ラチがあかんな……
「知らない天井だ……」
目を開けて最初に出てきたのは、そんな言葉だった。
一度言ってみたかった台詞ではある。ただ、実際に言うことになるとは思っていなかったし、できればもう少し余裕のある状況で言いたかった。
怜司はしばらく天井を見つめた。木造らしい。病院ではない。少なくとも、怜司が知っている病院の天井ではなかった。
身体を動かしてみる。
動く。
昨日――という表現でいいのか分からないが、森で目を覚ましたときとは比べものにならないくらい楽だった。全身にだるさは残っているものの、息はできるし、指も動く。
枕元には水の入ったコップが置かれていた。その横には、何か柔らかいものを食べたらしい器もある。食べた記憶はない。
(誰かが食わせてくれたのか?)
最後に覚えているのは、森で倒れていた自分を見下ろす女の姿だった。どうやら助けられたらしい。
怜司はゆっくり身体を起こした。そこで改めて、自分の手を見る。
小さい。
昨日見たときも小さかったが、死にかけていたせいでじっくり確認する余裕などなかった。腕も細い。足も短い。
試しに声を出してみる。
「あー……」
高い。間違っても三十八歳の男の声ではない。
ベッドから足を下ろして立ち上がる。少しふらついたが、歩けないほどではない。部屋を見回すと、壁際に大きな姿見があった。
そこまで歩いていき――怜司は鏡の中を見た。
「…………誰だよ」
子供がいた。どう見ても子供だった。
頬は痩せ、手足も細い。健康そうには見えない。正確な年齢など分からないが、日本で見れば小学三年生か四年生くらいだろうか。九歳か十歳。そのくらいにしか見えない。
少なくとも三十八歳ではない。
「どうなってんだ、これ……」
怜司が鏡の中の自分を見つめていると、扉が開いた。
「目覚めたか」
昨日の女だった。
改めて見ると若い。長い髪に、整った顔立ち。怜司よりずっと年下に見える。
「昨日は……助けてくれたんですよね?」
「そうだ」
「ありがとうございます」
まずは礼を言った。何が起きているのかは分からないが、森で死にかけていた自分を助けてくれたことだけは間違いない。
女は怜司を上から下まで眺めた。
「山ほど聞きたいことがあるが、まずは飯だな」
「飯?」
「食えるか?」
腹に意識を向ける。空腹だった。
「……食べたいです」
「なら来い」
女はそれだけ言うと、さっさと部屋を出ていった。怜司は慌ててその後を追った。
連れていかれた部屋には、大きなテーブルがあった。そして、その上に並べられた料理を見て足を止めた。
肉。卵。パン。野菜。果物。
どれも見ただけで分かるくらい、きちんと手をかけて作られている。柔らかそうな肉には香ばしい焼き色がついている。卵料理は、怜司の知る鶏卵で作ったにしては妙に大きい。白いパンは焼きたてらしく、まだわずかに湯気が立っていた。
「……これ、俺が食べていいんですか?」
「お前以外に誰がいる」
そう言われればそうなのだが。森で死にかけていたところを助けてもらっただけでも十分なのに、ずいぶんな待遇だった。
椅子に座り、まず料理を口にする。
美味い。
弱っていた身体でも食べやすい柔らかさなのに、味が薄いわけではない。特に肉が美味かった。
「美味いか?」
向かいに座った女が聞いてきた。
「美味いです」
「そうだろう。私が作ったのだからな」
随分と自信のある人だ。だが実際に美味いので反論できない。
怜司はもう一切れ肉を口へ運んだ。
「これ、何の肉です?」
「ワイバーンだ」
噛むのを止めた。
「……ワイバーン?」
「ああ」
「空飛ぶやつですか?」
「飛ぶな」
「竜みたいな?」
「竜種だ」
「……そうですか」
怜司はフォークの先に残った肉を見た。
ワイバーン。
もちろん、怜司の知る世界には存在しない。いや、ゲームや漫画の中にはいる。そういう意味ではよく知っている。だが食卓には出てこない。
(……ワイバーン、ねえ)
森で目を覚ましたこと。自分が子供になっていること。目の前の女が、ごく当然のようにワイバーンを食材として扱っていること。
頭の片隅に浮かんでいる可能性はある。あるのだが――まだ、それを答えにするには早い気がした。そもそも分からないことが多すぎる。
怜司は考えるのを一旦やめ、肉を口へ運んだ。やはり美味い。
次に卵料理を食べる。こちらも美味いのだが、やはり大きさが気になった。
「卵もでかいですね」
「そうか?」
女は首を傾げた。どうやら彼女にとっては珍しいものではないらしい。
怜司はそれ以上追及しなかった。今のところ、自分の常識を基準に質問すると何もかも話が長くなりそうな予感がする。
代わりに焼きたての白いパンをちぎる。柔らかい。そのままでも十分に美味かった。
(異世界……なのか?)
