お前には歯応えがなかったな
王歴一〇二二年。レイジは十九歳になった。
森の朝は、四年前とほとんど変わっていない。
窓の外には見慣れた木々が並び、朝の光が枝葉の隙間から差し込んでいる。近くに店もなければ、大きな道もない。聞こえてくるのは鳥の声と、風に揺れる葉の音くらいだった。
家の中も同じだ。何度も使ったテーブル。いつもの椅子。壁際に並んだ本や、錬金術に使う道具。部屋の隅には、エレノアが邪魔だからという理由で小さくした映像受信機が置かれている。
多少増えたり場所が変わったりしたものはあるが、四年前と比べて大きく変わったものはない。
向かいに座っている師匠もそうだった。
白衣の下に黒いノースリーブ。短い黒のパンツ。見た目だけなら、レイジが十二歳でこの森へ来た頃から何も変わっていない。
変わったのは、レイジの方だった。
身長は、日本にいた頃の感覚なら百七十五センチほど。黒茶色の髪も以前より長くなり、今は後ろで一つに結んでいる。幼さの残っていた顔立ちはすっかり青年のものになり、細身だった身体にも、この四年間の生活で必要な筋肉がついた。
十九歳。
自分でも、ときどき鏡を見ると違和感がある。
レイジは朝食を終えると、テーブルの端に置いてあった王立新聞を手に取った。一面には王都で決まった政策についての記事が載っている。その隣には、どこかの貴族が何をしただの、どこかの会社が新しい工場を建てるだのと書かれていた。
特に興味はない。
紙面をめくる。三面まで来たところで、レイジの手が止まった。
「師匠」
「なんだ」
「アイゼンハルト大学で、なんかあったみたいですよ」
エレノアが顔を上げる。
レイジは記事を読み直した。昨日の午後、アイゼンハルト大学の研究棟から大量の煙が発生した。火災ではなく、人的被害も確認されていない。現在は研究棟の一部への立ち入りを制限し、大学側が原因を調査しているらしい。
記事としては、それだけだった。一面に載るような大事件ではない。だから三面の端に、小さく載っているのだろう。
「火事じゃないみたいですね」
「そうか」
「でも、まだ止まってないみたいです」
エレノアが手を伸ばした。レイジが新聞を渡す。
しばらく記事を読んでいたエレノアが、紙面から目を上げた。
「クローネか」
「分かるんですか?」
「発煙の研究をしていた」
「ああ……」
それなら可能性は高そうだ。
ベルダリア・クローネ。アイゼンハルト大学の教授であり、性質学の研究者。六年前には《格納》の研究をともにし、四年前には四級試験を終えたレイジを、自分の研究室へ入れようとしていた。
研究の話になると止めなければならないくらい喋るくせに、それ以外ではまともに話を切り出すことすら苦労する、少し変わった人でもある。
エレノアは新聞を畳んだ。
「今日の授業はこれだな」
「これですか」
「クローネならお前を歓迎するだろう」
レイジはもう一度、新聞の記事を見る。大量の煙。人的被害なし。原因調査中。ベルダリアが関わっているのなら、錬金術絡みの可能性は高い。
「分かりました。クローネ教授なら大丈夫そうですね。行ってきます」
「ああ」
それで話は終わった。
レイジは立ち上がり、出かける準備を始めた。
四年前なら、師匠と一緒に行っていたのかもしれない。今は違う。
エレノアが問題を選び、レイジが一人で現場へ行く。何が起きているのかを自分で調べ、必要なら自分で解決する。帰ってきたら、その結果を報告する。
ここ数年では、それも珍しいことではなくなっていた。
◇
アイゼンハルト大学に着いて、レイジはすぐに異変に気づいた。
「……すごいな」
遠くからでも分かるほど、煙が出ている。
大学の敷地に並ぶ建物の一つ。その上階から、白っぽい煙が絶え間なく吐き出されていた。火事ではないと新聞に書かれていたので慌てる必要はないのだろうが、知らずに見れば普通に火事だと思う量だった。
煙の出ている研究棟へ向かう。
建物の周辺には縄が張られ、学生が入らないようにされていた。レイジは近くにいた大学職員へ声をかける。
「すみません。あの煙って」
「ああ。クローネ教授の研究室だよ」
やっぱりか。
