エレノア・アイゼンハルトの魂
「入れ」
師匠に促され、俺は研究室へ足を踏み入れた。
十年間、この家で暮らしてきた。それでも、この部屋に入るのは初めてだった。
「……普通の研究室ですね」
「何を想像していたんだ」
「いや、別に何も」
壁際には棚が並び、薬品や鉱石、魔石なんかの試料が収められている。机の上には使い込まれた器具や紙の束があり、部屋の隅には本が積まれていた。
どこにでもある、とまでは言わないが、錬金術師の研究室と言われれば納得できる光景だ。ただ、妙に年季を感じる。
本当に長い年月をかけて使われてきた部屋だからそう見えるのか。それとも、四百年前の人間が目の前にいると知ったばかりだから、そう感じるだけなのか。俺には分からなかった。
「ここにあるのは、王立図書館へ寄贈した研究と同じ系統のものだ」
「禁書庫にあった?」
「そうだ」
俺は改めて部屋を見回した。昨日までなら、四百年なんて数字をこの部屋に結びつけることはなかった。
「レイフォードが始めたのは、私が四百年研究してきたもののほんの最初に過ぎない。学問としての名前はないが、私は便宜上、生命錬金と呼んでいる」
「生命錬金……。ルークが成功した、生きた人間への《識別》も?」
「そうだ」
師匠は少し間を置いた。
「レイフォードは素晴らしい錬金術師だ。四百年あれば、私と同じところまで来るかもしれん」
「……そこまでですか」
「そういう意味では、お前よりも才能には恵まれている」
「卒業したその日に言います?」
「事実だ」
「そうですか……」
まあ、別にいいけど。俺は俺だし、ルークはルークだ。
「だからこそ、私が気をつけなければならなかった。もう遅いがな」
その言葉で、グレイス第五倉庫で師匠とルークが初めて会った時のことを思い出した。師匠はルークをじっと見ていた。当時の俺は、多分《識別》でもしているんだろうと何の疑問もなく思っていた。
「……師匠、あの時ルークを《識別》してたんですか?」
「したな」
「その時から分かってたんですか?」
「才能があることはな」
「それで、まずいことになった、と」
「そういうことだ」
師匠は棚から一本の牙を取り出した。見慣れたゴブリンの牙だ。
「これが生きた人間だとしよう」
いきなり嫌な例えになった。
師匠は牙を机の上に置いた。
「今更聞くまでもない。ゴブリンの牙の《識別》なんて誰でもできるだろう、錬金術師ならな。やってみろ」
「はい」
言われた通り《識別》する。当然、性質が見えた。
「できました」
「牙本体には?」
「何も起きてません」
「そうだ。《識別》は対象を観測するだけだ。つまりレイジ、お前が私を《識別》しても何も起こらない」
俺は師匠を見た。
「……やっていいんですか?」
「そのために言っている」
「じゃあ」
師匠へ《識別》を向ける。だが、何も見えなかった。
「……やってみました。できません」
「そうだ。やり方が違うのだ」
「やり方?」
「対象の人間の内部、臓器、血液、そのさらに奥まで見透かすつもりで見ろ。魂も含めて、全てだ」
「魂……」
「今のお前にならできるはずだ」
俺は息を吐き、もう一度師匠を見る。
白衣の下。皮膚の下。肉や骨や臓器。そのどれかを見るんじゃない。この人間そのものを構成しているものを見る。
そういうつもりで、《識別》する。
最初に見えたのは、ひとつだった。
【エレノア・アイゼンハルトの魂 Lv.1】
「……」
見えた。
それを認識した瞬間、今まで見えていなかったものが続けて浮かび上がってくる。
【脈動 Lv.4】
【代謝 Lv.3】
【恒常 Lv.4】
まだある。俺が普段《識別》している鉱石や薬草とは比べものにならないほど多くの性質が、師匠という一人の人間の中に存在している。
「……できました」
「そうか」
何も起こっていない。目の前には、さっきまでと何一つ変わらない師匠が立っている。
「……これが十年前に師匠がやった……」
「そうだ。生命の《識別》だ」
「じゃあ師匠。あの時言ってた、肉体と魂の齟齬って?」
「そのままの意味だ。お前には、この肉体に元からあった少年の魂と、もう一つ、私には読めない文字か記号で表された魂があった」
「……二つ?」
「そうだ」
師匠は俺を見た。
また《識別》されている。
「今も見えるんですか?」
「見える」
師匠は机から紙を一枚取り、ペンを走らせた。普段の師匠の字は綺麗だ。十年間見てきたから知っている。
だが、今回ばかりは違った。
師匠が紙に書いた四文字は、線の長さも角度も怪しく、どうにか元の形を写そうとしたことだけは分かる代物だった。
それでも、俺には読めた。
「……これ、日本語で久世怜司です」
「ニホンゴ?」
「俺が元いた世界の言葉です。『久世怜司』って、俺の前の名前が書いてあります」
「ああ、お前の元いた世界の言葉か」
師匠は紙に書いた文字と俺を見比べた。
「……師匠にしては、めちゃくちゃ字汚いですね」
「初めて見る文字なのだから仕方ないだろう」
「まあ、そうですけど」
四百年生きていても、初めて書く文字は下手らしい。
師匠は紙を机に置いた。
「私は、この魂を観測したくてお前を拾った」
「……え?」
「お前の才能を育てたいと思ったのも本当だ。だが、それだけではない」
師匠はいつもと変わらない顔で俺を見る。
「騙したつもりはないが、すまなかった」
一瞬、何を言えばいいのか分からなかった。
