これ、また死ぬやつだ
新作です。
38歳の普通の会社員が異世界へ転生し、錬金術師を目指すお話です。
主人公は世界を救ったり頂点を目指したりするタイプではありません。
美味しいものを食べて、稼いで、今度の人生は前より少し好きに生きたい。
そんなおじさんと、どう考えても様子のおかしい師匠の物語です。
条件が悪い。
久世怜司は、仕事帰りの電車の中でそう判断した。胸が痛い。息が苦しい。冷や汗が止まらない。ついでに言えば、さっきから左腕の感覚がおかしい。
久世怜司、三十八歳。法人営業十五年。
相手の出してきた条件を見て、これは飲める、これは飲めないと判断するのはそれなりに得意だ。そして現在、自分の身体から提示されている条件については、交渉の余地なく却下したい。
「……まずいな、これ」
手すりを掴んだ。掴んだつもりだった。
指が滑り、膝から力が抜け、床が急速に近づいてくる。
「大丈夫ですか!?」
「誰か、非常ボタン!」
「駅員さん呼んで!」
騒がしくなる車内で床に転がりながら、怜司は思った。
ああ、これは駄目だ。十五年も営業をやっていれば、交渉を続けるだけ無駄な案件というものも分かる。どうやら今回は、それらしい。
(これ、死ぬやつだ)
我ながら嫌になるほど冷静な結論だった。
そこから先は、あまり覚えていない。
誰かに名前を聞かれた。久世です、と答えたと思う。年齢も聞かれた。三十八です、と答えた気がする。
気がする、というのは、その頃にはもう意識がまともじゃなかったからだ。
電車から運び出され、気づけば救急車の中にいた。身体のあちこちに何かを付けられ、知らない人が何度も声をかけてくる。それに答えていたはずなのだが、何を聞かれて何と答えたのかは覚えていない。
次に意識が浮かんだとき、白い天井が見えた。
(病院か)
どうやら搬送までは無事に済んだらしい。なら、あとは専門家に任せるしかない。
何しろこっちは法人営業だ。自分の身体を治す技能なんて持っていない。こういうものはできる人間に任せるに限る。
周囲では何人もの人間が慌ただしく動いていた。数字が飛び交い、知らない単語も聞こえる。医者らしき男が何かを指示している。
(……あれ?)
怜司はそこで、嫌なことに気づいた。
誰も安心させてくれない。
ドラマなら「もう大丈夫ですよ」とか「意識がありますね」とか、そういう台詞が一つくらいあってもいいはずなのに。
現実の医療現場にそんなサービスを求める方がおかしいのかもしれないが、今だけは欲しかった。できれば無料で。
身体は動かない。声も出せない。何より、電車の中で感じたあの感覚が消えていない。
(あー……これ)
やっぱり、死ぬやつか。
二度目ともなると判断が早かった。
いや、二度目ではない。まだ一回目の途中だった。
できればこのまま「実は大したことありませんでした」で終わってほしいのだが、どうも身体の方がその条件を飲んでくれそうにない。視界が少しずつ狭くなっていく。音も遠い。
(死ぬのか、俺)
三十八歳。早い。さすがに早い。
やり残したことなんて探せばいくらでもある。明日の仕事も残っている。確か十時から取引先との打ち合わせがあった。
(……いや、それは誰かがどうにかするか)
俺が死んでも会社は回る。悲しいような、安心するような話だ。
担当を引き継ぐ奴には申し訳ないが、さすがに死人へ電話してくる取引先はいないだろう。
仕事のことはいい。じゃあ他には。
結婚はしなかった。子供もいない。特別な夢があったわけでもない。
会社が嫌いだったわけでもないし、人生に絶望していたわけでもない。普通に学校を出て、普通に働いて、それなりに稼いで。旨いものを食って、酒を飲んで、遊んで。嫌なこともあったし、楽しいこともあった。
まあ、悪くない人生だったと思う。
ただ――。
(もうちょっと遊んどきゃよかったな)
貯金もした。仕事もした。将来のことだって、それなりに考えた。
欲しいものを見つけても、今じゃなくていいかと買わなかったこともある。行ってみたい場所があっても、また今度でいいかと先送りにした。
どうやら、その今度は来ないらしい。
(だったら、もう少し好きにやってもよかったか)
今さらだ。今さらなのだが。
もし次があるなら。そんなものがあるのなら。今度はもう少し、楽しむ方を優先してもいいかもしれない。
(……まあ、ないか)
視界が消えた。音も消えた。身体の感覚もなくなっていく。
怖くないと言えば嘘になる。それでも最後に思ったのは、やっぱり同じだった。
(悪くない人生だったな)
そして、久世怜司の三十八年の人生は、そこで終わった。
――はずだった。
「…………」
寒い。
久世怜司が次に感じたのは、それだった。
(……寒い?)
