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第8話 限界社長の甘いおねだりと、不意打ちの自覚

警察が到着し、れんさんの実家のお母さまたちが連行されていったあと。

嵐が去ったあとのリビングは、嘘のように静まり返っていた。


大男たちに詰め寄られた時は生きた心地がしなかったけれど、今はそれとは全く別の理由で、私の心臓が爆発しそうになっていた。


なぜなら――。


「……莉奈りな


「は、はいっ!」


ソファに座った蓮さんに、後ろからぎゅっと抱きしめられたまま、もう30分以上も解放されていないからだ。

蓮さんは私の肩口に頭を埋め、まるで充電でもするかのように、深く、何度も息を吸い込んでいる。


「蓮さん、あの……もう警察の人も行っちゃいましたし、私は大丈夫ですから、そろそろ離していただいても……」


私が恐る恐る声をかけると、蓮さんはさらに腕の力を強め、私の背中に胸を押し付けてきた。


「嫌だ。まだ離さない。……俺がどれだけ肝を冷やしたか分かっているのか? 会社でアラートが鳴った瞬間、すべての予定を放り投げて車を飛ばしてきたんだぞ」


低い、少し子供のようにねた声。

お昼にあれだけの修羅場を圧倒的な権力で制裁した、あの冷徹な社長と同一人物とは到底思えない。


「莉奈が傷つけられたら、俺は本当にあの本家を今すぐ叩き潰すところだった。……怖かったろう。守るのが遅れてすまない」


蓮さんの声は、かすかに震えていた。

私の心配をして、本気で怒り、本気で怯えてくれた。

その温かさと優しさが、私の背中からじんわりと伝わっ

てきて、胸の奥がキュンと切なく締め付けられる。


元カレの翔太は、私が困っていても『自分のことは自分で何とかしろよ』と突き放す人だった。

それなのに、蓮さんは出会って数日しか経っていない私のために、自分のキャリアも実家もすべてを敵に回して守ってくれたのだ。


「ううん、怖くなかったです。蓮さんが助けに来てくれるって、信じていましたから。……それにね、蓮さん」


私は蓮さんの腕の中で、そっと振り返り、彼の綺麗な切れ長の目を見つめた。


「お母さまに3000万円を突きつけられた時、私、一瞬も揺らがなかったんです。お金が欲しくないわけじゃない。でも、私をこんなに必要としてくれて、私の料理を美味しいって食べてくれる蓮さんを裏切るなんて、絶対に嫌だなって思ったんです」


私の言葉を聞いた瞬間、蓮さんはハッと目を見開いた。

そして、その白い頬が、みるみるうちに綺麗な林檎りんご色に染まっていく。


「……莉奈」


「ひゃっ!?」


蓮さんは突然、私の両肩を掴むと、そのままソファに押し倒すようにして顔を近づけてきた。

至近距離で見つめ合う。

彼の熱い視線が、私の唇と目をせわしなく往復している。


「そんなことを言われたら、俺の理性が保てなくなる。……今すぐ契約書を破り捨てて、本当に俺の妻になってくれと言ったら、お前はどうする?」


「え、あ……う、うう……」


あまりの破壊力に、私の頭は湯気を上げて真っ白になる。


夫婦の練習、どころの騒ぎじゃない。

これはもう、本気の告白だ。


私が恥ずかしさのあまり両手で顔を覆うと、蓮さんはフッと優しく、だけど切なそうに笑って、私の額にそっと自分の額をコツンと当ててきた。


「意地悪がすぎたな。お前が元カレのせいで傷つき、臆病になっているのは分かっている。無理に答えを急がせるつもりはない」


蓮さんは私の手を優しく取り、その手の甲に、誓いを立てるようにそっと唇を寄せた。


「だが、今日の『お礼』として、一つだけおねだりを聞いてほしい」


「お、おねだり……ですか? 私にできることなら何でも……!」


私がコクコクと激しくうなずくと、蓮さんは満足そうに口元を歪め、最高に魅力的な笑みを浮かべた。


「今夜の夕食は、お前が仕込もうとしていたローストビーフの残りで、贅沢な『ローストビーフ丼』を作ってほしい。それと――」


蓮さんは私の耳元に顔を寄せ、悪戯いたずらっぽくささやいた。


「これからは、俺が仕事から帰ってきたら、毎日玄関でハグをして迎えてくれ。『おかえりなさい、蓮さん』とな。これが、今日お前を守った俺への報酬だ」


「えええええっ!? ま、毎日ハグですか!?」


「嫌か?」


蓮さんが少し捨てられた子犬のような目で私を見つめてくる。


ずるい。

そんな顔をされたら、断れるわけがない。


「……い、嫌じゃ、ないです。蓮さん、がそれでいいなら……」


私が蚊の鳴くような声で答えると、蓮さんは今日一番の、子供のような無邪気な笑顔を咲かせた。


その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥で、カラン、と何かが心地よく音を立てて外れた気がした。


(あぁ、私……もう、この人のことが――)

偽装結婚生活が始まって、まだ数日。


だけど、私の心は、この過保護で甘すぎる社長に、完全に掴まれてしまっていたのだった。

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