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これ、人間に入れたらどうなるんですか?

「では、始めましょう」


オルビアの言葉に、ルークが頷いた。


昨日、紙で切ったという右手の人差し指。傷自体は大したものではない。血はもう止まっているし、放っておいても数日もすれば治るだろう。


だからこそ、最初の実験にはちょうどいい。


「体調に変化は?」


「ありません。いつも通りです」


「痛みは?」


「触れば少し、という程度ですね」


オルビアが傷を確認していく。その横では、師匠がいつも通りの無表情でルークを眺めていた。


俺も生命《識別》を使う。昨日教わったばかりなので、まだ慣れたとは言い難い。それでも、普通に《識別》する時とは意識の向け方が違うということは分かってきた。


ルークの身体を、人間として見る。


表示された性質を一つずつ確認していく。


「昨日と変わったところはなさそうです」


「ああ。私もそう見える」


師匠も同意した。


オルビアが記録を書き終え、顔を上げる。


「もう一度確認します。行うのは【治癒 Lv.1】の《付与》だけです。それ以外はしないでください。少しでも異常を感じたら、その時点で中止します」


「分かっています」


「終わった後も、私が問題ないと判断するまでは次の実験には進みません」


「はい」


ルークは素直に頷いた。


昨日あれだけの話をした後だ。それでも実験をすると決めた以上、これ以上慎重にしようと思えば、そもそもやらないという選択肢しかない気がする。


師匠が言っていた言葉を思い出す。


生命は医者、性質は錬金術師。


ルークが【治癒 Lv.1】の結晶を手に取った。


「では、やります」


結晶が指先へ触れる。


《付与》。


見慣れた錬金術の光景だった。ただし、対象が人間であることを除けば。


結晶が消え、ルークの右手へ【治癒 Lv.1】という性質が加わる。


「……どうですか?」


オルビアがすぐに聞いた。


ルークは自分の身体を確かめるように左手を握り、肩を回した。


「特には。何も変わった感じはしませんね」


「指は?」


「あ」


ルークが右手を持ち上げる。俺たちも、その人差し指を見る。


細く残っていた傷が、消えていくところだった。


「おお……」


思わず声が出た。


傷口が塞がっていく。一瞬で消えるわけではない。けれど、昨日できた傷が治っていく速度ではどう考えてもない。十数秒も見ているうちに、どこに傷があったのか分からないくらいになった。


