から意味を推測できるものが多い。


そして、歴史について簡単に書かれたところで、一つの名前が目に留まった。


エレノア・アイゼンハルト。


レイジは目の前の女を見る。エレノアは何か別の本を読んでいた。もう一度、手元の本へ視線を戻す。


そこに書かれているエレノア・アイゼンハルトという人物は、どうやらとんでもなく有名な錬金術師らしい。


今から四百年ほど前。それまで個々の錬金術師が経験的に使っていた技術を整理し、現在まで続く錬金術の五つの体系を確立した。


それだけではない。


食品へ錬金術を応用する方法を広め、食品錬金術の開祖と呼ばれた。錬金術で酒を作る方法を考案した。魔石を使ったキセルを発明し、広く普及させた。


三歳児向けなので詳しいことは書かれていない。それでも、この人物が歴史上かなり重要な存在なのは分かる。


日本で言えば誰だろう。ニュートン。いや、分野が違うか。歴史の教科書に必ず載っているという意味なら、織田信長みたいなものかもしれない。


そこで、レイジは昨日名前を聞いたときのことを思い出した。


――名前……そうだな。エレノアと、そう呼ぶといい。


あの妙な間は、そういうことだったのかもしれない。本名を名乗りたくなくて、歴史上の有名人から名前を借りたのだろう。


まあ、本人が隠したいなら詮索することでもない。ただ、偽名だと気づいてしまった以上、エレノアさんと呼び続けるのも少し妙な気がする。


幸い、昨日からレイジはこの女の弟子になった。


なら。


「師匠」


呼んでみた。


エレノアが本から顔を上げる。


「なんだ」


「この五つの体系っていうのは?」


「今のお前に説明しても分からん。後で教える」


「分かりました」


特に何も言われなかった。なら、これでいいか。


それからしばらく本を読み進めた。三歳児向けだけあって、読むこと自体には時間はかからなかった。


一通り読み終えると、エレノアも読んでいた本を閉じた。


「読む方は問題ないな」


「そうですね」


「内容は?」


「知らないことだらけです」


「だろうな」


即答だった。昨日の時点で、レイジがこの世界のことをほとんど知らないのは分かっている。


エレノアは少し考えると、レイジの前へ紙を置いた。


「では、確認する」


「何をです?」


「お前が何を知っていて、何を知らないのかだ。錬金術を教えるにしても、そこが分からんと話にならん」


もっともだった。


レイジはルヴェリア語を話せる。文字も読める。だが、それ以外については自分でもどこまで知っているのか分からない。この身体に残っている知識があるのかもしれないし、ないのかもしれない。


「まず簡単なところからだ」


「はい」


「この国の名は?」


これは分かる。


「ルヴェリア王国?」


エレノアの眉がわずかに上がった。


「分かるのか?」


「昨日、師匠から聞きましたし、この本にも書いてありました」


「ふむ。では次だ」


少しだけ安心した。一問目は正解。三歳児向けの問題とはいえ、全滅は避けられそうだ。


「現在、この国を治めている王の名は?」


知らない。だが、何か答えられないか。


王。国を治める人間。俺が知っている国の偉い人。


「ドナルド・トラ○プ」


「誰だそれは」


駄目だった。


「俺の知っている国の偉い人です」


「王なのか?」


「いえ、大統領です」


エレノアが怪訝そうな顔をした。


「大棟梁? なんだそれは? 偉い建築家か?」


「あ、それはいいです」


説明すると長くなりそうなので、やめた。


「そうか。では、今年は王歴何年だ?」


王歴。その時点でもう分からない。


とはいえ、何も浮かばないわけではない。昨日まで生きていた日本なら。


「二〇二六年」


「お前はどれだけの間、王家を酷使するつもりだ」


どうやら千年単位で違うらしい。


「正解は?」


「王歴一〇一五年だ」


「惜しくもないですね」


「むしろ半分だな。次」


そこからも似たようなものだった。口頭だけでなく紙にも色々と書かされ、レイジは分かる範囲で答えていった。


結果は散々だった。


地理。知らない。ニューヨークとかロンドンとか書いていたら怒られた。最初は怒られたが、次第に師匠が興味を持ち始めて、話がなかなか進まなかった。


歴史。知らない。トラ○プ大統領で妙な勘違いをされたばかりだし、素直に分からないものを分からないと言ったら、本当に分からないのかと何度も聞き返された。エレノア・アイゼンハルトだけは答えられた。師匠の偽名だからカンニングみたいなもんだ。


政治。知らない。そもそも日本は王政ではなかったので、本格的に答えようがない。知っている範囲で日本の政治について説明してみたら、また師匠が興味を持ち始めたので、今度は早めに切り上げた。


社会の仕組み。知らない。仕事や税金についてなら日本の知識はあるが、この世界でも同じとは限らない。ここまでで学習した俺は、余計なことはせず、分からないものは分からないと答えることにした。


一方で、別の問題になると事情が変わった。


文章を読んで内容を説明しろと言われればできる。短い文章を書けと言われても困らない。計算問題も、少なくとも出された範囲では問題なかった。


いくつか条件を提示され、それについて自分の考えを書けと言われたときは、さすがに何を調べられているのかと思ったが、それも普通に答えた。


会社員時代、報告書や提案書を何枚書いたか分からない。子供向けの簡単な小論文程度なら、むしろ何を難しがればいいのか分からなかった。


しばらくして。


机の上には、レイジが書いた紙が何枚か並んでいた。エレノアがそれを順番に眺めている。


「ふむ」


一枚めくる。


「文章も読める。算術もできる。なんなら簡単な小論文も書ける」


「おかげさまで」


三十八年生きましたから。


とは言わなかった。


エレノアは最後の一枚を机へ置いた。


「教養だけ壊滅か……」


「そんなにですか?」


「この国の三歳児でも、お前より知っていることは多いだろうな」


「三歳児に負けましたか」


昨日まで日本で会社員をしていたのだから仕方がない。とはいえ、三歳児に負けたと言われると少し来るものがある。


エレノアは腕を組み、机の上の紙をしばらく眺めていた。やがて、一つ頷く。


「よし。お前の教育方針は決まった」


「教育方針?」


「ああ」


エレノアがレイジを見る。


「錬金術は一から教える。それと並行して、この国で生きるために必要な常識も一から叩き込む」


「やっぱり必要ですよね」


「当たり前だ。錬金術だけできても、社会でまともに生きられなければ意味がない」


正論である。


「それから身体だ」


レイジは自分の細い腕を見る。やっぱり逃げられなかった。


「それもやるんですね」


「昨日言っただろう。まずはまともに動ける身体にする」


「錬金術、常識、身体」


「そうだ」


思ったより多い。錬金術を教わるために弟子になったはずなのだが、気づけば学校と職業訓練と体力づくりが全部セットになっていた。


「十年あるんですよね?」


「ああ」


「十年で全部?」


エレノアは、何を当たり前のことを聞いているのだという顔をした。


「全部だ」


どうやら思っていたより、十年間というのは忙しくなりそうだった。


こうして、レイジの錬金術師としての修行は、錬金術ではなく三歳児向けの一般教養から始まることになった。

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