人間に戻すのか、ルークに戻すのか
「師匠」
目の前の卵型の物質から目を離さずに呼ぶ。
「戻せますか」
返事はすぐにはなかった。師匠は俺の隣まで来ると、同じものを見た。白い表面を虹色が絶えず流れている。見た目だけなら綺麗だ。さっきまで研究室の壁半分を埋めていた黒い塊とは、同じものだったとは思えない。
でも、生命《識別》には出ている。
【ルーク・レイフォードの魂 Lv.1】
なら、まだ終わっていない。
「戻す、というのは何にだ」
「え?」
「人間に戻すのか。ルークに戻すのか」
言われて、口を閉じた。
同じじゃない。さっき俺がやったことが、それを証明している。【抗体】を一つ抜いた。確かに人間一人分くらいの大きさにはなった。でも、ルークには戻らなかった。
性質を適当に減らして、人間らしい何かを作ればいいわけじゃない。
「……レイフォードさんに戻します」
「ああ」
師匠がオルビアを見る。
「記録はあるか」
「記録?」
「ルークが自分へ《付与》を始める前のものだ。生命《識別》の結果を残しているはずだ」
「あ……」
オルビアが机へ向かった。積み上げられていた紙を探し始める。さっきまで取り乱していたせいか、手元はまだ少し震えていた。
俺も思い出した。最初にここで実験した時、ルークは何度も生命《識別》を受けている。実験前。実験後。そのたびに記録を取っていた。
しばらくして、オルビアが一冊の記録を持って戻ってきた。
「これだ」
師匠が受け取り、中を見る。俺も横から覗き込んだ。
性質が並んでいる。
あの時のルークだ。
「私にも記録がある」
「師匠も?」
「ああ。一度見ている」
そうだった。俺が初めて生命《識別》を教わった翌日、師匠はルークも見ている。
つまり、正解はある。
俺はもう一度、卵型の物質を生命《識別》した。今そこにある性質と、紙に残っている性質を見比べる。
多い。
事故前にはなかった性質が、いくつも残っている。
ルークは自分に性質を加え続けた。なら、やることは一つだ。
増えたものを全部抜く。
ただし。
「順番ですね」
「ああ」
一つ抜くだけで、あれだけ姿が変わった。どれから抜くかで途中の性質構成は変わる。そのたびに再構成が起きる。
適当に抜けばいいわけじゃない。
俺は記録と現在の性質を見比べた。
「まず、これを抜きます。その後に、こっちです。こっちを先に抜くと、残る性質の組み合わせが大きく変わる」
少し考えてから、師匠がうなずいた。
「ああ」
それだけだった。
十年前なら、たぶん俺は聞いていた。次はどうすればいいんですか、と。
今は、自分で考えた。
そのことに気づいたのは一瞬だった。すぐに頭から追い出す。今はそんなことを考えている場合じゃない。
「やります」
《抽出》。
性質が一つ抜ける。結晶となって離れた瞬間、卵型の物質が大きく脈打った。
オルビアが息を呑む。
表面が揺れ、形が少し崩れる。けれど、さっきほど大きな変化ではない。
俺はすぐに生命《識別》を使った。
「問題ないです」
「次だ」
また記録を見る。次に抜く性質を選ぶ。
《抽出》。
再構成を確認する。
そして、また《抽出》。
それを繰り返した。
途中で俺は手を止める。
「師匠。次、こっちじゃないですか」
師匠が現在の性質を見る。少しして、うなずいた。
「ああ。そちらが先だ」
「ですよね」
余計な性質を一つ抜くたびに、目の前のものは少しずつ形を変えていった。卵型だった輪郭に凹凸ができ、手足らしき形が現れる。
人間に近づいている。
でも、まだ違う。
俺は何度も記録と現在を見比べ、増えている性質だけを探して抜いていった。
一つずつ。慎重に。
途中から、師匠との会話はほとんど必要なくなっていた。俺が次を示し、師匠が確認する。たまに師匠が先に口を開き、俺が同意する。
どちらが教えるでもない。
二人で、同じものを見ていた。
やがて性質を見比べると、残っている差はあと一つになった。
「……これで最後です」
師匠もうなずく。
事故前の記録にはない。今のルークにだけ存在する最後の性質。
これを抜けば、性質構成は完全に元へ戻る。
俺は息を吐いた。
「《抽出》」
性質結晶が離れる。
一瞬、何も起きなかった。
次の瞬間、目の前のものが大きく脈打った。
ドクン。
形が崩れる。白と虹色が混ざり、縮み、伸びる。輪郭が変わり、腕が、脚が、身体が、頭が形作られていく。
そして、色が消えた。
研究室の床に、一人の男が横たわっていた。
銀髪。
見慣れた顔。
ルーク・レイフォードだった。
「……レイフォードさん」
声が出た。
オルビアが駆け寄る。
「ルーク君!」