十年前、行くところも何もなかった俺を師匠は拾った。その理由の一つが、研究対象として興味を持ったからだった。
でも。
「……別に謝らなくていいですよ」
師匠が俺を見る。
「俺、拾ってもらって困ったことないですし。それに十年教えてもらったのも本当ですから」
「そうか」
「はい」
それでいい。今さら、十年間が嘘になるわけでもない。
俺は机の上の紙をもう一度見た。
久世怜司。
ひどい字だけど、間違いなくそう書いてある。
「それで、この【魂】のLv.1っていうのは?」
「私がこれまで観測した限り、【魂】は全てLv.1で統一されている」
「全員?」
「少なくとも、私が見たものはな」
師匠は再びゴブリンの牙へ視線を戻した。
「では、ここからが問題だ」
嫌な予感がした。
「牙から【硬質】を《抽出》する」
師匠が《抽出》を行う。
牙から性質が抜け、【硬質】が結晶として取り出される。同時に、残った牙は性質構成に従って別の物質へ変わり、器の中にはポイズンスライムの体液が残った。
「知っているな」
「もちろんです」
錬金術師なら誰でも知っている。性質を《抽出》すれば、残った性質によって物質は再構成される。今まで何度も見てきた現象だ。
師匠は取り出した【硬質】の結晶をつまんだ。
「では、この結晶が【魂】だったら?」
「……え?」
「人間から【魂】を《抽出》したとしよう」
師匠は片方の手に結晶を持ち、もう片方で器の中の液体を示した。
「取り出した魂はなんだ?」
答えられなかった。
「残った液体は人と呼べるのか?」
さっきまでゴブリンの牙だった液体を見る。
何もおかしなことは起きていない。錬金術としては、あまりにも普通の現象だ。
だからこそ、その問いに答えられなかった。
「次だ。これはLv.2だ」
師匠は【硬質】の結晶を置いた。
「《精製》する」
術式が組まれ、性質が一気に研ぎ澄まされていく。
【硬質 Lv.5】
「……一気にそこまでやります?」
「私が失敗すると思うか?」
「思いませんけど」
「なら問題ない」
そういう問題なのだろうか。
師匠は完成した結晶を俺に見せた。
「先ほど言った通り、私が観測した【魂】は全てLv.1だった。では、このLv.5まで《精製》されたものが【魂】なら、これはなんだ?」
「……」
Lv.5の魂。
それが何を意味するのか、想像すらできなかった。
「私は《精製》など失敗しないから、まだいい」
師匠は淡々と続ける。
「だが、もし【魂】の《精製》に失敗したら?」
喉の奥に、嫌なものが込み上げた。
「それは、その者の死と言えるのか?」
さっきの液体が目に入る。
「残りの性質は、この液体のように存在しているのに?」
「……っ」
思わず口元を押さえた。
別に血を見たわけじゃない。死体を見たわけでもない。目の前にあるのは、ゴブリンの牙だった液体と性質の結晶、それに魔石や鉱石が並ぶ普通の研究室だけだ。
なのに、気持ち悪い。
「気分が悪いか」
「……ちょっと」
「そうか」
師匠が俺を見る。
「構わず続けてください。ここまででも、俺が知らなきゃいけない話なのは十分わかりましたので」
師匠はしばらく俺を見ていた。
「そうか。見事だな」
それだけ言って、試料棚へ向かった。
褒められた。たぶん喜んでいいところなのだろうが、今はそれどころじゃない。
師匠は棚から小さな魔石を取り出した。
「次は《付与》だ」
先ほどLv.5まで《精製》した【硬質】を魔石へ《付与》する。当然のように成功した。
「これが【魂】だったとしよう。魂が魔石に入ったな。これはどういう状態だ?」
俺は黙って魔石を見る。
「この魔石は人間なのか?」
答えられない。
「魔石だけではない。それこそゴブリンの牙に【魂】を《付与》したとしよう。性質構成が変われば、何か見たこともない物質へ変質するだろう」
人間の魂を持った、何か。
「それは人間なのか?」
何も言えなかった。師匠も答えを求めてはいないようだった。
「最後だ」
師匠は【硬質】を付与した魔石を机へ置き、その場で簡単な術式を書く。
「では、【硬質】を《発現》してみよう」
術式が働き、魔石の形が変わった。丸みを帯びていた表面が角張り、見るからに硬質なものへ変わっていく。
これも知っている。ただ性質を《発現》させただけだ。
「さて、これが【魂】だったとして何が起こる?」
俺は魔石を見る。
「石が話すのか? 喉もないのに?」
何も言えない。
「感情が宿るのか? 脳もないのに?」
分からない。
そもそも、魂とはなんだ。
さっき見た【エレノア・アイゼンハルトの魂 Lv.1】は、師匠の何なのだ。
師匠そのものなのか。それとも、師匠を構成する性質の一つに過ぎないのか。
俺には何一つ分からなかった。
「《発現》で何が起こるか。私には想像がつかん」
師匠は魔石を机へ戻した。
俺はもう、質問することすらできなかった。
十年間使ってきた。《識別》も、《抽出》も、《精製》も、《付与》も、《発現》も、全部知っている。
今日教えられた技術は、一つも新しくない。ただ、それを人間に向けただけだった。
「これが生命錬金の基礎講義だ」
師匠は何でもないことのように言った。
基礎。
これで。
師匠は机の上に並んだ結晶と魔石を見た。
「何が人間たらしめているのか。それはまだ私には分からん」
そして、いつもの調子で続けた。
「研究して、気づいたら四百年経っていたのだ」
研究室は、ただただ静かだった。




