エレノアさん
「錬金術をやるか?」
女の言葉に、怜司はすぐには答えられなかった。
錬金術に興味がないわけではない。むしろある。数十年に一人いるかどうかという才能がある。仕事になる。腕があれば稼げる。今の自分が持っている条件を考えれば、かなり有力な選択肢だ。
問題は、どうやって学ぶかだった。
「やるって言っても、どうすればいいんです?」
「私が教える」
あっさりと返ってきた。
「あなたが?」
「ああ」
「錬金術師なんですか?」
「そうだ」
そういえば、さっき怜司に使った識別も錬金術だと言っていた。なら、この人から教わるということか。
悪くない話に聞こえる。命を助けてもらい、飯まで食わせてもらった。そのうえ仕事につながる技術まで教えてくれるというのなら、今の怜司に断る理由はほとんどない。
ほとんど、だ。
「どれくらいかかります?」
女は少しも考えなかった。
「十年だ。十年でお前を一人前にしてやる」
「……十年?」
「ああ」
思っていたより長い。怜司は今、十二歳らしい。十年なら、終わる頃には二十二歳だ。
若い。三十八歳だった頃から考えれば、二十二歳なんて十分すぎるほど若い。それでも十年だ。二回目の人生では、前よりもう少し楽しんで生きようと決めたばかりなのに、その最初の十年間をいきなり修行に使う。さすがに即決するには大きい。
「長いでしょう」
「そうか?」
「そうかって……十年ですよ?」
「十年だな」
やはり十年だった。この人にとって十年という時間は、怜司が思っているより軽いのだろうか。
「普通はどれくらいかかるんです?」
「十五年ほどだな」
「十五年?」
「ああ。三歳頃から基礎教育を始めて、十八歳前後で資格取得というところだ」
思っていた以上に長い。
「資格?」
「錬金術師を名乗って仕事をするために必要なものだ」
「なるほど」
どうやら錬金術師というのは、技術さえあれば勝手に名乗って商売を始められるような仕事ではないらしい。資格まである。それなら、思っていたよりずっとちゃんとした職業だ。
「じゃあ、十年ってかなり早い?」
「お前ならな」
女は当然のように言った。数十年に一人の才能。まだ実感はないが、少なくともこの人は本気でそう評価しているらしい。
十年。
怜司は頭の中でもう一度、その数字を転がした。長いことは長い。だが、普通なら十五年かかるところを十年で終えられる。そして終わったとき、怜司はまだ二十二歳だ。三十八歳まで会社員をやっていた感覚からすれば、二十二歳なんて新卒と大して変わらない。
そこで、もう一つ気づいた。
「その十年間って、俺はどこで生活するんです?」
「ここだ」
「ここ?」
「ああ」
女は何を当たり前のことを聞いているのだ、という顔をしている。
「飯は?」
「出す」
「毎日?」
「食わせずに十年育てろというのか?」
「いや、そういうわけじゃないですけど」
それはそうだ。十二歳の子供を弟子に取って、食事は自分で何とかしろという方がおかしい。
「住む場所と食事は出してもらえると」
「ああ」
「授業料は?」
「いらん」
怜司は思わず黙った。女が眉を上げる。
「なんだ」
「ちょっと待ってください。今、計算してるので」
「何をだ」
何をと言われても、条件だ。
十年間。最初に聞いたときは、長いと思った。だが、その十年間の住む場所と食事が保証される。授業料もいらない。その間に、普通なら十五年かかる専門技術を身につけられる。しかも、錬金術師として働くための資格まであるらしい。
終わる頃には二十二歳。前世で大学に通った四年間と比べても、単純に長さだけを見る話ではない。
もちろん十年間を自由に使えないというのは大きい。だが、今の俺には金も家も仕事もない。それどころか、この国の常識すら知らない。その状態からいきなり街へ放り出されるのと、十年間生活を保証されながら、一生使える技術を身につけるのと。
比べるまでもない。
条件がいい。
良すぎる。
そこまで考えたところで、別の疑問が出てきた。怜司にとっては、かなり得な話だ。
では。
「一つ、聞いていいですか」
「なんだ」
「俺にとっては好条件ですが、あなたには何の得があるんです?」
女が少しだけ目を細めた。
「得?」
「だってそうでしょう」
怜司は指を折りながら確認する。