返事はない。オルビアはすぐにしゃがみ込み、首元へ手を当てた。
俺は動けなかった。
「脈がある。呼吸もしている」
その言葉で、息を吐いた。
生きている。
胸が上下している。さっきまで物質だったものが、今は人間の形をして呼吸している。
俺は生命《識別》を使った。性質を見る。紙を見る。もう一度見る。
「……同じだ」
余計なものがない。事故前の記録と一致している。
師匠を見る。
「ああ。一致している」
師匠も確認していた。
最後まで見る。
そして。
【ルーク・レイフォードの魂 Lv.1】
ある。
戻った。
その言葉が頭に浮かんだ。
本当に、戻った。
オルビアがルークの身体を確認していく。手足。呼吸。脈。反応。俺には何をしているのか全部は分からない。ただ、さっきまで取り乱していた人間とは思えないくらい、手つきは冷静だった。
「ルーク君。聞こえるか」
返事はない。
その時、ルークのまぶたが動いた。
「……!」
俺は思わず近づいた。
ゆっくりと目が開く。
銀色の瞳。
見慣れた目だった。
「レイフォードさん」
今度こそ。
そう思った。
「俺です。分かりますか」
返事がない。
ルークの目は開いている。でも、俺を見ていなかった。
「レイフォードさん?」
もう一度呼ぶ。
視線は動かない。
オルビアがルークの顔へ手を伸ばし、目を確認する。
「光には反応している」
今度は手を取る。身体へ刺激を与え、反応を見る。
「反射もある」
「じゃあ」
オルビアは答えなかった。
「ルーク君」
もう一度呼びかける。声が少し硬い。
「ルーク君。私が分かるか」
返事はない。
目は開いている。呼吸している。刺激にも反応する。
でも、自分からは何もしない。
「……レイフォードさん」
三度目だった。
返事はなかった。
さっきまで感じていた安心が、少しずつ消えていく。
「オルビア先生」
「診る」
短く答えて、オルビアはルークの診察を始めた。
俺と師匠は離れる。
ここから先は、俺たちの仕事じゃない。
生命は医者。性質は錬金術師。
俺たちが確認できるのは、性質までだ。
もう一度記録を見る。間違いなく一致している。今のルークは、事故前のルークと同じ性質で構成されている。師匠も同じ結論だ。
なら、あとはオルビアが診る。
しばらく、誰も話さなかった。
オルビアだけが動いている。何度もルークの身体を確認し、呼びかけ、反応を見る。
それを繰り返した。
やがて、オルビアが止まった。
俺は顔を上げる。
「どうですか」
返事がない。
嫌な間だった。
「オルビア先生」
「……分からない」
「え?」
オルビアがルークを見る。
「身体に、明確な異常が見つからない」
「でも、意識が」
「分かっている」
少し強い声だった。
すぐにオルビアは息を吐く。
「すまない」
「いえ」
「呼吸は正常だ。循環にも大きな異常はない。光への反応もある。反射もある。私が確認できる範囲では、身体は正常に機能している」
「じゃあ、なんで」
答えは返ってこない。
「意識が戻らない理由になる異常を、私は見つけられない」
俺はルークを見る。
目は開いている。でも、どこも見ていない。
もう一度、生命《識別》。
紙を見る。
同じ。
最初から確認する。
一つ。次。その次。
違いはない。
「……師匠。俺、何か間違えましたか」
「いや」
「でも」
「性質構成は一致している。私にも違いは見えん」
静かな声だった。
なら。
オルビアにも異常が見つからない。師匠にも違いが見えない。
俺にも。
もう一度ルークへ近づく。
「レイフォードさん」
返事はない。
分かっている。それでも呼んだ。
「レイフォードさん」
変わらない。
いつもなら、返事をする。研究の話を始めれば長い。何か面白いものを見つければ、年齢に似合わないくらい楽しそうな顔をする。
俺の論文を読んだ時だってそうだった。
今は何もない。
目の前にいる。
姿も同じ。性質も同じ。魂もある。身体だって正常だ。
なのに。
俺は記録を見る。ルークを見る。また記録を見る。
何を探しているのか、自分でも分からなかった。
何か違うはずだ。
違わなければおかしい。
でも、見つからない。
「何が……」
声が出た。
師匠を見る。
「何が、……足りないんですか」
師匠は答えなかった。
ルークを見る。
生命《識別》をする。
机の記録へ目を落とす。
オルビアを見る。
「医学的には?」
「……戻っている」
オルビアの声は小さかった。
「少なくとも、私にはそう見える」
師匠はまたルークを見る。
長い間、何も言わなかった。
研究室には、ルークの呼吸する音だけが残っている。
やがて、師匠が口を開いた。
「……分からん」




