レイジ・クゼ
三年が経った。
二十二歳になったレイジは、いつものようにエレノアの家で錬金術を学んでいた。十二歳でこの森に来てから、もうすぐ十年になる。
四級を取って、二級まで上がって、論文を書いて、大学の研究室に呼ばれて、医療錬金術の研究まで手伝った。それでも森へ帰ってくれば、エレノアは新聞を読んで次の授業を決める。十九歳のあの日からも、それは変わらなかった。
「レイジ。明日、王都へ行くぞ」
朝食を食べ終えたところで、エレノアが言った。
「王都ですか?」
「ああ」
「何かあるんですか?」
「王立図書館に行く」
珍しい。エレノアは必要がなければ森から出ない。王都へ行くこと自体はこれまでにもあったが、自分から王立図書館へ行くと言い出した記憶はなかった。
それにしても、変わらないな。
レイジは十二歳から二十二歳になった。身長も伸びたし、顔つきだって十年前とは違う。それなのに、向かいで朝食を食べているエレノアは、初めて会ったころからほとんど見た目が変わっていない。
美容錬金術でも研究しているんだろうか。
師匠なら普通にやりかねない。
「本でも借りるんですか?」
「違う。研究資料を寄贈する」
「研究資料?」
「ああ」
それだけ言って、エレノアは紅茶を飲んだ。
たぶん、昔からエレノアが一人でやっている研究のことだろう。レイジがこの家に来たころから、たまに研究室へ籠もって何かしていた。聞いても詳しく教えてくれなかったので、いつしか気にしなくなっていた。十年近く一緒に暮らしていても、師匠にはよく分からないところがある。
「じゃあ、俺も行っていいですか?」
「構わん」
「俺も王都に用があります」
「そうか」
相変わらず理由は聞かない。
別に大した用事ではなかった。王立図書館へ行くなら、ちょうどいい。一度、調べてみようと思っただけだ。
レイジがこの世界で目を覚ます前、この身体で生きていた少年のことを。
◇
翌日、二人は転移陣を使って王都へ向かい、そのまま王立図書館へ入った。
調べる手掛かりはある。名前だ。
この世界に来て一週間ほど経ったころだったと思う。何かの話のついでに、エレノアからこの身体の元の持ち主の名前を聞いたことがある。そのときは、そういう名前だったのか、くらいにしか思わなかった。
なのに不思議なことに、十年経った今でも忘れていない。
「グレイスの古い戸籍を見たいんですけど」
司書に聞きながら資料を探していく。エレノアも自分の用事を済ませながら付き合っていた。レイジが何を調べているのかは分かっているはずだが、特に何も言わない。
古い戸籍を辿っていくと、思ったより簡単に名前が見つかった。年齢も合っている。
母親はカーラという女性だった。父親の欄には何もない。
別の記録を探すと、カーラが娼婦として働いていたことも分かった。子供を産んだあと、生活はかなり苦しかったらしい。さらに資料を追えば、借金も出てきた。一つや二つではない。
「……結構あるな」
「そうだな」
横から資料を見たエレノアが、それだけ答えた。
レイジは次の記録を探した。元の少年について残っているものは、十二歳ごろを境にぱったりとなくなっていた。その少しあとには、カーラの死亡記録もある。
それ以上、二人について直接分かるものは見つからなかった。
「ここまでですかね」
「そうらしいな」
カーラが死んでいることについて、特別な感情は湧かなかった。レイジにとって母親と呼べる人ではない。顔も知らないし、話したこともない。今日は彼女を探しに来たわけでもなかった。
ただ、この身体がどういう場所から来たのかを知りたかった。
分かったのは、母親がいて、父親は分からず、生活は貧しく、借金があったこと。そして十二歳ごろに少年の記録が途切れ、その少しあとに母親も死んだこと。それだけだ。
けれど、レイジにはもう一つ知っていることがある。この身体は、魔の森にいた。しかも、まともに食事をしていたとは思えないほど痩せて、死にかけていた。
レイジは戸籍を閉じ、今度は当時のグレイスについて調べることにした。
貧困層の暮らしや借金、金を返せなくなった人間がどうなるのか。そういう資料をいくつか拾って読んでいく。
もちろん、そこに元の自分の名前が書かれているわけではない。ただ、借金を返せなくなった人間が裏社会と関わりを持つことは珍しくなかったらしい。金の代わりになるものを取られたり、働かされたり、どこかへ連れていかれたり。そんな記録はいくつも残っていた。
レイジはもう一度、少年とカーラの記録を見た。
カーラは借金を抱えていた。少年の記録は十二歳で消えている。そしてレイジが目を覚ましたとき、この身体は魔の森で死にかけていた。
「……まあ、そういうことだったのかもしれないな」
思わず呟いた。
「分かったのか?」
「いえ。分かってはいないです」
レイジは首を振った。
「借金の関係で、元の俺も裏社会の人間に連れていかれたのかもしれません。あのときの俺の身体の状態を考えると、使い物にならないと思われて魔の森に捨てられた、とか。その辺が一番辻褄は合うかなって」
「そうか」
「でも、記録があるわけじゃないですからね」
「ああ」
結局、それ以上のことは分からなかった。
カーラが自分から子供を手放したのかもしれない。借金のせいで無理やり連れていかれたのかもしれない。そもそもレイジが考えた経緯自体が間違っている可能性だってある。
そして、元の自分がどう思っていたのかは、もっと分からない。母親を恨んでいたのか、それでも好きだったのか。魔の森に捨てられたとき、怖かったのか。そんなものが記録に残っているはずもなかった。
十二年間、生きていた。
レイジに分かったのは、それくらいだった。
実際に調べてみれば、こんなものだ。
久世怜司として三十八年生きて、死んだ。そのあと、この身体で目を覚ました。この身体には、それ以前にも十二年間生きていた人間がいた。
そしてレイジは、そこから十年間生きてきた。
最初はレイジと呼ばれた。【格納】の論文を書くことになって姓が必要になり、前の人生から久世を持ってきて、クゼと名乗った。新聞にも載った。王都で知らない人間から名前を呼ばれたこともある。
気づけば、レイジ・クゼという名前で生きてきた時間も随分長くなった。
元の自分の十二年間は、元の自分のものだ。久世怜司として生きた三十八年間も、間違いなく自分のものだった。
じゃあ、この十年間は何なのか。
考えてみれば、答えはそんなに難しくなかった。
「師匠」
「なんだ」
「俺、調べてよかったです」
「そうか」
エレノアはいつも通りだった。
レイジも、別に何かが劇的に変わったわけではない。明日になれば腹も減るだろうし、エレノアはまた何かを教え始めるだろう。錬金術だって、まだ知らないことはいくらでもある。
ただ、一つだけ。
今の自分の名前を聞かれたなら、もう迷う理由はなかった。
「俺はレイジ・クゼだ」
久世怜司でもあった。この身体には、レイジではない誰かの十二年もあった。
それでも、今ここにいるのはレイジ・クゼだ。
「終わったか?」
「はい」
「なら行くぞ。私の用事がまだ残っている」
「あ、そうでしたね」
レイジは広げていた資料を片づけ、席を立った。結局、エレノアが何の研究資料を持ってきたのかは聞いていない。
まあ、これから分かるだろう。
レイジはエレノアのあとを追った。