「治りましたね」


ルークが指を眺めながら言う。


「見れば分かります。動かしてください」


「はい」


「痛みは?」


「ありません」


「違和感は?」


「ないですね」


オルビアが指を触り、曲げ伸ばしさせ、今度は手首や腕まで確認していく。


俺と師匠はもう一度、生命《識別》を使った。【治癒 Lv.1】がある。さっきまではなかった性質だ。それ以外に、俺が分かる範囲で妙な変化はない。


「師匠」


「ああ。問題は見えんな」


オルビアも診察を終えた。


「……少なくとも、今のところ異常はありません」


「成功、ですか?」


ルークが聞く。


オルビアはすぐには答えず、記録へ何かを書き込んだ。


「【治癒】を付与したことで、傷が通常より早く治った。それ以外の異常は現時点では確認できない。そこまでは言えます」


「十分じゃないですか?」


俺が言うと、オルビアはこちらを見た。


「一回です」


「ですよね」


ですよね。さすがにそこは甘くなかった。


「今日はここまでにします。明日まで経過を見ます」


「分かりました」


ルークも反論しない。俺としても、その方が安心だった。


生命錬金だろうが何だろうが、やっていることは《付与》だ。ただ、人間に性質を付けた。それだけと言えば、それだけだ。


それでも、人間相手となると話は違う。できることと、やっていいことは違う。その線を決めるのは、少なくとも俺じゃない。


「オルビア」


師匠が声をかけた。


「何かあれば連絡しろ」


「連絡……あ」


オルビアが少し困った顔をした。


そういえば、師匠は王都に住んでいるわけじゃない。連絡を取ろうにも、森まで走ってきてもらうわけにはいかない。


「じゃあ、これで」


俺は左腕の通信端末を見せた。師匠が作った、腕時計によく似た通信端末だ。


「俺のところに連絡してもらえれば、師匠も一緒にいますから」


「分かりました。登録させてください」


連絡先を交換する。使うことがないのが一番だ。


その日は、それで研究棟を後にした。


翌日。


ルークは元気だった。


「本当に何もないんですか?」


「ありませんよ」


「熱とか」


「ないです」


「身体が重いとか」


「ないですね」


「人格が変わったとか」


「それは自分では分からないんじゃないですか?」


確かに。


「レイジ君から見て、僕は昨日と違いますか?」


「いつものレイフォードさんですね」


「なら大丈夫そうですね」


そんな判定でいいのか。


もちろん、それだけで終わるはずもなく、オルビアが昨日と同じように診察を行った。生命《識別》でも確認する。【治癒 Lv.1】は残っている。それ以外に異常はない。


「次を考えてもいいと思います」


オルビアがそう言った途端、ルークの目が少し輝いた。


分かりやすいな。


「候補があります」


「もうあるんですか」


「昨日から考えていましたから」


研究者って怖い。


ルークが用意したのは【硬質】だった。


「待ってください」


俺は結晶を見る。


「これ、人間に入れたらどうなるんです?」


「僕もそこを考えていました」


「普通なら硬くなるんですよね」


「ええ。ただ、人間の場合はどこまで影響するのか分かりません」


「皮膚だけならまだ分かりますけど、骨とかは?」


「可能性はあります」


「筋肉まで硬くなったら動けなくなりません?」


「それも考えました」


考えてた。


「だから、そのまま試すつもりはありません」


そこから、昨日よりずっと長い話し合いになった。


【硬質】は物質へ付与すれば、その物質を硬くする。それは分かっている。問題は、人間が単純な一つの物質ではないことだった。


皮膚、筋肉、骨、血。俺でも思いつく程度には、身体はいろんなものでできている。


「全部に同じように作用するなら、危ないですよね」


「そうですね。関節の動きを阻害する可能性もあります」


オルビアが答えた。


「逆に、身体が人間としてまとまった一つの対象として扱われるなら?」


ルークが師匠を見る。


「分からんな」


師匠はあっさり言った。


「試したことがない」


そりゃそうだ。人間に【硬質】を入れて試した経験が豊富です、と言われる方が怖い。


それからも、思いつく可能性を一つずつ出した。俺とルークと師匠が錬金術の側から考え、オルビアが人体の側から危険性を考える。


最終的に、少なくとも今考えられる範囲では実験できるだろうという結論になった頃には、かなり時間が経っていた。


「ただし、効果を確認するために傷をつけることは認めません」


オルビアが念を押す。


「もちろんです」


ルークが答えた。


「殴るのも?」


俺が聞く。


「認めません」


ですよね。


「では、どうやって効果を確認するんです?」


「完全な確認はできません。今回は【硬質】が正常に《付与》できるか。その結果、身体に異常が起こらないか。そこまでです」


なるほど。何でも実験すればいいというものでもないらしい。


ルークが自分自身へ【硬質】を《付与》する。


結果だけを言えば、《付与》は成立した。身体の一部が石のようになることも、動けなくなることもない。俺たちが生命《識別》を使えば、確かに【硬質】が追加されている。


「腕を曲げてください」


オルビアの指示に従って、ルークが肘を曲げる。


「痛みは?」


「ありません」


「違和感は?」


「ないです」


立ち上がり、歩き、指を動かす。関節の動きにも、見た限りでは変化はない。


「付与そのものは成功しているように見えますね」


俺が言う。


「ああ」


師匠も頷いた。


「では、これで終わりです」


オルビアが言った。


ルークが少しだけ残念そうな顔をする。


「明日まで待ちましょう」


「はい」


研究者の待てができて偉い。


次の日になっても、ルークに異常はなかった。


【治癒 Lv.1】も【硬質】も残っている。関節の動きにも変化はなく、痛みもない。オルビアの診察でも問題は見つからなかった。


次の候補として出てきたのは【抗体】だった。


「これは……」


結晶を見たオルビアの反応が、それまでとは少し違った。


「使えそうですか?」


俺が聞く。


「想定通りに作用するのであれば、ですが」


オルビアは結晶を見たまま答える。


「病気になってから治すのではなく、病気になる前に使える可能性があります」


「予防ですか」


「ええ」


【治癒】は分かりやすかった。傷があれば、それを早く治す。


【硬質】も、本当に想定通りの効果が出るなら、怪我をしにくくできるかもしれない。


そして【抗体】。病気になる前に、病気になりにくい身体を作れる。


「ただ、待ってください」


少し興味を見せたと思ったら、オルビアはすぐに止めた。


「何に対する抗体として作用するんですか?」


誰も答えなかった。


「そもそも、この【抗体】という性質が人間に入った時、どのように働くのか。それが強く働きすぎた場合に何が起こるのかも分かりません」


「調べる必要がありますね」


ルークが言う。


「ええ。今日は付与しません」


「はい」


今日はやらないんだ。


結局、その日は【抗体】について調べるだけで終わった。師匠の知識も使い、ルークが資料を集め、オルビアが医療の側から一つずつ確認していく。


翌日になっても話は続いた。


それでも、調べられる範囲で危険性を洗い出し、オルビアが実験を認めてから、ようやくルーク自身へ《付与》した。


これも《付与》自体は問題なく成立した。


だからといって、病気にさせて効果を確認するわけにもいかない。その日は診察と生命《識別》で異常がないことだけを確認して終わり、翌日も同じ確認をした。


問題はなかった。


さらに一日経っても、ルークはいつも通りだった。


そんな研究が続いた。


毎日必ず新しい性質を《付与》したわけではない。候補を出したものの、オルビアに却下されることもあった。錬金術的には問題がなさそうでも、人体へ入れた時の影響が読めず、見送ったものもある。