また、その言葉が浮かぶ。だが怜司はまだ口にはしなかった。
食事を終える頃、女が口を開いた。
「さて」
来た。
助けてもらった以上、当然こちらの事情を聞かれるだろう。問題は、怜司自身にも説明できる事情がほとんどないことだった。
「貴様、名前はなんという?」
「レイジ……レイジだ。多分」
「多分?」
女の眉が動いた。
「記憶喪失か?」
「いや、そういうわけじゃ……」
記憶はある。
久世怜司。三十八歳。法人営業十五年。
自分が誰だったかは、はっきり覚えている。だが鏡に映っていたのは、久世怜司ではない。少なくとも、昨日まで自分が見慣れていた顔ではなかった。
だからといって、この身体が何なのかも分からない。自分が若返ったのか。まったく別の何かなのか。それすら判断できていない。
「俺の名前は久世怜司です。それは覚えてます」
「クゼレイジ?」
「久世が名字で、怜司が名前です」
「名字?」
「家の名前というか……」
「家名か」
「ああ、多分それです」
女は少し考えたあと、頷いた。
「ではレイジだな」
「はい」
「歳は?」
「三十八です」
女が止まった。怜司を見る。もう一度見る。
「……そうなのか?」
「少なくとも、俺が覚えている限りでは」
「どう見ても子供だが」
「それは俺もそう思います」
「ではなぜ三十八だ」
「それを俺が一番知りたいんですよ」
しばらく沈黙した。
「順番に聞こう」
女はそう言って、怜司を見た。
「お前はどこから来た?」
「日本です」
「ニホン」
「はい」
「知らんな」
「……ですよね」
驚かなかった。ワイバーンの時点で、だいぶ覚悟はできている。
「ここはどこなんです?」
「ルヴェリア王国だ」
「ルヴェリア……」
知らない。聞いたこともない。
「その中の魔の森だ。ここからなら最も近い街はグレイスになる」
「グレイス」
それも知らない。
「日本というのはどの辺りだ?」
「どの辺りと言われても……」
説明しようとして、怜司は困った。相手がどこまで知っているのか分からない。
「アジアは?」
「知らん」
「中国」
「知らん」
「アメリカ」
「知らん」
「ヨーロッパ」
「知らんな」
全部駄目だった。逆に女からいくつか地名を聞かされたが、今度は怜司が一つも知らなかった。お互いに知っている場所が一つもない。ここまで来ると、さすがに偶然では済ませにくい。
「……というか、ちょっと待ってください」
「なんだ」
「そもそも、なんで俺たち普通に話せてるんです?」
女が怪訝な顔をした。
「何?」
「あなた、日本語喋ってます?」
「ニホンゴ?」
「ですよね」
やっぱり知らない。だが会話は成立している。それどころか、発音に違和感すらない。
「じゃあ今、何語で喋ってるんです?」
「ルヴェリア語だが」
「俺、ルヴェリア語なんて知りませんよ」
「だが喋っているだろう」
「だから、それがおかしいって話です」
「お前自身が喋っていることを私に聞かれても知らん」
「俺も知らないから聞いてるんですよ」
また沈黙した。話せば話すほど、分からないことが増えていく。
「では、お前が最後に覚えていることは?」
女が話を戻した。怜司も一度頭を整理する。
「仕事から帰る途中でした」
「仕事」
「はい。それで電車に乗ってたんですけど――」
「デンシャとはなんだ?」
さっそく止まった。
「ええと……人を大勢乗せて走る乗り物です」
「乗合馬車か?」
「近いですけど馬はいません。鉄の……」
説明しかけてやめた。電車を一から説明して何になる。
「とにかく、大勢で乗る乗り物です。その中で急に胸が痛くなって倒れました」
「病気か」
「多分。それで救急車で病院に運ばれて」
「救急車?」
「病人とか怪我人を病院まで運ぶ車です」
「ああ、救急馬車か」
「馬車じゃないですけど、役割は同じです」
「ならそう言え」
「救急車で通じると思ったんですよ」
「なぜ私に通じると思った?」
「……今まで普通に話せてたので」
言われてみれば、通じると思った自分がおかしい。言葉そのものは通じているのに、単語になるとところどころ通じない。ますます意味が分からない。
「それで病院に運ばれました」
「病院は分かる」
「そこは分かるんですね」