レイジは煙の出ている窓を見上げた。
(何やってんだ、あの人……)
「中にクローネ教授は?」
「いるよ。レインズ教授も一緒だ」
「レインズ教授?」
「発現学のオスカル・レインズ教授だ。昨日から二人で調べてるんだが、まだ止まらなくてね」
発現学の教授までいるらしい。それで昨日から止まっていないとなると、思っていたより面倒な問題なのかもしれない。
「中、入っても大丈夫ですか?」
職員がレイジの顔を見る。一瞬考えるような間があった。
「あんた、もしかしてレイジ・クゼか?」
「はい」
「森の?」
「たぶん、そのレイジ・クゼです」
職員の表情が変わった。
「少し待ってくれ。確認してくる」
そう言って建物へ入っていく。
しばらくして戻ってきた職員は、すぐに縄を外した。
「クローネ教授が通してくれって」
「ありがとうございます」
中へ入ると、一階にも薄く煙が漂っていた。上へ行くほど濃くなっていく。煙自体に毒性などはないらしいが、それでも視界は悪いし、何より煙い。
階段を上がり、見覚えのある研究室へ向かう。扉の前まで来たところで、レイジは一度足を止めた。
煙が扉の隙間から漏れている。
「……ほんとに何やってんだ」
扉を開けると、さらに煙が濃くなった。
「クローネ教授?」
煙の向こうで、人影が動く。
「……レイジ君?」
聞き覚えのある声だった。
少し進むと、ようやく二人の姿が見えてきた。ベルダリア・クローネは、四年前と変わらない全身黒のスーツ姿だった。長い黒髪もそのままである。
その隣には、見覚えのない男が立っていた。
ベルダリアよりほんの少し背が低い。五十代くらいだろうか。小太りの身体にシャツとカーディガン、スラックスをきっちりと着こなしている。頭頂部はかなり薄く、残った髪は白かった。
体型だけ見れば丸みのあるおじさんなのだが、服装も髪もきちんと整えられている。清潔感のある人だった。
「……来たんですね」
ベルダリアが言った。
「新聞で見まして。師匠が、今日の授業にちょうどいいって」
「……エレノアさんが?」
「はい」
ベルダリアが黙った。少しして、
「……そうですか」
とだけ答えた。
「いやあ、助かるよ」
隣の男が笑った。
「君がレイジ君だね?」
「あ、はい」
男は煙の中だというのに、にこやかな顔で片手を上げた。
「オスカル・レインズ。ここの発現学教授をやってる。よろしく」
「レイジ・クゼです。よろしくお願いします」
「はは。知ってるよ。クローネ教授から何度も名前を聞いてるからね」
レイジはベルダリアを見る。
ベルダリアは何も言わなかった。
「……こちらが、レインズ教授です」
「もう自己紹介しちゃったよ」
「……そうですか」
「相変わらずだねえ」
オスカルは楽しそうに笑った。どうやら、付き合いは長いらしい。
レイジは研究室を見回す。煙の発生源はすぐに分かった。研究台の上に置かれた魔石から、今も白い煙が吹き出している。
「これですか?」
「……はい」
ベルダリアが魔石の方へ歩く。
「《発煙Lv.5》を付与した魔石です。《発煙》そのものの挙動を確認するために、魔石へ付与して発現させました。発現自体は正常でした。ただ、停止させようとした段階で術式が正常に戻らなくなっていることに気づいて……」
研究の話に入った途端、急に言葉が滑らかになった。
そこは六年前から変わっていない。
「術式の構成自体は確認しました。発現開始までは問題ありません。異常があるとすれば停止までのどこかだと思います。ただ、術式を一つずつ確認しても、原因になっている箇所が見つからなくて……」
「それで僕が呼ばれたわけだ」
オスカルが続けた。
「専門が発現だからね。ところが僕も分からなかった。いやあ、教授二人で昨日から煙に巻かれてるよ」
「笑い事なんですか?」
「人的被害はないからね。大学には怒られてるけど」
「……すみません」
ベルダリアが小さくなった。
「クローネ教授が謝る相手は僕じゃないよ」
「……そうですか」
「うん。たぶん学長だね」
「…………」
ベルダリアが黙った。
どうやら、それは嫌らしい。
レイジは魔石を見る。《発煙Lv.5》。煙の量だけなら、Lv.5と言われても納得できる。
