エレノア・アイゼンハルト
エレノアのあとをついて王立図書館の中を歩く。自分が調べものをしていた場所から離れ、いくつかの通路を抜けたところで、レイジは少しずつ違和感を覚え始めた。
人が減っている。先ほどまでいた閲覧室には学生らしい若者や研究者が何人もいたのに、今はすれ違う人すらほとんどいない。壁際に並ぶ本棚もなくなり、代わりに閉じられた扉が増えていた。
「師匠」
「なんだ」
「どこまで行くんですか?」
「もうすぐだ」
答えになっているような、なっていないような返事だった。
しばらく歩くと、エレノアが一つの扉の前で足を止める。そこには司書が一人待っていた。エレノアが持ってきた資料を確認し、何か書類のようなものに目を通している。レイジも横から覗こうとしたが、よく見えない。
「確認しました。こちらは禁書庫で保管いたします」
「分かった」
「禁書庫?」
思わず声が出た。
エレノアが持ってきたのは、昔から一人で続けていた研究の資料だと思っていた。だが、まさか普通の書庫ですらないとは思わなかった。
「師匠、そんなもの持ってきたんですか?」
「そんなものとはなんだ」
「禁書庫に入るようなものですよ」
「だから持ってきた」
そういう話ではない。
「何の研究なんですか?」
「お前にはまだ早い」
やっぱり教えてくれないらしい。十年近く一緒に暮らしてきたが、こういうところは変わらない。聞いても教えてくれないものはあるし、理由まで説明してくれることも少ない。
司書が扉を開ける。エレノアが何のためらいもなく中へ入ろうとしたので、レイジは慌てて足を止めた。
「待ってください。俺も入っていいんですか?」
エレノアが振り返る。
「私の弟子だ。構わん」
それでいいのか。
レイジが司書を見ると、司書もエレノアを確認しただけで止める様子はなかった。
「アイゼンハルト様が許可されるのであれば問題ありません」
「……はい?」
聞き慣れない名前ではない。むしろ、よく知っている名前だった。
レイジが司書を見る。しかし司書はすでにエレノアから資料を受け取り、仕事に戻っていた。
アイゼンハルト様。
誰のことだ。
いや、エレノアに向かって言っていた。
「師匠」
「なんだ」
「今、アイゼンハルト様って呼ばれてませんでした?」
「呼ばれていたな」
「……そうですか」
エレノアはそのまま中へ入っていった。レイジもあとを追う。
まあ、いいか。
エレノアという名前自体、歴史上の錬金術師から取ったものだと思っていた。今さらアイゼンハルトまで使っていても不思議ではない。
いや、フルネームで使うのはどうなんだ。
少し気になったが、それよりも今は禁書庫だった。
中へ入ると、空気が変わった。普通の図書館と大きく違うわけではない。棚があり、本や資料が並んでいる。ただ、どれも古い。背表紙だけでは何が書かれているのか分からないものも多く、棚の一部には資料ではなく箱が並べられていた。
レイジは思わず周囲を見回す。
ここが禁書庫。
錬金術を十年学んできたが、当然入ったことはない。
「師匠、ここ見ててもいいですか?」
「勝手に持ち出すなよ」
「しませんよ」
触るなとは言われなかった。なら、見ていいということだろう。
エレノアは司書と一緒に奥へ向かった。持ってきた資料について何か確認するらしい。
レイジは近くの棚を見る。せっかく禁書庫まで入れたのだ。何も見ずに帰るのはもったいない。
棚に並んだ資料の名前を順番に追っていく。知っている研究者の名前もあれば、聞いたことのない名前もある。かなり古い研究らしく、今では使われていない言葉が書かれているものもあった。
気になる。ものすごく気になる。
一つくらい読んでもいいんだろうか。いや、やめておこう。ここで勝手に読み始めて、あとから駄目だったと言われても困る。
レイジは手を出さず、棚だけを眺めながら歩いた。それでも面白かった。十年前なら、何が書いてあるのかすら分からなかったと思う。今なら題名を見るだけで、おおよその研究分野くらいは分かる。中には名前だけ知っていた研究もあった。