「なぜ分からないと思った」
「いや、もう何が通じるのか分からなくなってきて」
怜司は額を押さえた。
「それで、病院で……多分、死にました」
女の表情が変わった。
「多分?」
「死んだはずなんです」
「はず?」
「そこは俺にも説明できません」
怜司は覚えている限りを話した。病院のベッドで意識が消えたこと。自分が死ぬのだと理解したこと。そして次に目を開けたら、あの森にいたこと。
「しかも、目が覚めたらこの身体です」
自分の胸を指す。
「俺は昨日まで三十八歳でした。少なくとも、こんな子供じゃなかった」
女は黙って聞いている。
「だから俺にも何が起きたのか分からないんです。死んだと思ったら森にいて、身体は子供になってるし、知らない国だし、ワイバーンは食卓に出てくるし」
「ワイバーンは関係ないだろう」
「俺のいたところにはいなかったんですよ」
「そうなのか?」
「少なくとも実在はしてません」
女は少しだけ興味を示したようだった。
「お前のいた場所には竜種がいないのか」
「いません」
「魔物は?」
「いません」
「……ずいぶん変わった土地だな」
「今のところ、俺から見るとこっちが変わってるんですけどね」
お互い様らしい。
怜司は一度息を吐いた。口に出して整理したことで、逆に現実味が増してしまった。
知らない国。知らない地名。存在しないはずの生物。子供になった身体。そして、自分が知らないはずの言葉を喋っている。
(……本当に、そういうことなのか?)
異世界。
さすがにその可能性を無視する方が難しくなってきた。だが、まだ断定はできない。少なくとも、怜司にはできない。
「つまり」
女が言った。
「お前はニホンという場所で三十八年間生きていた」
「はい」
「デンシャという乗り物の中で倒れた」
「はい」
「救急馬車のようなもので病院へ運ばれ、そこで死んだ」
「……はい」
「その後、なぜか子供の姿で魔の森に現れた」
「俺が分かってるのはそこまでです」
「ニホンへ戻る方法は?」
「知りません」
「なぜここへ来た?」
「知りません」
「なぜ子供になった?」
「知りません」
「自分の身体については?」
「鏡で見た以上のことは何も」
「この国に家族は?」
「いません。というか、ルヴェリアって名前をさっき初めて聞きました」
「グレイスに知り合いは?」
「グレイスもさっき初めて聞きました」
女は腕を組んだ。怜司も黙った。
しばらくして、女が小さく息を吐いた。
「ラチがあかんな……」
「俺もそう思います」
助けた側からすれば、とんでもない拾い物だろう。名前を聞けば「多分」と答え、年齢を聞けば見た目と三十年近く違い、出身地は存在すら確認できず、本人も自分に何が起きたのか分からない。
警察に引き渡したくなる案件だ。
もっとも、この世界に警察があるのかどうかすら、怜司はまだ知らない。
女はしばらく怜司を見つめていたが、やがて何かを決めたように口を開いた。
「仕方ない。識別するか」
「……識別?」
「ああ」
「なんですか、それ?」
「錬金術だ」
「錬金術……?」
また知らないものが出てきた。
いや、言葉としては知っている。知っているが、それは歴史上の錬金術か、ゲームや漫画の中に出てくるものだ。少なくとも、人間を見て何かが分かるような便利な技術としては知らない。
「とにかく識別するぞ。動くな」
「え、ちょっと――」
女が怜司を見た。
何かが光ったわけではない。呪文を唱えたわけでもない。怜司の身体にも、特に変化はない。
ただ女がこちらを見ている。それだけだった。
「…………」
数秒。
女の表情が変わった。
さっきまでの、話の通じない子供を見るような目ではない。眉が寄る。視線が怜司の身体をなぞり、もう一度顔へ戻ってくる。
「……なんだ、これは」
「何か分かったんですか?」
返事がない。
「俺、何かおかしいんですか?」
「おかしい」
即答だった。
「そこはもう自覚してます」
「そういう意味ではない」
女は再び怜司を見る。今度は明らかに、何かを確認するような目だった。
「……本当に、何なんだ?」
「それを知りたくて話してたんですけど」
結局、振り出しに戻った気がした。




