これはルーク・レイフォードだ
「……助けてください!!」
通信機から響いたオルビアの声に、俺と師匠は顔を見合わせた。
「オルビア、何があった」
「ルークが……研究室に、でも、違うんです。分からない、こんなもの……」
「落ち着け。今から行く」
師匠はそれだけ告げて通信を切った。聞き返している場合じゃない。俺たちはすぐに宿を出て、セレスティア王都研究棟へ向かった。
走りながら、頭の中でここ数日のことを思い返す。ルークへの《付与》は成功していた。【治癒】も、【硬質】も、【抗体】も。オルビアが毎回診察し、俺たちも生命《識別》で確認した。異常がなければ翌日まで待ち、それから次へ進む。危険そうな性質はそもそも使わなかった。
少なくとも、俺が知っている範囲では何も起きていない。それなのに、あのオルビアが助けてくれと言った。
研究棟に着き、俺たちはそのままルークの研究室へ向かった。扉は開いていた。
「オルビア先生!」
中へ入ると、オルビアが壁際に立っていた。一目見ただけで様子がおかしいと分かった。目は虚ろで焦点が定まっていない。顔は青ざめ、表情は引きつっている。俺たちの声に反応してこちらを向いたはずなのに、本当に俺たちが見えているのかさえ分からなかった。
「レイジさん……エレノアさん……ルークが、いないんです。ここに来たら、これが……こんなもの、見たことが……」
「オルビア」
「分からないんです。生き物なのかも、物なのかも。ルークもいなくて、でも昨日までは――」
「オルビア」
「私、どうすればいいのか――」
「……すまない」
ぱん、と乾いた音がした。
師匠がオルビアの頬を平手で打っていた。俺は一瞬、目の前で何が起きたのか分からなかった。
十年間一緒に暮らしてきた。怒られたことなら数え切れない。呆れられたことも、馬鹿にされたこともある。それでも、俺だって一度も師匠に殴られたことはない。
「オルビア。しっかりしろ」
「……はい」
オルビアは打たれた頬に手を当てたまま、何度か大きく息をした。やがて虚ろだった目に少しずつ焦点が戻り、俺たちではなく研究室の奥へ視線を向ける。
俺もそちらを見た。
「……なんだ、これ」
最初に思ったのは、大きい、だった。
研究室の壁面を半分ほど埋めているように見えるほどの、巨大な黒い物質。ただ黒いというより、周囲の光まで吸い込んでいるように見える。表面は石か金属のように硬そうだった。
なのに。
ドクン。
表面が滑らかに動いた。
ドクン。
もう一度。脈打っている。
硬そうなのに、柔らかそうだった。
生き物にも見える。けれど、俺の知っているどんな生き物とも違う。肉の塊というわけでもなければ、魔物とも思えない。ただ、そこにあってはいけないものが研究室の半分を占領しているように見えた。
オルビアが取り乱していた理由が、ようやく分かった。そして同時に、別のことにも気づいた。
師匠が人を叩くところなんて、俺は初めて見た。
師匠も、平静じゃない。
「《識別》」
考えるより先に口にしていた。目の前にあるものが何なのか分からないなら、まず《識別》する。それは十年間で身についた、ほとんど反射のようなものだった。
だが。
「……見えない?」
何も出なかった。性質が一つも見えない。失敗したのかと思ってもう一度《識別》するが、同じだった。
「師匠、これ……」
隣を見る。師匠は黒い物質から目を離していなかった。
「レイジ。生命《識別》をしろ」
「え?」
意味が分からなかった。これは物質だ。少なくとも、そう見える。
「なんで生命《識別》を――」
師匠が静かに言った。
「これはルーク・レイフォードだ」
「……は?」
聞き間違えたと思った。目の前にあるのは、壁の半分を埋めるほど巨大な黒い何かだ。昨日まで研究室にいた、銀髪で白いスーツを着た男じゃない。
「生命《識別》をしろ」
もう一度言われた。俺は黒い物質を見る。
「……生命《識別》」
今度は、見えた。
「な……」
思わず声が漏れる。多い。あまりにも多い。以前ルークを生命《識別》した時には存在しなかった性質が、いくつも、いくつも増えている。
見覚えのあるものもあった。
【治癒】
【硬質】
【抗体】
俺たちが付与したものだ。でも、それだけじゃない。