もう少し時間があればな。
そんなことを考えながら、さらに奥へ進む。
古い資料がまとめられた一角で、レイジの足が止まった。
知っている名前があった。
エレノア・アイゼンハルト。
「……ん?」
レイジは近づいた。
名前を知っているのは当然だ。四百年ほど前、現代錬金術の基礎となる五体系を確立した錬金術師。今では都市や大学にまで名前が残っている。
昔、エレノアから渡された本を読んで知った。あのときは驚いた。助けてくれた女がエレノアと名乗った直後に、歴史上の大錬金術師にもエレノアという名前が出てきたのだから。
さすがに四百年前の人間が目の前にいるとは思わない。だから、歴史上の偉人から名前を取ったんだろうと思った。ずいぶん堂々とした偽名だとは思ったが、エレノアならやりかねない。
それから十年。レイジはずっと師匠と呼んできた。
資料には、エレノア・アイゼンハルトについての記録がいくつかまとめられていた。その中に、一枚の古い写真がある。錬金術で記録されたものらしい。
レイジは何気なくそれを見た。
白衣を着た女が立っている。
「…………ん?」
もう一度見る。
長い紫色の髪。顔。白衣。
見慣れている。あまりにも見慣れている。
違うところがあるとすれば、白衣の下に着ている服くらいだった。今のエレノアが着ているものとは形が違う。明らかに古い時代の服だ。
だが、顔は同じだった。
レイジは資料の年代を見る。
約四百年前。
写真を見る。
いつもの師匠。
年代を見る。
四百年前。
もう一度写真を見る。
「…………んん?」
朝のことを思い出した。
十二歳だった自分は二十二歳になった。それなのに、向かいで朝食を食べていたエレノアは十年前からほとんど変わっていなかった。
美容錬金術でも研究しているんだろうか。師匠なら普通にやりかねない。
そう思った。
「いやいやいや」
さすがに美容錬金術で四百年は無理だろう。
そこで、先ほど聞いた言葉が戻ってきた。
――アイゼンハルト様。
レイジは写真を見る。それから、奥にいるエレノアを見る。また写真を見る。
「……師匠」
声が少し小さくなった。
エレノアは司書と話している。レイジは資料から離れ、エレノアのところまで歩いていった。
「師匠」
「なんだ」
「ちょっといいですか?」
「いいぞ」
エレノアがこちらを見る。いつもの顔だった。
レイジはもう一度、少し離れたところにある写真を見る。やっぱり同じだ。
「師匠って、エレノア・アイゼンハルトなんですか?」
「そうだが」
「……え?」
あまりにも普通に返された。
「いや、そうじゃなくて。エレノア・アイゼンハルトですよ?」
「そう言っている」
「現代錬金術の五体系を作った?」
「作ったというより、まとめた方が近いな。それ以前から個別の技術はあった」
「そこは今どうでもいいです」
「そうか」
「四百年前の?」
「そうだ」
レイジは黙った。エレノアも黙っている。
「……本人?」
「さっきからそう言っているだろう」
「ちょっと待ってください」
頭が追いつかない。レイジは額を押さえた。
「じゃあ、アイゼンハルトって師匠の本名なんですか?」
「そうだ」
「エレノアも?」
「そうだ」
「偽名じゃない?」
「なぜ偽名だと思っていたんだ」
「いやいやいやいや」
それを聞くのか。
「俺、昔読んだ本にエレノア・アイゼンハルトって出てきたんですよ!」
「そうだろうな」
「四百年前の大錬金術師として!」
「ああ」
「その少し前に師匠からエレノアって名乗られてるんですよ!」
「ああ」
「普通、歴史上の人から取った偽名だと思うでしょう!」
「私は一度も偽名だと言っていないぞ」
「聞いてねえよ!!」
禁書庫にレイジの声が響いた。司書が一瞬だけこちらを見る。
すみません。
レイジは心の中で謝った。エレノアは特に気にした様子もない。
