山羊の伯爵
自分を打ち付ける冷たい雨が弱まった気がした。
「大丈夫ですか?」
落ち着きのある低音が耳に触れる。ふわりと漂ってくるのは柑橘の香りだ。
俯いていた顔を上げたロゼは息を飲んだ。
目の前に顔がある。それも羊の。
ゴツゴツとした立派な角に黒くふわふわとした毛で覆われた顔は間違いなく黒羊だ。
山羊が雨に打たれていたロゼの頭の上から自分が纏う外套を広げて、ロゼの頭を守ってくれていた。
しかし、身体が大きいロゼでは外套に収まり切らず、頭だけ何とか雨を凌いでいる状況だった。
黒い羊の顔、身体は人間、この人は……。
この人物が呪われた辺境伯と言われているアーキンス・ウォルセドナ伯爵だ。
何者かの呪いによって数年前からこの姿だと聞いている。
「…………驚かせて申し訳ありません。私はこの城の城主、アーキンス・ウォルセドナと申します。お待ちしておりました。ロゼ・ハーネット嬢」
外套を腕で広げたまま、アーキンスは目礼する。
「到着が遅くなってしまい、申し訳ありません、伯爵様。ロゼ・ハーネットです」
ロゼは狭い外套の中で短く自己紹介を済ませる。
「とりあえず、こちらへ。このままでは風邪を引きます」
ロゼは頷く。
「…………荷物はこれだけですか?」
「はい」
「…………準備する間もありませんでしたか」
よく分かったわね。
元々私物は少ない。
どうせ衣類は全部入りきらないし、用意してもらうつもりでほとんどを置いてきた。
衣類は三着程度であとは細々としたものを詰め込んで終わりだった。
馬車が迎えに来るまでの間はカレンとミリアリアに引き継ぎをし、神官長に手紙を書き、部屋の掃除をするだけで精一杯で、花嫁として必要なものを用意する余裕はなかったのだ。
そんな状況でここへやって来たことをアーキンスは察してくれたらしい。
羊の顔から人間のように表情から感情を読み取ることは難しいが、彼の声音がそう言っていた。
「行きましょう」
ロゼの鞄を持ち、ロゼの頭を外套で守りながら二人で移動する。
紳士な羊はさっきの従者よりもずっと丁寧な物腰で、雨に打たれるロゼを気にかけ、城の中まで導いてくれた。
「誰か、彼女に拭くものと、入浴の用意を。ロゼ嬢、少々こちらでお待ち下さい」
城内はアーキンスの一言で一気に慌ただしくなった。
「まさか、あれが花嫁様?」
「嘘でしょ? まるで豚みたいじゃない」
「聖女様なんでしょ? どうしたらあんな風になれるのかしら?」
「他の聖女に仕事を押し付けて随分と怠惰な生活を送っていたらしいわよ」
「『出荷された』なんて言われるのも納得だわ」
メイド達がバタバタと慌てて動く中でも陰口はしっかりとロゼの耳に届いた。
声のする方をキッっと睨むとメイド達は逃げるように散っていく。
一人、ホールで立ち尽くすロゼの元にアーキンスがタオルを持って戻って来た。
ふわりと大きなタオルを頭に掛け、優しい手つきでぽんぽんと髪の湿気を取り除いてくれる。
優しいな……。
ロゼはやんわりとアーキンスの手を退け、タオルを受け取る。
「申し訳ありません、伯爵。私のせいであなたまでびしょ濡れになってしまいました」
もう最初からずぶ濡れだった私なんて構わなくても良かったのに。
そう思っているとアーキンスはロゼに言う。
「お気になさらず。それにしても……正門でお待ちしていたのですが、何故裏門の方へ?」
ロゼはホールの端に立っていたカインがギクッと肩を跳ね上げるのを見逃さなかった。
あの従者の独断での嫌がらせだったようで、アーキンス自身は正門で迎えの準備をしていてくれたことが分かる。従者による嫌がらせを疑ってはいないようだ。
ロゼはジッとカインを睨む。ロゼの視線に気付いたカインが視線を逸らし、顔色を悪くするのを見て、鼻で笑ってしまった。
主の伴侶となる自分に嫌がらせをして、それが露見し、主の機嫌を損ねるのを恐れている。
むしろ、どうしてこんな子どもじみた嫌がらせをしたのか知りたい。
私が泣きながら来た道を引き返すとでも思ったのかしら?