おかしい。死んだ人間は寒いのだろうか。
死んだ経験がないので分からない。いや、今まさに死んだはずなのだから経験者と言えなくもないが、死後数秒の新人にそんな知識を求められても困る。
とにかく寒い。そして、背中が痛い。頬も痛い。身体の下にあるものが、やたらと硬い。
「……?」
目を開けた。
木があった。
「…………」
木だった。どう見ても木だった。
しかも一本ではない。右を見ても木。左を見ても木。上を見れば、何本もの巨大な木が枝を伸ばし、薄暗い空を覆っている。
(……病院は?)
ない。
白い天井も、医者も、看護師も、医療機器もない。代わりにあるのは土と木と草。つまり森だ。
(なんで?)
分からない。
最後に覚えているのは病院だ。少なくとも、意識不明の患者を病院から森へ移送する治療法なんて聞いたことがない。
夢か。死ぬ直前に見ている幻覚か。あるいは、病院の方が夢だったのか。
「……っ」
身体を起こそうとして、失敗した。
腕に力が入らない。それどころか、動かしただけで全身が悲鳴を上げる。
(なんだ、これ……)
手を見た。
小さい。ひどく痩せている。指は細く、腕も自分のものとは思えないほど細い。
「……は?」
思わず声が漏れた。その声にも聞き覚えがなかった。
高い。明らかに大人の男の声ではない。
(誰だよ)
自分の手を見て出てくる感想としては、かなりおかしい。だが、それ以外に言いようがなかった。
これは誰の手だ。これは誰の声だ。というか、ここはどこだ。俺は死んだんじゃなかったのか。
疑問だけが次々に浮かぶ。答えは一つもない。
そして、それ以上に重大な問題があった。
「……っ、は……」
息が苦しい。喉が焼けるように乾いている。腹が痛い。身体にまるで力が入らない。視界がちらつく。
(いや、待て)
この感覚。
ついさっき経験した。忘れるわけがない。何しろ人生最後の経験だったのだから。
(おいおいおい)
冗談だろ。
何が起きたのか知らない。ここがどこなのかも知らない。なんで身体が小さくなっているのかも知らない。
だが、今の状況について一つだけ確信できることがある。
条件が悪い。
一回目より、さらに悪い。
さっきは病院だった。医者がいた。設備もあった。それでも死んだ。
今回は森。医者はいない。身体は知らない子供のもの。しかも、どう考えても死にかけている。
「……さっきより……悪化してるじゃねえか……」
誰に言うでもなく呟いた。
笑えない。いや、状況だけならちょっと面白い。本人でなければ。
意識が薄れていく。まただ。さっきと同じだ。
せっかく三十八年の人生を終えて、なぜか知らない身体で目を覚ましたと思ったら、ものの数分でこれである。
(いやいやいや、待て)
これは困る。せめて説明くらいしてくれ。
俺はどうなった。ここはどこだ。この身体は誰だ。そもそも、なんで生きている。
分からないことしかない。それなのに身体の方は、こちらの事情などお構いなしに活動を終了しようとしている。
(……これ、また死ぬやつだ)
三十八年あった一回目に比べて、二回目はずいぶん短い。
条件が悪いにもほどがある。
そのとき。
ざっ。
何かを踏む音がした。
(……?)
誰かいる。
声を出そうとしたが、出なかった。もう指一本まともに動かせない。
足音が近づいてくる。
最後の力で目を開けた。
ぼやけた視界の向こうに、誰かが立っている。
人だ。長い髪。女――だろうか。
助かった。
そう思っていいのかも分からない。だが少なくとも、森のど真ん中で一人で死ぬよりは条件がいい。
そんなことを考えた直後、女が地面に倒れている怜司を見下ろした。
「おい」
それが、二回目の人生で初めて聞いた人の声だった。