「じゃあ何ですか。俺、十年間ずっとエレノア・アイゼンハルト本人に錬金術教わってたんですか?」
「そうなるな」
「師匠、資格持ってませんでしたよね?」
「必要ないからな」
「そりゃそうだよ!」
資格制度より古いじゃないか。
四級試験を受けたいと言ったとき、なぜ自分が受けなければならないんだと言っていた。そのときは、相変わらず師匠は師匠だと思っていた。
違った。
五体系をまとめた本人に、五体系の資格を取ったことがあるか聞いていた。
何をやっていたんだ、俺は。
「じゃあ昔の錬金術に詳しかったのも」
「見ていたからな」
「五体系全部できるのも」
「できるようにまとめたからな」
「アイゼンハルト大学の名前は?」
「私から取ったらしい」
「らしい!?」
「私がつけたわけではない」
レイジは顔を覆った。
十年間。十年間だ。
思い返せば、いくらでもあった。おかしいと思ったことは何度もある。だが、そのたびに「師匠だから」で片づけてきた。
実際、師匠だからで合っていた。
ただし、その師匠がエレノア・アイゼンハルト本人だった。
「……なんで教えてくれなかったんですか?」
「聞かれなかったからだ」
「聞くわけないでしょう!」
「そうか?」
「四百年前の人ですかって聞く弟子がどこにいるんですか!」
エレノアは少し考えた。
「ここにいるな」
「今は知ったから聞いてるんですよ!」
駄目だ。全然話が通じない。
いや、十年間こうだった。何も変わっていない。
変わったのは、レイジがようやく正体を知ったことだけだ。
「……待ってください」
まだ一つある。むしろ一番おかしい。
レイジはエレノアの顔を見る。写真と同じだった。似ている、ではない。同じだ。
「じゃあ師匠、四百歳超えてるんですか?」
「そうなるな」
「なんでその見た目なんですか?」
ようやく、エレノアが納得したように自分の手を上げた。指輪がある。
「これだ」
「指輪?」
「《不老の指輪》だ」
「……何ですか、その名前からして嫌な予感しかしないもの」
「私が二十一のときに作った」
「そんなもの作ったんですか!?」
「ああ」
エレノアが指輪を見る。
「これはよくできている」
少しだけ声が変わった。レイジには分かった。
「あれ?」
「装着した人間の肉体を、その時点の状態で時間的に保存する。老化による変化だけを進ませないよう、必要な性質と術式を組んだものだ」
「師匠」
「五体系を使えば理屈の上では可能だが、問題はそれを常時安定して発現させ続けることだった。それに、身につけるものだから大きくするわけにもいかん」
「師匠」
「最終的には必要な性質と術式をすべて組み直して、この大きさにまとめた。ここまで小さくするのが一番苦労したな」
「師匠」
「なんだ」
「めちゃくちゃ喋りますね」
エレノアが黙った。
「……悪いか?」
「いや、珍しいなって」
いつもなら「そうだ」で終わる。さっきから自分が四百年前のエレノア・アイゼンハルト本人だという話ですら、ほとんど「そうだ」で済ませていた。
それなのに、指輪の話になった途端これである。
レイジはエレノアの指を見る。そこにあるのは、普通の指輪と大して変わらない大きさのものだ。
「今言ったもの、全部これに入ってるんですか?」
「そうだ」
「この大きさに?」
「ああ」
エレノアがわずかに口元を緩めた。
「よくできているだろう」
「自分で言うんですね」
「事実だからな」
少し楽しそうだった。本当に気に入っているらしい。
《不老の指輪》がしていることは、あくまで装着した肉体を時間的に保存することだった。身につけている間、エレノアの身体は二十一歳の状態から老化しない。ただし、怪我をしなくなるわけではない。腹も減るし、眠くもなる。
既存の五体系を極限まで組み合わせ、それを指輪一つに収めている。話を聞けば聞くほど、やっていることがおかしい。
「それ、作るのにどれくらいかかったんですか?」