「十年間、俺をここに住ませる。飯も出す。錬金術も教える。授業料も取らない」
「ああ」
「俺は助かりますよ。ものすごく」
今の俺なら、むしろ金を払ってでも欲しい条件だ。払う金はないが。
「でも、あなたは?」
女は黙っている。
「俺を一人前にして、何か返してほしいとか。働いて返せとか。そういう条件は?」
「ない」
「十年後は?」
「好きにしろ」
「ここで働けとかは?」
「言わん」
ますますおかしい。営業を十五年もやっていれば、条件の良すぎる話には警戒する。
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そんな商品を客に持っていったら、俺ならまず「何で御社に利益が出るんですか」と聞かれる。利益が見えない話は、利益がないのではなく、こちらから見えていないだけの場合がある。
「だったら、なおさら分からないんですけど」
「何がだ」
「あなたが十年使って俺を育てる理由です」
女はしばらく怜司を見ていた。それから、少しだけ笑った。
「面白そうだからだ」
「……はい?」
「数十年に一人いるかどうかの才能だ。それを私の好きに育てられる。それ以上の道楽はあるまい」
女は本当に、それだけで十分だと思っているようだった。
「それが、あなたの得?」
「ああ」
「十年かけても?」
「構わん」
迷いがない。俺なら、十年間という時間を使うなら、もう少し分かりやすい見返りを求める。金でもいい。仕事でもいい。育てた人間を自分のところで働かせるでもいい。
だが、この人は違うらしい。才能のある人間を、自分の好きなように育てる。それ自体が、この人にとっての見返りなのだ。
理解できないわけではない。世の中には、金にならなくても趣味に何年も費やす人間がいる。俺だって、仕事以外の時間を全部金に換えて生きてきたわけではない。
少なくとも、この人にとって十年を費やすだけの価値が自分にはあるらしい。なら、条件としては成立している。
「……分かりました」
「そうか」
「やります」
女が怜司を見る。
「錬金術、教えてください」
「いいだろう」
決めてしまえば、思ったよりすっきりした。
十年。長い。だが、悪い十年ではないと思う。何より、一度死んだ俺には、本来なら存在しなかった十年だ。それを使って、二十二歳で一生食っていける技術を持てるのなら、十分だろう。
「じゃあ、今日から?」
「いや」
「違うんですか?」
「修行は明日からだ。明日からお前のその痩せ細った身体から鍛え直してやる」
怜司は思わず自分の身体を見る。細い腕。薄い胸板。昨日まで死にかけていたというのだから、当然と言えば当然なのだが。
「錬金術の修行ですよね?」
「ああ」
「身体も鍛えるんですか?」
「当然だ。身体がまともに動かなくて何ができる。錬金術師はフィールドワークもするからな」
「フィールドワーク?」
「素材の採取や現地調査だ。必要な素材が都合よく工房まで歩いてきてくれるわけではない。自分で山や森に入ることもある」
「なるほど」
「素材を見つけても持ち帰れなければ意味がないし、場所によっては何日も歩く。足場の悪いところに入ることもある。錬金術だけ使えればいいというものではない」
急に説明が増えた。どうやら錬金術師というのは、怜司が想像していたより体力仕事でもあるらしい。
「思ってたより大変そうですね」
「当然だ。だが、面白いぞ」
女はそう言って、わずかに口元を緩めた。
その顔を見て、怜司はなんとなく分かった。この人は、本当に錬金術が好きなのだろう。
そんな人から十年間教わる。改めて考えると、とんでもなく長い付き合いになる。
そこで、ふと気づいた。
怜司はこれから十年世話になる人の名前すら知らない。
「そういえば、名前を聞いてませんでした」
女が一瞬、黙った。
「名前……そうだな。エレノアと、そう呼ぶといい」
「エレノアさん」
「ああ」
ようやく名前を知った。命を助けてもらって、飯を食わせてもらって、これから十年間錬金術を教わる相手の名前を。
「じゃあ、改めて。よろしくお願いします、エレノアさん」
「ああ。こちらこそな」
こうして怜司は、異世界で錬金術を学ぶことになった。
三十八歳で死んで、十二歳の身体で生き直す。
その最初の十年間を預ける相手は、エレノアという少し変わった錬金術師だった。