「なんだよ、これ……」
知らない性質が大量にある。いつ、こんなに増えた。
視線を動かしていく。
そして、止まった。
【ルーク・レイフォードの魂 Lv.1】
「……レイフォードさん」
あった。
魂がある。ここにある。
だったら、まだ助けられる。
もう一度、性質を見る。
【抗体】
これは、なかった。元のルークにはなかった。
なら――。
「《抽出》」
「レイジ、待――」
師匠の声が聞こえた時には、もう始まっていた。【抗体】が抜ける。結晶化したそれが黒い物質から離れた瞬間、目の前の巨大な塊が大きく脈打った。
「っ……!」
ドクン、と研究室そのものが揺れたように感じた。黒い表面が波打ち、形が崩れ、縮んでいく。
「戻る……?」
俺は息を止めた。《抽出》は成功した。なら、残った性質で再構成される。
「レイフォードさん……!」
黒い塊は急速に小さくなっていった。壁を覆っていたものが、人一人ほどの大きさになる。黒が消え、白くなる。その表面を、虹のような色が絶えず移り変わっていた。
光っているわけじゃない。なのに、光っているように見えた。目を離せないほど綺麗だった。
やがて再構成が止まる。
そこにあったのは、人一人ほどの大きさをした、均整の取れた卵型の物質だった。
「……違う」
ルークじゃない。
さっきまでの黒い塊とはまるで違う。禍々しさはない。むしろ神々しいとすら思えるほど美しい。でも、人間じゃない。
俺は近づいて、その表面へ手を伸ばした。柔らかそうに見えたが、指先に返ってきた感触は硬い。
【硬質】。それも、まだ残っている。
「なんで……」
「レイジ」
師匠の声がした。
「こういう時こそ落ち着け」
「でも、師匠」
「落ち着け」
もう一度言われて、俺は口を閉じた。そこでようやく、自分が何をしたのかに気づいた。師匠にも、オルビアにも確認していない。勝手に《抽出》した。
「……すみません」
「後だ。今は考えろ」
「はい」
息を吐く。目の前のものを見る。
黒い巨大な塊から、白を基調とした卵型の物質へ変わった。俺がやったことは一つだけ。【抗体】を抜いた。
「……性質が変わったから、再構成された」
「そうだ」
「でも、一つ抜いただけで、ここまで……」
もう一度、生命《識別》で見えたものを思い出す。俺たちが付与した性質だけじゃなかった。知らないものが大量にあった。
「オルビア先生。俺たちが帰った後も、実験したんですか?」
「私はしていません」
オルビアは首を振った。
「私が確認していない性質は、付与しないように伝えていました。少なくとも、私が立ち会った実験は、あなたたちも知っているものだけです」
「じゃあ……レイフォードさんが一人で?」
返事はなかった。でも、目の前に答えがある。ルークにはなかった性質が、大量に増えている。
実験は成功していた。【治癒】も。【硬質】も。【抗体】も。
だから、進めたのか。もっと先へ。
「……性質が、増えすぎた?」
俺が呟くと、師匠が卵型の物質へ近づき、しばらく黙って見つめた。
「そう考えるのが自然だろうな」
「やっぱり……」
「物質は性質によって成り立つ。性質が変われば、物質も変わる」
何度も教わったことだ。俺自身、何度もやってきた。鉄を別の物質へ変えたこともある。魔石に性質を付与したこともある。
同じことが起きただけだ。
人間に。
「ルークは性質を増やし続けた。その結果、人間とは別の性質構成になった」
師匠は静かに続けた。
「だから、それに応じた物質へ再構成された」
俺は目の前の卵型の物質を見る。たった一つ抜いただけでも、これだけ姿が変わった。
師匠の言っていることは分かる。
分かってしまう。
錬金術としては、何もおかしくない。
「……これが、レイフォードさん」
「ああ」
俺はもう一度、その美しい物質を見る。さっきよりは人間一人分に近い大きさになった。でも、それだけだ。人間には見えない。
なら。
「生命《識別》」
もう一度、見る。
性質は変わっている。【抗体】はない。
それでも。
【ルーク・レイフォードの魂 Lv.1】
ある。
「……まだ、ある」
消えていない。
俺はその表示から目を離さなかった。
レイフォードさんの魂は、まだここにある。