逆にオルビアが興味を持っても、俺たちの側から性質の働きが分からず、実験しなかったこともあった。何を試すか決めるだけで一日が終わった日もある。


それでも、安全だと判断できた性質については、一つずつルークへ《付与》していった。


一日に一つ。付与した日は、それ以上進まない。


オルビアが診察し、俺たちが生命《識別》で確認する。翌日まで待ち、それでも異常がなければ、ようやく次を考える。


俺も最初の頃ほど、ただ師匠やルークの話を聞いているだけではなくなっていた。性質を人間へ入れた時に何が起こるか。どんな変化が考えられるか。


分からないことは多い。それでも十年間習ってきた錬金術なら、俺にも考えられることはある。


もちろん、最後に人間へやっていいかを決めるのはオルビアだった。


《抽出》はやらない。《精製》もやらない。《発現》もだ。


できる可能性があることと、人間相手に試していいことは違う。オルビアが認めたのは、《付与》だけだった。


そして、その《付与》では一度も問題が起こらなかった。


「……使えるかもしれませんね」


ある日、診察を終えたオルビアが言った。


ルークが顔を上げる。


「生命錬金を、ですか?」


「違います。《付与》です」


そこは即答だった。


「人間から性質を抜くことも、今ある性質を変えることも、私はまだ認められません。《発現》も同じです。ただ、性質を追加することについては……」


オルビアが、それまでの記録へ目を落とす。そこには何日分もの結果が残っていた。


「少なくとも、これまで問題は起きていません」


「医療に使えると思いますか?」


「可能性はあると思います」


以前なら、オルビアはこんな言い方もしなかっただろう。


【治癒】なら、傷を治す。【硬質】なら、怪我を防げるかもしれない。【抗体】なら、病気を防げるかもしれない。


何でも入れればいいわけじゃない。だから毎回、何を入れるか考えている。医者にも診てもらっている。一つ試すたびに翌日まで待っている。危ないと思えば、試さない。


それでも、今のところ一度も問題はなかった。


師匠が生命錬金を危険だと言っていた理由は、今なら分かる。それでも、危険だから何もできないということではないのかもしれない。


使い方を決める。やっていいことと、やってはいけないことを分ける。


以前、医療錬金を研究した時とは少し違う形で。


これは、本当に医療に使えるかもしれない。


「今日はここまでにしましょう」


オルビアが記録を閉じた。


その日の実験も問題なく終わった。


俺も帰る準備をする。ここ数日は王都と森を行ったり来たりしている。転移陣があるとはいえ、毎日となるとさすがに少し面倒だ。


「師匠、帰りましょうか」


「ああ」


師匠が答えた。


……と思ったが、動かなかった。


「師匠?」


「レイジ」


「はい」


「今日は王都に泊まるぞ」


「え?」


珍しい。


王都に用事がある時でも、師匠はだいたい森へ帰りたがる。


「何かあるんですか?」


「いや」


師匠は少し考えてから、研究室を見回した。


「少し気になる」


「何がです?」


「分からん」


分からんのか。


「何か問題があったんですか?」


「ない」


「じゃあ、何が気になるんです?」


「だから分からんと言っている」


師匠にも分からないらしい。そこまで言われると気にはなるが、今日までの実験で問題が起きていないのも事実だ。オルビアもルークも、特に異常があるようには見えない。


「まあ、いいですけど」


王都に泊まるくらいなら別に困らない。師匠がそうしたいなら、そうすればいい。


俺たちはルークとオルビアに挨拶をして、研究棟を出た。


その夜。


王都の宿で夕食を済ませ、部屋へ戻った。


結局、師匠が何を気にしているのかは分からないままだった。本人にも分からないのだから、俺に分かるはずがない。


明日になって何もなければ、森へ帰るだろう。


そう思いながらベッドに腰を下ろした時だった。


左腕が震えた。


「ん?」


通信端末を見る。


オルビアからだ。


初日に連絡先を渡して以来、一度も使われていなかった。


俺は通信を繋いだ。


「はい。レイジです」


『……レイジさん?』


「はい」


声が変だった。オルビアらしくない。息が乱れている。


「どうしました?」


『エレノアさんは……』


一瞬、言葉が途切れた。


『エレノアさん……聞こえてますか』


俺は師匠を見る。


師匠はもう立ち上がっていた。


「聞こえている」


『……助けてください!!』

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