「かなり苦労した」
エレノアが言った。
この人が苦労したと言うなら、本当にとんでもないものなのだろう。
「でも、それがあるから四百年ずっとその姿なんですね」
「ああ」
ようやく納得した。今朝、美容錬金術でもやっているのかと思った。美容どころではなかった。
「師匠なら普通にやりかねないと思ってましたけど、本当にやってたんですね」
「美容錬金術か?」
「なんで分かるんですか」
「朝、妙な顔で見ていただろう」
見られていたらしい。
レイジはため息をついた。とんでもないことを知ったはずなのに、少しずついつもの感じに戻ってきた。
エレノア・アイゼンハルト。四百年前、現代錬金術の五体系をまとめた歴史上の大錬金術師。
それが師匠だった。
考えてみれば、納得できることの方が多い。強すぎるのも、何でも知っているのも、昔のことを妙に詳しく話すのも、資格を取ろうともしないのも、十年前から見た目が変わらないのも、全部理由があった。
「師匠」
「なんだ」
「俺、十年間よく気づきませんでしたね」
「そうだな」
「そこは否定してくださいよ」
「事実だろう」
「そうですけど」
レイジはもう一度、四百年前の写真を見た。白衣姿のエレノアがいる。その下の服だけが違う。
今、隣にいるエレノアを見る。同じ顔だった。
「……本当に本人なんだな」
「まだ疑っていたのか?」
「四百歳の人が目の前にいたら、少しくらい疑わせてください」
「私は四百歳ではない」
「え?」
「もっと上だ」
「細かい!!」
また司書がこちらを見た。
今度こそ黙ろう。
その後、エレノアの資料の受け入れが終わるまで、レイジは禁書庫を見て回った。先ほどまでとは少しだけ見え方が違う。ここにある古い記録の中には、エレノアが実際に見た時代のものもあるのだろう。
聞けば教えてくれるんだろうか。
いや、たぶん「そうだ」で終わる。《不老の指輪》について聞けば、また喋るかもしれない。
そんなことを考えているうちに、用事は終わった。
二人で王立図書館を出る。
外へ出れば、王都はいつも通りだった。人が歩き、馬車が通り、店から声が聞こえる。その中を、レイジは四百年以上生きている師匠と並んで歩いていた。
「なんか変な感じですね」
「何がだ」
「師匠の正体を知ったので」
「何も変わっていないだろう」
「まあ、そうなんですけど」
本当に何も変わっていない。
エレノアはエレノアだった。十年間錬金術を教えてくれた師匠が、歴史上のエレノア・アイゼンハルト本人だった。それだけだ。
それだけで済ませていい話なのかは分からない。だが、本人がこれなのだから仕方がない。
「号外! 王立新聞の号外だ!」
通りの向こうから声が聞こえた。何人かが集まり始める。
レイジもそちらを見る。
「何かあったんですかね」
「さあな」
一部受け取ってみる。大きな見出しが目に入った。
レイジは思わず立ち止まった。
「……マジか」
そこには、よく知っている名前があった。
ルーク・レイフォード。
セレスティアで研究を続けている友人。
記事を読む。そして、レイジは目を見開いた。
「師匠、ルークがやりましたよ!」
生きた人間への《識別》に成功。
何度読み直しても、そう書かれている。
「すげえ……」
第四章で、レイジも研究を手伝った。風邪を治すために、病素をどうにかできないか考えた。オルビアとルークと一緒に試して、うまくいかなかった。
あのとき、一つの壁になっていたのが人間だった。
錬金術師は人間そのものを《識別》できない。だから、医者が生命を見て、錬金術師は性質を見る。それが、あのとき出した答えだった。
ルークはその先へ進んだ。
「生きた人間を《識別》したってことですよね。これ、医療錬金術かなり変わるんじゃ――」
返事がない。
レイジは隣を見る。
エレノアが号外を見ていた。さっきまでと顔が違った。《不老の指輪》を嬉しそうに語っていた人間と同じとは思えない。
眉間にわずかに皺が寄っている。
