第9話 初めてのお弁当差し入れと、社長室の独占欲
実家からの刺客を撃退し、蓮さんへのおねだり(毎日のハグ)を受け入れてから、さらに数日が経った。
二人の同居生活は、驚くほど順調で、そして信じられないくらい甘い時間を刻んでいる。
そして今日、私は少し緊張しながら、洗練された高層ビルが立ち並ぶオフィス街を歩いていた。
手にあるのは、丁寧に包まれた大きめの保温お弁当箱。
「莉奈、今日の昼、もし時間が空いているなら……会社にお弁当を届けてくれないか? 午後から大きなプレゼンがあって、お前の飯を食べないと気合が入らないんだ」
今朝、出がけに蓮さんからそう懇願されたのだ。
捨てられた子犬のような目で頼まれては、断れるはずがない。
私はプロの家政婦としての血が騒ぎ、蓮さんの大好物であるローストビーフの残りをアレンジした『特製ローストビーフカツサンド』と、彩り鮮やかな『夏野菜のコンソメスープ』を用意した。
カツサンドは、ジューシーなお肉に自家製の濃厚ソースがたっぷり絡んでいて、ボリュームも満点だ。
「ここが、イノベーション・ゲートの本社……。すごい、ホテルのロビーみたい」
ガラス張りの巨大なロビーに気圧されながら受付へ向かうと、そこにはすでに、蓮さんの秘書である高橋さんが待ってくれていた。
「お待ちしておりました、莉奈様。社長がお首を長くしてお待ちです。さあ、こちらへ」
「あ、高橋さん! すみません、お忙しいのにわざわざお迎えなんて……」
高橋さんに案内され、専用のシースルーエレベーターで最上階の社長室へと向かう。
すれ違う社員の方たちが、地味な服装の私を見て「あの人は誰?」とヒソヒソと囁き合っているのが聞こえて、少し身が縮こまる。
やっぱり、私みたいな人間がここへ来るのは場違いだったかもしれない。
そんな不安を抱えながら、重厚な社長室のドアが開いた。
「莉奈……! 本当に来てくれたんだな!」
ドアが開いた瞬間、デスクにいた蓮さんがバッと立ち上がり、大股で私に駆け寄ってきた。
そして、秘書の高橋さんが後ろにいるのも構わず、私の両手をがっしりと握りしめた。
切れ長の瞳が、まるで宝物を見つけたかのように輝いている。
「はい、蓮さん。お約束通り、お弁当をお持ちしました。午後からのプレゼン、応援していますね」
私が微笑んでお弁当箱を差し出すと、蓮さんはそれを愛おしそうに受け取り、私の手を引いて応接用のふかふかなソファへと座らせた。
「高橋、1時間、誰の入室も許可するな。電話もすべて取り次ぐな」
「かしこまりました、社長。どうぞお二人で、ごゆっくり『補給』なさってください」
高橋さんは全部を察したようなニヤニヤ顔で、静かに社長室のドアを閉めた。
部屋に二人きりになると、蓮さんはさっそくお弁当の包みを解いた。
中から現れた、分厚いローストビーフカツサンドを見た瞬間、蓮さんの口元がだらしなく緩む。
「……これは素晴らしいな。カツの衣の香ばしい匂いと、ソースの甘い香りがたまらない」
蓮さんは大きな口で、カツサンドをガブッと頬張った。
サクッ、と衣のいい音が響く。
咀嚼するごとに、蓮さんの表情が至福の色に染まっていく。
「美味すぎる……! お肉が信じられないくらい柔らかくて、噛むたびに溢れる肉汁と特製ソースが絶妙に絡み合っている。スープも野菜の旨味が凝縮されていて、冷えた身体に染み渡るようだ」
「よかったです! 午後からの仕事に活力が湧くように、少し濃いめの味付けにしてみたんです」
「莉奈……俺は今、世界で一番幸せな男だ。このカツサンドのためなら、どんな困難なビジネスも成功させてみせる」
蓮さんは真顔で大真面目なことを言いながら、あっという間にカツサンドをすべて平らげてしまった。
食後のコーヒーを淹れて差し出すと、蓮さんはそれを一口飲み、満足そうにソファの背もたれに体を預けた。
そして、私の隣にすっと席を詰め、自然な動作で私の肩を抱き寄せた。
「あ、あの、蓮さん……? ここは会社ですよ……?」
「誰も入ってこないから問題ない。……莉奈、さっき受付やエレベーターで、社員に変な目をされなかったか?」
蓮さんの声が、少しだけ低く、独占欲を孕んだものに変わる。
「え? ああ、少し見られた気はしますけど……私は気にしてないですよ?」
「俺が気にするんだ。お前があまりにも魅力的だから、変な虫がつかないか心配で仕方がない」
蓮さんは私の髪を優しく愛おしそうに撫で、その端正な顔を私の顔へと近づけてきた。
息がかかるほどの距離。
彼の深い瞳が、じっと私を射抜く。
「今日のプレゼンが成功したら、一ノ瀬グループの全社員が集まる記念パーティーがある。そこに、俺の正式な婚約者として、お前を連れていきたい」
「ええっ!? そんな華やかな場所に、私なんか……!」
「『私なんか』と言わせないために、俺のゴールドカードがあると言っただろう。最高のドレスと宝石で、お前を世界一美しい花嫁に変えてみせる。あのクソ元カレや、実家の連中が二度と手出しできないくらい、高い場所へお前を連れて行く」
蓮さんの言葉には、絶対的な自信と、私への溢れんばかりの愛が詰まっていた。
「莉奈、俺を信じて、ついてきてくれるか?」
その真っ直ぐな瞳に見つめられて、私の胸の奥が高鳴る。
もう、自分の気持ちに嘘はつけない。
私は、蓮さんの胸にそっと頭を預け、小さく、だけど確かに頷いた。
「はい、蓮さん。私でよければ……どこまでも、ついていきます」
私の、初めての差し入れ。
それはこれからの二人の生活が、さらに新しく、そして甘く変化していく素晴らしい前哨戦となったのだった。