「発現を止めること自体はできないんですか?」
「無理やりならね」
オスカルが答えた。
「術式そのものを壊すとか、魔石への干渉を切るとか。ただ、下手に触ると魔石まで壊しかねない。危険があるわけでもないから、研究資料を壊してまで急ぐこともないだろうってことで、原因を探してる」
「なるほど」
だから昨日から煙を出しっぱなしなのか。火災ではない。毒性もない。人的被害もない。
ひたすら煙いだけだ。
大学側からすれば十分迷惑だろうが。
「術式、見てもいいですか?」
「……もちろんです」
ベルダリアが場所を空ける。
「助かるよ。若い頭も貸してくれ」
オスカルも横へ退いた。
レイジは研究台へ近づき、魔石の横に残された発現術式を見る。
「これですね」
「……はい」
レイジは術式を見る。
「あ、これですね」
「え?」
ベルダリアが言った。
「ん?」
オスカルも横から覗き込む。
レイジは術式の一部を指差した。
「ここ。繋がり方がおかしくなってます」
「……ここ?」
「はい。これだと停止側に戻らないですよね」
指先で術式を追う。
「こっちから入って、ここまでは合ってます。でもこの部分で戻る先がずれてます。だから一度発現したら、そのままこっちを回り続ける」
ベルダリアが顔を寄せ、オスカルも反対側から覗き込む。
二人とも黙った。
「…………」
「…………」
ベルダリアの目が、レイジの指先を追っていく。
「……あ」
小さな声がした。
オスカルも術式を最初から辿り直す。
「ああ……! 本当だ。ここじゃないか」
「ですよね」
「いやあ、参ったな」
オスカルが頭を掻いた。
ちょうど髪のないところだった。
「昨日から何回ここを見たんだ、僕は」
「……私も、確認しました」
ベルダリアが言う。
「二人とも見落としてたんですね」
「そういうことになるねえ」
オスカルはあっさり認めた。ベルダリアは術式を見つめたまま、少し悔しそうだった。
「……なんで、気づかなかったんでしょう」
「一回正しいと思い込んだものは、何度見ても正しく見えることがあるからね。だから他人に見てもらうのは大事なんだよ」
「……そうですね」
「直します?」
レイジが聞く。
ベルダリアが顔を上げた。
「……お願いします」
異常箇所が分かれば、あとは難しくない。
レイジは術式の一部を修正し、全体をもう一度確認する。問題ない。
術式を動かす。
魔石から出続けていた煙が、目に見えて弱くなった。やがて完全に止まる。
三人で魔石を見る。もう煙は出てこない。
「止まりましたね」
「……はい」
ベルダリアがすぐに魔石を確認する。
「魔石そのものにも……異常はありません」
「よかった」
レイジも確認する。問題はなさそうだ。
「いやあ、助かった!」
オスカルが笑った。
「これでようやく窓を開けて待っていればいい。昨日から煙の中にいたから、服まで煙臭くなってしまってね」
言われてみれば、レイジもかなり煙臭くなっている気がする。家に帰ったら着替えた方がよさそうだ。
「それにしても」
オスカルが、修正された術式とレイジを交互に見た。
「クローネ教授。噂以上じゃないか」
「……何がですか?」
「レイジ君だよ。僕らが昨日から探してたものを、来てすぐだ」
ベルダリアがレイジを見る。
「……だから、四年前に誘ったんです」
「そうだったのか」
オスカルが楽しそうに笑った。
「いやあ、あれが森の天才レイジ・クゼか。確か十九歳だったよね?」
「はい」
「十九かあ。僕が十九の頃なんて、こんなことできなかったよ」
「レインズ教授は、今ならできるでしょう」
「昨日できなかったけどね」
「…………」
「クローネ教授まで黙らないでくれよ」
レイジは少し笑った。
どうやら、悪い人ではなさそうだ。むしろベルダリアとは正反対によく喋る。
並んでいる姿も、長身で細身のベルダリアと、その隣に立つ少し背の低い小太りのオスカルで、ずいぶん違って見えた。
「レイジ君」
ベルダリアに呼ばれる。
「はい?」
「……大学について、考えは変わりましたか?」
「またその話ですか」
やっぱりそこへ戻るらしい。