十年一緒に暮らしてきた。怒っているところも見た。呆れているところも見た。真剣に錬金術を教える顔も、何度も見てきた。
だが、今の顔は知らなかった。
「師匠?」
エレノアは記事から目を離さない。
「まずいことになった」
「……え?」
何が。
レイジはもう一度、号外を見る。
ルークが生きた人間への《識別》に成功した。
それだけだ。
いや、それだけではない。とんでもない成果だ。
だが、失敗したわけではない。
成功した。
「何がまずいんですか?」
エレノアは答えなかった。
レイジは記事を見る。
《識別》。
生きた人間への《識別》。
その言葉が、妙に引っかかった。
どこかで。
いや。
「……あれ?」
思い出した。
十年前。この世界で目を覚まして、森の中でエレノアと出会った。
あのとき、まだ錬金術が何なのかも知らなかった自分を、エレノアは見た。
そして――《識別》した。
レイジはゆっくりと顔を上げる。
「……師匠」
「なんだ」
「昔、俺を《識別》しましたよね?」
エレノアがレイジを見る。
否定しなかった。
そのまま、しばらく黙っていた。
やがて口を開く。
「レイジ」
「はい」
「お前は今をもって私の弟子から卒業だ」
「……はい?」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
「ちょっと待ってください。今ですか?」
「ああ」
「なんで?」
十年教える。最初にそう言われた。もうすぐ十年になる。卒業が近いことくらい、レイジにも分かっていた。
だが、今ではない。少なくとも、ルークの号外を読んだ直後に突然言われるとは思っていなかった。
エレノアがレイジを見る。
「お前はもう、私の認めた一人前の錬金術師だ」
レイジは言葉を失った。
ついさっきまでなら、それだけでも十分だった。十年間。十二歳から二十二歳まで、ずっとこの人から錬金術を教わってきた。
そのエレノアが、自分を一人前だと言った。
だが今は、その名前が何を意味するのかも知っている。
エレノアは続けた。
「お前の言葉を借りると、エレノア・アイゼンハルトが認めた錬金術師がお前だ」
何も言えなかった。
四百年以上生きている錬金術師。現代錬金術の五体系をまとめた本人。その人が、レイジを一人前だと言っている。
嬉しくないわけがない。ずっと目指していた。この人に一人前だと認めてもらうことを。
それなのに、今は喜ぶより先に、エレノアの顔が気になった。
「レイジ」
「はい」
「お前にしか見せられないものがある」
さっきまでよりも、その言葉が重く聞こえた。
「帰るぞ」
エレノアが歩き出す。
レイジは手に持った号外を見る。
ルーク・レイフォード。
生きた人間への《識別》に成功。
ついさっきまで、ただの朗報に見えていた。
今はもう、同じようには見えなかった。
王都錬金ギルドから転移陣を使い、二人は魔の森へ戻った。
帰り道、エレノアはほとんど喋らなかった。レイジも聞かなかった。
いや、聞きたいことはいくらでもある。
なぜ人間を《識別》できるのか。十年前、自分に何を見たのか。なぜルークの成功がまずいのか。そして、なぜそれを自分にしか見せられないのか。
だが、エレノアは言った。
お前にしか見せられないものがある。
なら、それを見れば分かるのだろう。
家に着く。
十年間暮らした家だった。
何度も食事をした。何度も授業を受けた。失敗もしたし、怒られたこともある。十二歳だった自分が二十二歳になるまで、ずっとここで暮らしてきた。
エレノアが家の奥へ向かう。レイジもあとをついていく。
そこで、足が止まった。
見慣れた扉がある。
知らない場所ではない。むしろ、ずっと知っている。この家に来たころからあった。
エレノアが一人で研究するときに使っていた部屋。
十年間。
レイジは一度も中へ入ったことがなかった。
「師匠」
エレノアが扉に手をかける。
「入れ」
扉が開いた。