あの御者はきっとカインに命じられてやったのだ。裏門に馬車を停め、カインが姿を消して一人で立ち尽くすロゼに引き返す選択肢を与えるように。
上等だわ。
「ご心配をお掛けして申し訳ありません、伯爵。とても素敵なお城でしたので、中に入る前にお庭を散策したくなってしまい……つい、夢中になってしまって、迷ってしまったのです。大変申し訳ありませんでした」
ロゼはしおらしくアーキンスに頭を下げる。
到着早々、結構な歓迎を受けたことは感じさせないように振舞った。
私はこんなことで音を上げる女じゃないわよ。
「そうでしたか。日を改めて案内させましょう」
アーキンスはそう言って小さく頷く。
「寛大なお心に感謝致します、伯爵」
お互いびしょ濡れな上に、身体が冷えているので入浴と着替えを済ませることになった。
ロゼは広い浴場に通され、お湯に浸かって身体を温めた。
その際もロゼを豚のようだという声はひっきりなしに聞こえてきたが、声と顔と名前を覚えるのに徹し、睨み返すに留める。
脱衣場で身体を拭き、持って来た服に着替えるが、『シーツみたい』と嘲笑う声が聞え、ロゼは溜息をついた。
「ここのメイドは随分とお喋りみたいね。メイドを止めて噺家にでもなれば? 手よりも口の方がよく動くみたいだし」
ロゼの言葉にメイドはそれ以降、何も言わなくなった。
「奥様、旦那様がお呼びです」
最低限の身支度を終えたロゼに、一人のメイドが言った。
明るい茶髪が特徴の若いメイドは他のメイドからリナと呼ばれていた。
「どこへ向かえば良いのかしら?」
ロゼが訊ねるとリナはあからさまに面倒くさそうな顔をして「こちらです」と渋々ロゼを案内しようとする。
「あら、随分と嫌そうな顔をするのね。良いのよ、別に案内してくれなくても。後から伯爵にありのままを伝えるだけだから」
ロゼの言葉にリナは眉を顰め、口を開く。
「旦那様が来たばかりのあなたの言葉にどれほど耳を貸してくれるかしら?」
「さぁ? どうかしらね。だけど、妻である私と一介の使用人でしかないあなたでは言葉の重みが違うのよ」
ロゼが鼻で笑ってやるとリナは忌々しいと言わんばかりの表情をして、口を噤んだ。
メイドの教育はどうかと思うけど、伯爵は優しそう。
存在感の強い羊の顔は置いておいて、物腰は柔らかく、紳士的で、優しい雰囲気の人だったことを思い出す。
あの人なら結婚生活も何とかなるかもしれない。
「こちらです」
リナに案内され、ロゼはアーキンスの待つ談話室まで移動した。
「失礼致します」
「どうぞ」
ロゼは重厚感のある扉をノックし、部屋に入る。
扉を開けると着替えを済ませたアーキンスが椅子に腰を降ろして座っていた。
広い机を挟んで向かいに座るように促され、ロゼは椅子に腰を降ろす。
アーキンスはリナにお茶を淹れるように命じ、部屋に二人きりになる。
「この度は急な話にも関わらず、応じて下さり、感謝致します」
アーキンスは表情の読めない顔で口を開いた。
「…………必要かどうかは分かりませんが、恋人でも愛人でもどうぞお好きなように」
その衝撃的な言葉にロゼは目を見開く。