四年前、ベルダリアは四級試験を終えたばかりのレイジをアイゼンハルト大学へ誘った。
特待生にする。研究設備も使える。卒業したら助手になればいい。その先も研究を続けるなら教授になればいい。
あのときから、本気だった。
「まだ三年ありますよ」
「……そうですか」
ベルダリアが少しだけ残念そうな顔をする。
十年。
十二歳でエレノアの弟子になったときに決めた期間である。もう七年が経った。
あと三年。
その先で何をするかは、まだ決めていない。研究者になるのかもしれない。どこかの会社に入るのかもしれない。自分で何かを始める可能性だってある。
だが、今はまだエレノアの弟子だ。
「そのとき考えます」
「……分かりました」
ベルダリアは、それ以上何も言わなかった。
「じゃあ、俺はそろそろ帰ります」
「もう帰るのかい?」
「師匠に報告しないといけないので」
「エレノアさんに?」
「はい。今日はこれが授業だったので」
オスカルが瞬きをした。
「授業?」
「はい」
「これが?」
「師匠が、今日の授業はこれだって」
オスカルが煙の残る研究室を見る。次に、修正された術式を見る。最後にレイジを見た。
「……これが授業かあ」
さっきまでよく喋っていたオスカルが、初めて少し遠い目をした。
ベルダリアは何も言わない。
「クローネ教授?」
「……なんですか」
「いや。君はエレノアさんのこと知ってるんだろう?」
「……知ってます」
「そうかあ」
オスカルは何かを察したらしい。それ以上は聞かなかった。
「では、今日はありがとうございました」
ベルダリアが言う。
「いえ。俺も授業だったので」
「……そうでしたね」
「レインズ教授も、ありがとうございました」
「こっちの台詞だよ。また大学に来たら顔を出してくれ。次は煙が出てないときにね」
「はい」
レイジは研究室を出た。
廊下にはまだ煙が残っている。窓を開けている職員に軽く頭を下げ、階段を降りる。
外へ出ると、空気がやけに美味く感じた。さすがに少し煙を吸いすぎたらしい。
振り返ると、研究棟の窓から出ていた煙はもう増えていない。そのうち全部消えるだろう。
今日の授業は終わった。
レイジは森へ帰ることにした。
◇
家に戻ると、エレノアはいつもの場所にいた。
朝と同じテーブル。朝と同じ椅子。部屋の隅には小型の映像受信機が置かれ、エレノアは本を読んでいる。
レイジが家を出てから何時間か経っているはずなのに、何も変わっていないように見えた。
「ただいま戻りました」
「ああ」
エレノアが本から目を上げる。
「どうだった」
「やっぱりクローネ教授でした」
「そうか」
「《発煙Lv.5》を付与した魔石を発現させてたみたいです。術式の制御に失敗して、止まらなくなってました」
エレノアが本を閉じる。
「原因は」
「発現術式の一部がおかしくなってました。停止側に戻るところがずれてて、そのまま発現し続けてたみたいです」
「直したのか」
「はい。術式を直したら止まりました。魔石にも問題はなかったです」
「そうか」
それだけだった。
レイジは椅子を引いて座る。
「発現学の教授も来てたんですけど、昨日から二人で調べてたみたいで」
「ふむ」
エレノアが少し考える。
何か見落としがあっただろうか。現場では魔石そのものに異常がないことも確認した。術式も修正後にもう一度見直した。ベルダリアもオスカルも問題ないと言っていた。
「何かまずかったですか?」
「いや」
エレノアは首を横に振った。
「問題なさそうだな」
「ならよかったです」
「お前には歯応えがなかったな」
「……まあ、見たらすぐ分かったので」
「そうか」
エレノアはそれ以上何も言わず、閉じた本を再び開いた。今日の授業は、それで終わったらしい。
レイジは窓の外を見る。
朝と同じ森が広がっている。四年前とほとんど変わらない景色だった。
あと三年。
その頃、自分がどこまでできるようになっているのかは、まだ分からない。ただ明日も、たぶんいつも通り修行する。
レイジは立ち上がった。
「師匠、昼飯どうします?」
「任せる」
「じゃあ、適当に作りますね」
「ああ」
森の家には、いつもの時間が流れていた。




